匕首で刺した傷は晒しで締め付けたが、右足まで痛むようになると歩くのが面倒になる。楚氏義荘で蘇りの儀式が行われるまで動かず大人しくしようと思っていたが、それ以前に問題があった。

「え?」

「だから……少しお金を貸してください……」

 柳州まで来るのに、碧華洞から無断で持ち去った路銀はほとんど使い切ってしまっていた。昨晩の宿代を払うので精一杯だ。恥を忍んで洛風ルオフォンに頼むと、彼は奇妙な顔をした。

「別にいいけど、道長どこで寝るんだよ?」

「今日は野宿します。ただ食べものだけは抜かせないので」

「いや、野宿は無茶だと思う……宿代も貸すよ。それでいいだろ」

「いいんですか?」

「俺、金持ってるし」

 あっけらかんとそう言う。そういえば、洛風はなぜか新しい衣服を着ていた。


「その服、買ったんですか?」

「ん? うん。いいだろ。道長も買う?」

「私はいいです。……でも、いつ買ったんです? 夜は店が開いてないのに」

「そこはそれ。ちゃんと金は払ったよ」

 疑いの目に気づいたのか、慌ててそう弁明する。怪しいものだが、金を持っているというのは嘘ではないだろう。洛風は分厚く膨らんだ財嚢さいふを持っていた。


 気前よく貸してくれた金をありがたく受け取り、ついでのように夜静イェジンは頼む。

「あの、何か食べるものを買ってきてくれませんか。歩きたくなくて」

「はいはい。道長ってほんと人使い荒いよな」

 呆れたように洛風は宿を出て行く。文句を言うが、朝になったら訪ねてきたのは向こうの方だ。関わりたくないなら訪ねてこなければいいだろうにと思う。


 しばらくして戻ってきた洛風は、両手いっぱいに大量の食糧を抱えていた。投げられた饅頭マントウを受け取る。洛風は床に座り込んで自分も食べ出した。

 一口齧り、夜静は呟く。

「不味いですね」

「そりゃ庶民の食いもんだからな。道長、よく一人で柳州まで来られたな」

「あのですね、私は子どもじゃありませんよ。貴方は一体どんな風に思ってるんです」

「箱入りの公主様おひめさま

「……」


 咳払いし、夜静は厳かに言った。

「私は貴方より十も年上です。目上に対する礼儀は習いませんでしたか」

「俺は十分敬ってると思うよ」

「バカにしてるの間違いでは? なんですか公主様おひめさまって」

「だってそんな感じだもん。ほら、その手」

「手?」

 自分の手を見る。杖を握る方は少し荒れているが、それでも白魚のように綺麗な手だった。

「庶民はそんな手じゃねえよ」

「手は傷つけるわけにはいかないので。道士が印も結べなくなったら意味無いでしょう」

「そんなもんなの? まあいいや。というか、いい加減教えてくれないのか? なんで霊玉リンユー真人を捕まえたいんだ? 道長はなんか知ってるんだろ?」

 もそもそした饅頭が喉に詰まる。咳き込んでいると、洛風が背をさすってくれた。確かにこれでは年上の威厳なんて無い。


「別に隠し事するなとか言ってないよ。俺だって道長に言ってないことだらけだし」

 そういえば、名前と年齢くらいしか知らない。そんな相手とここまで一緒にいる自分に呆れたが、洛風に対する警戒がいつの間にか徐々に消えていた。

「でも、霊玉真人のやってることがどういうことなのかくらいは教えてくれよ。どうせ捕まえるのは俺だろ? なら危険な目には遭いたくないしさ」

 あまり考えていなかったが、確かにその通りだ。この身体では霊玉真人がもしかなりの老人だったとしても捕まえられないだろう。

「あ、貴方も付いてくるんですか?」

「危なっかしくて見てられないから。面白そうだし手伝うよ」

「でも、お礼とか何も持ってませんけど……」

「期待してないし、分かってる」

 そういえば金を借りたばかりだ。当然のように頷かれ、複雑な気分になった。


 洛風の言うことはいちいちもっともだった。自分自身のこと以外なら話しても支障は出ないだろうと考え、夜静は躊躇いながら口を開いた。

「霊玉真人はどんな病でも治す……という話でしたが、もちろん道術はそんなに万能ではありません。私が話を聞いて考えたのは、ある呪いです」

「呪い?」

「ええ。他人に病を植え付ける呪いです。病人から呪いたい相手に病を移し替える。霊玉真人は治しているのではなく、病を誰かに移しているのだと思います。そもそも人を呪うためのものなので、こんな風に使っているのは驚きましたが……」

 もっと詳しく言うと、この術は〈赤釵〉に伝わるもので一般的な道術ではないのだが、そこまで洛風に言う必要はないだろう。


 ――霊玉真人は〈赤釵〉の術を使っている。


 病を勝手に誰かに移してそれを奇跡であるかのように見せる振る舞いより、そのことが気になった。〈赤釵〉は表に出ないものであり、つまり霊玉真人は〈赤釵〉の術をはずなのだ。いくら抜けたとはいえ、それは看過できない。外部に漏れているのなら、元凶を捕えなければならなかった。


 さらに、死人を蘇らせるという儀式。

 それもおそらく、〈赤釵〉の術だ。正確に言えば、夜静の生み出した術だった。


「じゃあ道長は、病を移されてる誰かを助けるために捕まえたいってことか?」

「まあ、そうですね」

 そう解釈してくれるのならば好都合だ。平然と頷いたが、嘘臭いなと自分でも思った。

 洛風は納得したのかしていないのか、首を傾けて床を睨んでいる。それからぱっと顔を上げ、にっこり笑った。

「道長、良い人だな」

「……えっ……あ、……はい」

 予想外の言葉に狼狽えた。羞恥のせいで顔が熱くなる。

 良い人――まるで違う。霊玉真人の被害に遭っている顔も知らない誰かのことなんて、夜静の中では後回しだった。

 もしかしたら洛風は思った以上に素直なのかもしれない。人を疑うことを知らないのだろうかと、夜静は勝手に心配した。


「でもさ、霊玉真人を捕まえても病は元に戻せるのか? というかそんなことしていいのかな」

「……そうですね。元に戻すことは可能です。が……」

 呪詛返し。それは霊玉真人ではなく元々の病人に返ってくる。おそらく純粋に奇跡だと喜んでいるはずの彼らを再び絶望させるのは、夜静も気が進まなかった。

「でも本来なら彼らがずっと背負うものです。元に戻すしかないでしょうね。あと気になるのは、病を移した相手ですが……無作為に選んだのか、それとも……」

 呪符には病を移したい相手の名前を書かなくてはいけない。霊玉真人は自分の呪いたい相手の名前を書いただろうか。

 洛風も同じことを考えたのか、吐き捨てるように言った。

「まあ、捕まえて訊けば色々分かるだろ。俺が吐かせるよ」

 その迫力にただ頷くしかなかった。彼は立ち上がると、ひらひらと手を振った。

「じゃあな。道長はちゃんと休んどけよ。顔色悪いぞ」

 飄々とそう言って、洛風は部屋を出て行った。

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