日が落ちた街は、人通りが絶える。首都の方では夜でも賑わいがあるが、柳州では夜はあまり出歩かないのだという。

「江南の方には、夜に出歩くと鬼に遭うって迷信があるんだ。まあ単に、治安が良くないっていう理由もあるけど」

 洛風ルオフォンは夜道でも迷いなく歩く。夜静イェジンはろくに見えないので、洛風に手を引いてもらっていた。


 楚氏義荘の方には微かに提灯の明かりが見えた。そのぼんやりとした明かりの元に、無数の黒い人影が集まっている。

「すごい人ですね」

「誰も喋ってないのが怖いな」

 義荘からは線香の香りが漂っている。墓場の匂いだ。ずらりと義荘の大門の前に集まった人々は、茫洋とした目で宙を見つめている。線香の匂いの中に妙な異臭が混じっているから、それのせいかもしれない。


 大門は微かに開き、番人は虚ろな表情で門の前に立ち尽くしていた。

「中に入れないでしょうか」

「俺一人なら気づかれないけど、道長はな……」

 足を引きずる音はどうやっても消せない。洛風は顔をしかめて考え込んでいたが、ふと表情を明るくした。

「前みたいに抱えれば大丈夫だ。道長、絶対動くなよ」

「え」

 あっという間に片腕で脇に抱えられる。足が浮くのが怖くてじたばた藻掻くと、「じっとしろ」と囁かれた。

「軽いから落とさねえよ。なるべく動かないで、できれば息も止めて」

 有無を言わせぬ口調だった。だが、丸太のように片腕で抱えられている状況で落ち着けるはずもない。必死に手で口を塞ぐと、洛風は足音を立てずに素早く大門へと近づいた。


 大門へと近づいても、番人は反応しない。線香に混じっているもののせいだろう。夜静は毒に耐性があるが、洛風がなぜ平気なのかは分からなかった。

 大門をすり抜ける。部屋の中は真っ暗で、夜静には何も見えなかった。洛風は身をかがめて素早く棺の陰に隠れると、夜静をそっと下ろした。

「あっちに霊玉リンユー真人、こっちに楚氏。娘の棺は真ん中にある」

 洛風の説明で、ぼんやりと人影が見え始めた。一番奥にいる霊玉真人は、思ったよりも若い男だった。三十ほどだろうか。楚氏の夫婦は娘の棺に縋るような眼差しを向け、拝むように手を合わせていた。


「道長、こっちに来て。よく見える」

 洛風と位置を代わると、霊玉真人の正面になる。彼は目を閉じ、娘の棺に手を触れていた。

 盾にしている棺に触れると、ひどく冷えていた。死人の温度だ。義荘の中はひどく寒くて、嫌な悪寒が背筋を走る。

 そのまま二人は黙って成り行きを見守った。


 霊玉真人は懐から呪符を取り出し、棺の蓋に手を掛ける。三人がかりで蓋をずらし、その中に呪符を入れた。

 ついで霊玉真人は壺を取り出し、娘の髪を一房切り取って入れた。義荘の床に血のような朱で描かれた陣の中心に壺を置き、低い声で何か呟いている。

 暗い闇の中、陣の細かい部分までは見えない。だが、手順は夜静の知っているものと大体が同じだった。


 霊玉真人は〈赤釵〉の道士――?


 だが、それなら夜静が知らないはずはない。霊玉真人の顔は、まったく見覚えのないものだった。


 地を這うような低い声は、時に高くなったり、弱くなったり強くなったり、波のようにうねって義荘に満ちる。確かに力のある道士だと、夜静は思う。だが、それだけでは死人は蘇らない。

 澄んだ綺麗な声を、楚氏の夫婦は項垂れるようにして聞いていた。挽歌のようだ。


 時間の感覚を失った。一瞬なのか、あるいは何時辰も経っていたのかもしれない。やがて、霊玉真人の声音に狼狽えの色が混じった。

「なぜ――」

 棺は静かにあるだけで、いつまで経っても何の変化も起こらない。楚氏の夫婦は、不安げに問う。

「あの、霊玉真人……どうされました?」

「何か不都合でも?」

「いえ、少々お待ちください」

 霊玉真人は床にかがみ、自分の描いた陣を丁寧に調べる。間違いは見つからなかったのか、困惑したような表情が僅かに見えた。


「道長」

 洛風が囁くように問う。

「失敗するだろうって言ってたけど、なんで分かったんだよ?」

「必要なものが足りないからです」

 素っ気なく答え、夜静は目を細めて霊玉真人たちの様子を見つめる。霊玉真人は戸惑ったように手を彷徨わせ、ついで気を取り直したのか先ほどのように呪文を唱え始めた。


 だが、それから何度試しても儀式は上手くいかなかった。棺の中の娘は少しも動かず、楚氏夫婦の顔には失望が浮かぶ。霊玉真人は余裕を失い、品の良い白い顔は焦りで歪んでいた。やがて、我慢の限界が来たように父親の方が言った。

「霊玉真人、無理なら無理と仰ってください。貴方は妻の病気を治してくれた。その実力は疑わないが、だがやはり死人を蘇らせるなんて……」

「いえ、いいえ、お願いです。もう少しだけ試してください! お金なら払いますから――」

「おい!」

「厭よ、なんで簡単に諦めるの⁉ 貴方は娘のことを可愛がっていなかったからっ……」

「何を言っているんだ!」

「お願いです、霊玉真人! 私の阿梨アーリーを返して!」

 楚氏夫婦は口論を始める。霊玉真人は何度も陣を描き直していたが、やがて耐えがたいほどの腐臭が漂ってきた。棺の蓋を開けたせいだろうか。だが――。


「道長」


 洛風の声に緊張が滲む。


「なんか変だぞ」

「何がです?」

「この臭い」


 この棺から臭っていると、盾にしていた棺を洛風は指差した。


 突然、目の前の棺の蓋が跳ねあがった。

 石の蓋が地面に激突し、石屑と埃が舞う。耳が痛くなるような衝突音に三人は振り返った。夜静と洛風は、見つからないように身を縮める。

「なんなんだ!」

 怯えの混じった怒鳴り声が響いた。母親は狼狽えたようにつっかえながら何か言っている。

「あ、ああ、貴方、あれ、」

「なんだ、はっきり言え!」

「あれ、あ――阿軒アーシェンよ! あの子――動いてる!」

 母親が叫ぶ。縋りつかれた父親の方は、信じられないというように怒鳴った。

「バカを言うな! 阿軒は死んでるだろうが! あれは、」


 棺の中から、ふらりと人影が立ち上がった。

 耐えがたい腐臭がさらに濃くなる。それは、立ち上がった者から発せられていた。

 夜静からは、死装束の白い背しか見えない。その背は震え、獣のような唸り声が地を這い、義荘の闇を揺らしていた。

 霊玉真人の震える声が聞こえる。

「蘇った――本当に」


 だがそれは、柳州侯の娘ではなかった。別の人間が蘇ってしまったのだ。

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