酒楼で向かい合い、夜静イェジンは探るような目線を相手に向けていた。青年は一向に気にせず喜んで酒を飲んでいる。

 彼は洛風ルオフォンと名乗った。言葉遣いは乱雑で荒々しい雰囲気もあるが、身なりは上等だ。さすがにこんな刺客はいないだろうとは思うが、夜静は別の疑念を抱いていた。


 ――死人を蘇らせる術。


 洛風が何を思ってそう言ったのか分からないが、言った相手が夜静だということがどうしても引っ掛かった。

 洛風は盃に酒を注ぐと、夜静の方に押し出した。

「飲まないのか?」

「……御覧の通り、身体が悪いのです。あまり飲んではいけなくて」

 嘘は言っていない。本当は飲みたくてたまらないが、この男の目の前で血を吐いて動けなくなるようなことは避けたかった。


 洛風はぴくりと眉をひそめ、首を傾げた。

「道長はそんなに悪いのか」

「臓腑もやられているので」

「病で?」

「……そうですね、まあ」

 悪事を成せば報いを受ける。単なる病ではなく、決して治ることはない呪いだった。


 洛風はしばらく不機嫌そうに盃を揺らしていたが、ふと目を上げた。

「じゃあ、ここに来たのは霊玉リンユー真人に病を治してもらうためなんだな」

「え?」

「違うのか?」

 お互いに怪訝な顔で相手を見る。夜静は遅れて微かに青ざめた。

 碧華洞に引きこもっていた十年で、世の中の常識が変わっていることは十分ありえる。しばらく考えた末に、夜静は窺うように洛風を見つめた。

「えっと……私の知る霊玉真人というのは、数百年も前に仙になった伝説の道士……だけど、実在……したんですね」

「……」

「……違いましたか」


 居た堪れないような沈黙の後、洛風は吹き出した。

「まさか! 実在したって、仙人は簡単に凡夫の前に姿は見せないだろ。俺が言ってんのは、霊玉真人だって呼ばれてる江湖郎中のことだ。仙人じゃなく、ただの人」

 江湖郎中とは、無償で医療を行う民間の医師のことだ。人々から尊敬され、道術を修めている者もいる。伝説の霊玉真人も治らないと言われた重病人を奇跡のような術で治したと言われていた。そこからついた通り名なのだろう。


「その実在する霊玉真人というのは、有名な方なんですか」

「そりゃもちろん。江南では知らない者はいないくらいだな。決して見返りを求めず、病の重い者なら誰でも助ける義人だ。柳州でも全盲の少女を助けたって噂になってる。しばらくはこの街にいるんじゃないか」

「それは……すごいですね。知らなかった」

 すごいというより、ありえない。それは一道士にできることではなく、まさに仙人としか言いようがなかった。茫然とする夜静を見て、洛風は低く笑う。

「北から来たんだろ? 訛りで分かる。知らなくても変じゃないが」

 彼は無遠慮に夜静の濁った右目を指差した。

「だから道長のその目も治せるかもしれないぞ。ま、滅多に姿を現さないらしいから捕まえられるか分からないけど」

 ようやく話が繋がった。夜静は微苦笑して首を横に振る。

「この目は……別に治らなくていいものです。私のこの身体は……」

 いくら仙人でも治せないだろう。だがそうは言わず、曖昧に答えた。

「自分のせいなので、治したいとは思っていません」


 ふうん、と洛風はつまらなそうに目を細めた。

「見苦しいのは分かっています。申し訳ない」

「そんなことはない。俺は欠けたものの方が好きだ。道長は良いと思うよ」

 思わず噎せた。持っていた湯呑を慌てて卓に置く。

 ――なんなんだ、この人。

 何を考えているのか、狼狽している夜静を見て機嫌良さげに笑っている。その笑顔は悪戯が成功した子どものようで、怒っても仕方ないような気がしてくるから不思議だ。

「あ、あのですね、お、驚きますから揶揄わないでください。それに、そういう言葉は侮辱にもなりえるんです。謹んだ方がいいですよ」

 後半は説教癖が出てしまった。〈赤釵〉でも言うことを聞かない者の処罰は夜静に任せられていたが、こんな理由で説教をしたのは初めてだと思う。


 洛風は眉を高く上げると、意味の分からない目つきで夜静を見つめた。

「揶揄うって? 道長は自分が醜いと思ってるのか」

「それは、そうですし」

 白濁した右目も白髪混じりの髪も病人のような肌色も、一般的には醜いとされるだろう。

「へえ」

 洛風はそう呟くと、それ以上この話は続けなかった。ほっとして、夜静は一番気になっていたことを訊いた。


「それで、死人を蘇らせる術というのはなんなんです?」

 そもそもそれが発端だった。でなければ、こんな怪しい男についていかない。夜静の問いに、洛風はにっと笑った。

「その霊玉真人だよ。自分は死人を蘇らせることができるって触れ回ってるんだ。どう思う?」

「どう思うも……普通なら不可能です。貴方はなぜ気にするんです」

「俺の母親が病気でさ、治るんなら治して欲しいと思って。でもそんな都合の良いことなんてあるのか分かんなくてさ」

 あっけらかんと洛風は言った。どう返せばいいのか分からず、「そうですか」と間抜けな相槌を打つ。


「さすがに死人を蘇らせるってのは嘘くさいだろ。だから道長に訊きたくて。普通なら不可能ってことは、普通じゃないならできるってこと?」

「はは……」

 不遜な物言いだが、その率直さは嫌いではなかった。

「そう……ですね。嘘だと思います。そもそも道士ならば蘇りではなく不老不死を謳うべきですし。霊玉真人が治した人というのは本当にいるんですか?」

「もちろん。俺、噂の全盲の子と会ったよ。元全盲だけど」

「え?」

 噂自体が嘘だと思っていたのだが、全盲の少女は実在したと洛風は言った。

「すごい感謝してたぞ。行き倒れそうになってた旅人を家に泊めたら、お礼に治してくれたって。本当に仙人みたいだったと」

「それは……」

 まさに霊玉真人の伝説のようだ。だが、ただの人間がそんなことをできるはずがない。

「どうやって治したんです?」

「なんか、護符を燃やしてその灰と自分の血を酒に溶かして飲んだって。それだけで治ったってさ」

「……」


 夜静の顔から血の気が引いた。紙のように白く、今にも倒れそうだ。いきなり立ち上がり、均衡を崩して倒れ込む。卓に手をついたら、その拍子に盃から酒が零れた。

 視界の端から黒く滲んで、貧血で倒れる前兆だと分かった。


「道長?」


 細い腕を洛風が掴む。その力強さに我に返る。真っ直ぐな双眸が夜静を射抜いた。

「その――霊玉真人――その人はどこです。捕まえないと――」

「落ち着けよ。誰もそいつの居場所は知らないんだ。道長の身体じゃ、柳州中を探し回るなんてできないだろ」

「い、いえ、――すみません、私はもう出ます」

「ちょっと待てって」

 杖を手によろめきながら歩き出す夜静を追い、洛風はその肩を掴んで振り向かせた。

「道長はこの街に詳しくないだろ。このままじゃ霊玉真人を捕まえるどころか行き倒れだよ。だから――」


「離しなさい」


 冷え冷えとした声だった。

 夜静の残った左目は凍えるような温度で洛風を見据えている。洛風は微かに目を見張ったが、手を離すことはしなかった。

「話を聞かせてくれてありがとう。貴方の母親のことは残念ですが、霊玉真人という人は。貴方ももう忘れなさい」

 夜静は肩を掴む手を払う。そのまま立ち去ろうとしたが、洛風の次の言葉で足は止まった。


「――道長、霊玉真人を捕まえたいんなら俺は現れる場所を知ってる」


「え?」

 勢いよく振り返った途端に、しりもちをついた。


「……ふ、」

 洛風は抑えきれずに吹き出した。

「……」

 緊迫した空気が緩んだ。この人の前で転んでばかりいると思うと、さすがに情けなくなってくる。上手く動かない左足を忌々しく睨みつけた。

 止まらなくなったのか、遠慮なく笑いながら洛風は手を差し出してくれた。恥ずかしさのあまり赤面しながら助け起こしてもらう。

「だからさ道長、俺も連れてってよ」

 そう言って、洛風は無邪気に笑った。

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