赤釵伝

陽子

序章

 

 中原にある大国・高梁こうりょうには、ある噂があった。

 第八子であり、皇位を継承するなど誰も思わなかった現皇帝が皇帝たりえているのは、彼直属の〈赤釵せきさ〉という暗殺組織のおかげである、と。

 彼らは剣を以て人を殺すことはしない。剣客すらいない。〈赤釵〉は、道士たちの暗殺集団なのだ。彼らは皇帝を脅かす者を呪殺し、決して証拠を残すことはしない。ただ、呪殺された者には奇妙な赤い印が浮かぶのだという。

 彼らは盤石な一枚岩であり、脱退は許されない。もしも抜けようとすれば、一瞬で年老いて死んでしまうだろうという。


 それを、根も葉もない噂だと一蹴することはできなかった。高梁国の北の果てにある名も無い小高い山、その中腹にひっそりと石造りの門が見える。崖を穿つように造られた住居は、名を碧華へきか洞、〈赤釵〉の本拠地であった。

 洞府の奥、岩壁に囲まれた庭にある四阿あずまやに一人佇んでいる男がいる。彼は岩壁の模様を意味もなく眺めていたが、背後に気配がして静かに振り返った。


「洞主」


 跪き、頭を垂れている若い青年を見て、男は苦笑いを浮かべた。

「顔を上げなさい。貴方の処罰はもう済んでいる」

 跪いていた青年はそっと顔を上げた。白い肌は病人のように血の気が無く、黒黒とした瞳も力が無い。洞主と呼ばれた男はため息をつき、訊いた。

「どうしても出て行くのか。貴方は優秀なのに」

「……許されるなら。両手足を失っても構いません。何も視えなくてもいい。ただ出て行きたいだけなんです」

「だが、貴方は殺しすぎだ。碧華洞から出れば、陣の護りが無くなって死ぬより苦しい思いをするかもしれない」

 冷えた声音だったが、隠しきれない懸念が滲んでいた。青年は微かに唇を歪めて首を振る。

「構いません。這ってでも山を降ります。私は外で死にたい」

 男は乾いた笑い声を上げた。


 何人も呪殺すると、殺された恨みは多少なりとも道士の身体に返って来る。それを無効にしてくれているのが、碧華洞の陣なのだ。〈赤釵〉にいる時間が長いほど、洞から出られる望みは消えていく。

 男の見立てでは、この青年は少なくとも片足を犠牲にするはずだ。それも、ひどい痛みとともに徐々に腐り落ちていくような。

 曲がりなりにも、何年も一緒に過ごした仲間だ。仲間をそんな目に遭わせたいとは思えなかった。


「やはり、駄目だ。仕事をしたくないというのなら、私から陛下に進言しよう。貴方は良く働いているから、許されるかもしれない。部下を育ててくれれば私も助かるし、貴方も外でよりは長く生きられる」


 男の言葉に、青年は黙って目を伏せた。ある種の感情が浮かんで、消える。それを見なかったことにして、男は四阿から出て行った。


 若くして〈赤釵〉の副首領にまでなった彼が、まさか出て行きたいと言い出すとは思わなかった。きっかけは明白だが、それほどの衝撃を受けているとは、男にも分からなかったのだ。

 つい先日、彼が目を掛けていた部下が自殺した。仕事の直後だった。〈赤釵〉では珍しくない。罪悪感に耐え切れずにそうする新人は大勢いる。それを、男もあの青年も乗り越えてきたはずだった。


 ――なのに。


 部下の死体を見つけた時の、青年の顔は忘れられない。全ての表情が消えて、ぽっかりと虚ろな目が宙を彷徨っていた。


 だが、いずれ立ち直るだろうと男は思っていた。でないと困る。純粋な実力ならば、彼ほど優秀な道士は他にいないのだ。



 ただそれは、楽観的だったと言わざるを得ないだろう。



 その晩、碧華洞に住まう道士百十六名のうち、二十七名が突然死した。


 全員の額に、〈赤釵〉に呪殺された証拠である赤い印がぽつりと残されていた。苦しみなどどこにもない、綺麗な死体だった。眠るように死んだために朝になるまで気づかれず、慌てて全員の点呼を取った洞主の男はようやく原因を知った。

 死んだ二十七名にも入らず、かといって生き残った方にもいない。あの副首領の青年は、忽然と消えていた。


 それは、怒りよりも困惑を招いた。彼が仲間を殺して洞を出たという事実は、彼自身とどうしてもそぐわない。それに、殺す理由が分からなかった。


 だが何にせよ、これは裏切り行為だ。力のある道士を呪殺するのは難しいが、反面、武器を使うの刺客に対して〈赤釵〉は弱い。見つけ次第殺せと命じながらも、男は半ば諦めていた。


 ――わざわざ殺しにいかなくとも、どうせすぐ死ぬ。


 碧華洞を出れば、呪殺のような大掛かりな術は遣えない。それに、身体も不自由で寿命も縮む。ならば、少しの余生くらい好きなようにさせればいいと、そう思う。



 門の外に広がる地平を見ながら、痛みも何もかも失う恐怖も越えて外へと出た青年を、少し羨ましく思った。

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