第一章 江湖郎中
一
高梁国の南に、
運河に囲まれた水都であり、風光明媚な観光地として有名だった。街には街路の他に水路があり、人や荷を積んだ船が行き交っている。いたるところに架けられた橋も工夫を凝らされた美しいもので、都の中心に位置する虹橋と呼ばれる半円を描いた橋が都を南北に分けていた。
その柳州の入り口である宣門に、杖をつく男が立っていた。感心したように賑わう街に目を向けている。その異様な風貌に視線が集まっていたが、一向に気にしないようだった。
彼の開かれた右目は白濁し、光を失っていた。逆に左目は黒真珠のように澄んで、目元には星座のように黒子が散っている。左足は引きずり、肌は病人のように青白い。まだ三十路を越しているようには見えないが、髪は幾筋か色が抜け、白くなっていた。髪を纏める珊瑚玉の簪は、歩くたびに瀟洒な音を鳴らす。
(碧華洞とは全然違う。ここはこんなに暖かいのか)
彼は碧華洞から逃げ出した〈赤釵〉の副首領――
見た目では分からないが、聴力も半分ほど失われ、臓腑も老人のようにボロボロだ。それでも彼は口の端に微かに笑みを湛えていた。
碧華洞はいつも暗く冷たく、静まり返っていた。柳州は逆に、どこを見ても活気があって人々もよく笑う。殺された者たちの恨みと自分の罪に押し潰されそうだった毎日がまるで夢のようだ。
碧華洞は牢獄だが、同時に命綱だった。あそこ以外では夜静は長く生きられない。でも、外に出たことは後悔していなかった。
外に出たのは十年ぶりだが、不安よりも期待が勝った。柳州は美しい上に名酒があると聞いていた。だから、酒に目が無い夜静は碧華洞から出て真っ直ぐに柳州に向かったのだ。
夜静は足を引きずりながら大街を歩く。少し歩いただけで息が切れる自分に苦笑し、近くにあった橋の欄干に凭れて休んだ。
水路の周りには柳が枝を伸ばし、水面は翠に色づいている。河を渡る船では宴が開かれていて、浮き立つような楽の音がここまで聞こえていた。河を望む岸には酒楼があり、客で賑わっている。その景色を見て、夜静はふと思った。
――ずっと洞の中にいた。地位を得て、功績を上げることに腐心した。命じられたことが陛下の為になると信じて、何も考えずに従い続けた。
それが正しいと思っていた。疑ったことなどない。誰を殺しても、心は動かない。これが世の為になるのだと本気で思っていた。
だが、「皇帝の為」が等しく世の為になるとは限らないのだ。
洞主は自分たちのことを義士だと言う。
どちらが正しいのか分からないが、たぶんどちらも少しずつ本当だろう。自分で頸を絞めて死んだ徐文清を思い出し、心が沈んだ。
彼は夜静のことを「
嫌なことを思い出してしまった。ため息をついて、欄干から離れる。どこに行こうかと思案していると、不意に近くの酒楼で騒ぎが起こった。
「おい、待ちやがれ! 誰か捕まえてくれ、金を盗まれた!」
浮浪者のような男が酒楼が駆け出し、人々を突き飛ばしながら橋を渡って来る。悲鳴と怒号が上がる中、男は血走った目で逃げている。後ろを追い掛けているのは酒楼の用心棒だろう。人混みのせいか、なかなか追いつけない。
視界が狭い夜静は咄嗟に動けず、容赦なく突き飛ばされた。
「あ――」
欄干に背中がぶつかる。均衡を崩し、嫌な浮遊感を覚えた。手から離れた杖が河へと放り出される。
河に落ちると覚悟した瞬間に、誰かに力強く引き戻された。
夜静を橋へと引き戻したのは、若い青年だった。
ずいぶん背が高く、決して低くない夜静も見上げるほどだ。黒髪を一つに結い、凛々しい眉に怖いほど真っ直ぐな目が印象的だった。動きやすそうな先の窄まった
それを見た途端に、夜静の顔から血の気が引いた。青年はじっと夜静を見つめ、ややあって口を開く。
「道長、大丈夫?」
夜静の着ている白い道服を見て「道長」と呼んだのだろう。声音は低いが、邪気は無い。
「あ……ええ。私は大丈夫です。助けてくれてありがとう」
しばらく茫然としていた。ようやく我に返り、慌てて青年に掴まれた腕を引き抜く。そのまま逃げるように立ち去ろうとしたが、杖が無いことを忘れていた。一歩踏み出した途端に転びかけ、再び青年に腕を掴まれる。
「気をつけて。足が悪いんだろ。俺が背負ってやるよ」
そう言って、青年は笑みを浮かべた。人懐っこい笑みだ。だが、親切にされる理由が分からず夜静には不気味に映った。
「い、いえ、大丈夫。ちょっとずつなら歩けます」
差し出される手を無視し、欄干に縋って歩く。それでも後ろを悠々とついてくる青年を見て、顔が引き攣るのを感じた。
(この人は――かなり強い。剣の遣い手だ)
抜けた〈赤釵〉は刺客に追われる。もう撒けたと思っていたが、彼がそうである可能性は否めない。死ぬのは仕方ないと思えるが、まだ柳州の酒を飲んでもいないのに殺されるのは無念だ。
それだけの理由でどうにか逃げようと考えていたのだが、橋を降りてしばらくすると、青年は自らどこかへ走り去っていった。拍子抜けしたが、警戒しすぎだったかもしれない。夜静は柳の木の下に座り込み、杖の代わりをどうしようかと思案した。
突き飛ばされた肩が痛む。無理をしたせいか、左足も無数の蟲に嚙まれているような激しい痛みと熱を発していた。長い裾の下には、黒く変色した左足がある。爪先から徐々に壊死して、今はもう膝下まで動かなくなっていた。
数度咳き込む。口元を抑えた手に血が零れた。こんな状態で酒を飲んだら文清は怒るだろうと思い、微かに笑みを浮かべる。
体調が落ち着くまで大人しくしようと思い、目を閉じる。賑やかな喧騒と人々の行き交う足音を聞くうちに、気づけば微睡んでいた。
「――道長、こんなところで寝たら何されるか分かんないぞ」
穏やかな微睡みは、笑みを含んだ低い声で壊された。
はっと目を開ける。いつの間にか夜静のそばに立ったさっきの青年は、その手に流されたはずの杖を握っていた。
「途中で船に拾われてた。良かったな」
そう言って杖を差し出す。茫然としながら受け取った。
「あの――ご親切に、どうも。でも、なぜ……」
青年はまた人懐っこい笑みを浮かべた。そうやって笑うと、かなり若く見える。
「なぜって、迷惑だったか?」
「まさか……でも、私は何も持ってませんよ」
「ん? いや別に。身体の不自由な人に親切にするのは当然なんだろ」
取って付けたようにそう言う。不審に思っているのが通じたのか、彼は困ったように眉を下げた。
「まあ、それだけじゃないけどさ。道長にちょっと訊きたいことがあるんだよ」
「……訊きたいこと?」
「道士なら詳しいんじゃないかと思って。なあ、死人を蘇らせる術って存在するか?」
その問いに、夜静は頭を殴られたような衝撃を受けた。
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