柔らかな眼差しが夜静イェジンを見つめていた。控えめな笑みを浮かべ、文清ウェンチンは俯く。

大哥にいさん

 囁くような声だった。

「ごめんなさい」

 白い首がゆらゆら揺れている。静脈の透ける手が、細い指が、彼の首に食い込む。ごめんなさいと繰返しながら、彼は自分で自分の首を絞める。

「ご、ごめ――ご、お、え――なさ――」

 爪の食い込んだ肌にぷつりと血の玉が浮く。暗赤色の血が白い首を濡らしていく。それでも手を離さない。白い道服に黒い染みが広がる。

 流れた血が文清の足元に血溜まりを作り、それが見る見る広がった。泥沼のように足を取られて、夜静はよろめく。杖を突くと、粘ついた血が跳ねて裾を汚した。

大哥にいさん

 虚ろな眼窩が向けられた。ぽっかりと開いた口から、醜悪な言葉が漏れる。

「貴方のせいだ」


 夜静は懐から匕首を出し、それを自分の右足に突き立てた。



 目の覚めるような痛みとともに、洛風ルオフォンの大声が飛び込んできた。


「何やってんだよ!」


 ぐらぐらと身体を揺すぶられていた。我に返り、夜静は眉をひそめて洛風を見つめる。

「いた……痛いです。揺すらないで」

 右足には匕首が突き刺さったままだ。無造作に抜こうとすると、駄目だと怒ったように止められた。

「抜いたらもっと血が出るだろ! そのままで固定するからじっとして」

 言い終わる前から彼は晒し布で手早く匕首を固定した。大丈夫ですと言う隙もない。

「急に動かなくなったし突然自分の足刺すし、何なんだよ! 道長、あんた警戒心とかどこに置いて来たんだ?」

「わ、私は悪くないです。質の悪い罠に引っ掛かっただけで――というか、貴方の大声のせいで誰かに気づかれたらどうするんですか」

「こういう時はさっさと逃げるんだよ! ほら」

 とっくに棺の蓋は閉められ、逃げる準備は万端のようだ。洛風は跪き、夜静に背を向ける。意味が分からずに突っ立っていると、苛立ったように急かされた。

「早くしろ! 捕まりたくないだろ!」

「いや……何やってるんですか?」

「背負うから乗れって」

「え、嫌ですよ……」

「……」

 洛風はさっきから夜静を何もできない子どもか老人のように扱うが、そこまで弱っていないと自分では思っていた。当然のようにそう答えると、彼は突然黙り込む。それから立ち上がると、無遠慮に夜静の肩を掴んだ。

「じゃあ悪いけど、抱えるから」

 杖落とすなよ、と洛風は嫌な笑みを浮かべた。



 酷い目に遭った。

 宿の部屋で夜静は寝込んでいる。青ざめているのは、酔って気分が悪くなったからだ。洛風は夜静を抱えたまま目を覚ました番人を蹴飛ばしたり全力で走ったり――とにかく酷い目に遭った。

「飲めるか?」

 白湯の入った湯呑を差し出してくるのは、寝込んだ原因になった張本人だ。恨めし気に睨むと、彼は肩をすくめる。

「仕方ないだろ。ああしなきゃ、絶対捕まってたんだし」

「でも、もっと気を遣えなかったんですか……」

「我儘だなあ。こっちだって焦ってたんだよ。わりと怖かったんだぞ。なんで自分の足刺すんだよ。罠って言ってたけど、あの模様か?」

「そうです。遺体に悪戯されないようにでしょう。……嫌なものを見て」

「ふうん」

 詳しく訊こうとしないのがありがたかった。――が。


「貴方、なんでいるんです」


 当然のように同じ宿の部屋にいるが、窮屈なことこの上ないし許可した記憶もない。だが、洛風は首を傾げて言った。

「問題あるか? 大体ここ、俺が取った部屋だけど?」

「なら私が出ます」

「相部屋でいいだろ。金も浮くし」

「他人と同部屋は嫌なんです」

 壊死した左足はさすがに人に見られたくない。這いずって寝台から出ようとしているのを見て、慌てたように洛風は言った。

「分かったよ。俺が別のとこに移るから、宿代だけ後でくれ。また明日」

「もう来なくていいですよ」

「そう言うなよ。俺達もう友人じゃないか?」

「いつそうなったんです」

「冷たいな、道長。俺は役に立ってるだろ?」

「……」

 無視して毛布を被って目を閉じる。含み笑いの後で、「おやすみ」という声が聞こえた。


 ***


 洛風は暗い夜道に一人立っていた。

 闇に沈む街並を僅かな月明かりが照らしている。洛風の姿は闇に溶け、輪郭すら定かではなかった。

 温い風が吹いている。洛風は腰の剣に手を掛け、薄ら笑いを浮かべて囁いた。


「出てこいよ。義荘からずっとつけてただろ?」


 反応は無い。だが、洛風を窺う気配が二つ、三つ――


 背後から唸るような風の音が聞こえた。


 咄嗟に前に倒れ込む。空を切り裂いた矢は、柳の幹に突き刺さった。剣を抜いて身を起こし、暗闇に目を凝らす。

 遥か先の草陰に、濃い色の頭巾を被った人影が辛うじて見えた。手には弓を持ち、次の矢をつがえている。

 次の矢が発射される前に、洛風は走った。相手が驚いて逃げようと身体を起こした瞬間に、懐の匕首を投げつける。正確に右腕に突き刺さり、相手は弓を取り落として一瞬動きを止めた。

 その隙に肉薄し、容赦なく喉を切り裂く。さらに這いずって逃げようとしたのを、腱を切って阻止した。


 付いた血脂を払っていると、右手から短刀が飛んできた。

 剣で弾いて防ぐ。落ちた短刀は河へ投げ捨て、短刀が飛んでくる方向に向かって駆け出した。


 逃げる背が見えた。だが遅い。洛風は手を伸ばして襟首を掴むと後ろへ引き倒す。襲撃者はくぐもった悲鳴を上げ、バタバタと藻掻いた。

「うるせえよ」

 素早く喉を裂き、河へと蹴落とす。鈍い衝撃音がして、水飛沫が頬に掛かった。


 さらにもう一人、背後から斬りかかってきた。振り向きざまに剣で受け止める。頭巾で表情は分からないが、はっきりと殺意を感じた。

 突き出される剣を捌く。洛風は余裕の笑みを浮かべ、囁いた。

「お前ら何なんだ? 道長を狙ってんのか?」

 喉元に剣が突き出される。それを軽々と避け、洛風は襲撃者を思い切り蹴倒した。

 地面に倒れ込んだはずみで頭巾が取れる。現れたのはまだ若い男の顔だ。冷えた目には怯えはなく、じっと洛風を見つめ返している。


「あのな、俺は結構怒ってる。正直に答えろ。何で襲う?」


 喉元に剣先を突きつけ、問う。洛風の顔からは一切の表情が消えていた。

「三数える。答えないと指を一本ずつ切る。十本終わったら次は腕ごと斬り落とす。それでも答えなければ足で同じことをやる」

 淡々と言うと、初めて男の顔に僅かな嫌悪が浮かんだ。だがそれはすぐに消えて、拒絶するように目を閉じた。

「お前らを雇ったのは霊玉リンユー真人か?」

 答えない。三数えた後、宣言通り右の小指を斬り落とした。男の額に汗が滲む。だが声すら上げずに堪えていた。

「答えろ。狙いは俺じゃなく道長だろ? なんでだ」

 また答えない。次は薬指を斬り落とした。

 結局、彼は両手の指を全て失っても何も言わなかった。


「おい、このままだとダルマになるまで終わんねえぞ。あんまり道は汚したくないんだけどなあ」

 街路に血が染み込んでいる。鉄臭い匂いが広がり、鬱陶しそうに洛風は首を振った。

「血の臭いがつくだろ。道長にバレたら嫌だし、さっさと答えろって。誰の指図だ」

「……は」

 襲撃者の男は虚ろな目で嗤った。

「俺は、あの道士を……殺したいだけだ」

「なんで?」

「お前は……あいつが何を……したのか、知らないのか……? 何十人も殺した……ケダモノだ……」

「どうでもいいよ。俺だってあんたを殺すぞ」

「お前……気が触れてるんじゃないか」

「そうかもな」

 獰猛に笑う。男の腕を肩の付け根から斬り落とすと、ぐうと低い声で呻いた。

「答える気になった?」

 男はなおも首を横に振る。続けるか迷ったが、空が僅かに白んでいるのを見て洛風は言った。

「そうか。俺も別に人殺ししたいわけではないし、運が良ければ生きてるだろ」

 それだけ言い捨て、指と片腕を失った男を河に投げ落とした。


 血の痕だけが残った街路を見る。衣にも血が飛んでいて、顔をしかめた。夜静は血の汚れを気にするだろうか。嫌がるかもしれないなと洛風は思う。優しそうな顔をして、意外に我儘なのだ。

 洛風は新しい衣服を調達しに、鼻歌まじりに街路を歩いて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る