魚は夜空を泳ぐ夢を見る
ちゆき
魚は夜空を泳ぐ夢を見る
「俺、弥智のことが好きなんだ」
天文部の部室と化している、そこまで広くない学園のプラネタリウム。一切私語をせず、各々好きなことをして時間を過ごしていた。そんな時だった。先輩が俺の隣の席に腰を下ろし、そう告げたのは。
「本当は言うつもりなんて無かったんだけど……」
他の部員もいた。いくら小さな声でも、こんなに静かな場所であれば周りに聞こえていたはずだった。隣から感じる熱い視線。恋人に囁くような甘い声。俺は何度も繰り返し読んだせいで褪せてしまった星座図鑑から先輩へと視線を移す。俺の手にそっと先輩の手が重なって、思わずびくりと肩が震えた。
「でももう、俺三年だし……そろそろ、部活引退するからさ」
気持ちだけでも伝えておきたくて。そう続ける先輩の目は熱情を孕んでいて、耐え切れず目を逸らす。
嫌だった。中等部の頃からずっとお世話になっていた先輩だ。最後の最後でこの関係が崩れてしまうのは嫌だった。だって、人付き合いが苦手でずっと一人でいた俺に星の素晴らしさを教えてくれたのは紛れもなく先輩で、天文部という居場所をくれたのも先輩だった。
「こんな先輩でごめんな」
ぽん、と頭を撫でられる。先輩がどんな表情をしているのか、怖くて見ることが出来なかった。
俺はひたすら自分の足先を見つめて、どう返せばこの関係が続くのかを考えていた。
魚は夜空を泳ぐ夢を見る
「……!」
ガバッと勢いよく起き上がる。心臓がバクバクと騒がしい。頬を伝う汗を手の甲で拭って辺りを見渡せば、そこはプラネタリウムではなく、寝室だった。鳥のさえずりが微かに聞こえる。太陽の光がカーテンの隙間から差し込んでいるのを見て、また朝が来てしまったことを痛感した。
「また……夢……」
深く息を吐く。思わず両手で顔を覆った。
尊敬している先輩に告白をされて、何も返事が出来ずに終わる。そんな夢を、何度も見る。実際には告白なんてされていない。関係も崩れることなく、平和に日々を過ごせていた、はずだ。実はこれは夢なんかじゃなくて現実なんじゃないかと混乱しそうになるが、今はまだ春だから三年生が部活を引退する時期ではない。夢だ。多分。いや、絶対。
「あー……いつ告白してくるんだろ……」
曲げた膝の上に頬を乗せて溜め息を付く。先輩が俺のことを好きでいてくれているとは未だに信じられないし、夢と現実は違うと割り切れたらそれに越したことはないのだが、俺にはそれが出来ない理由があった。
――ここ、私立月之宮学園は異能を持った少年を集めた監獄である。百年ほど前から突然現れた異端者を発端に、今では異能を持った者が何百人も存在する。その異端者を監視・保護するために出来たのがこの学園で、この学園に通っている俺も例外ではない。異端者だ。あんな夢を見る理由はここにある。
「未来予知なんて能力、無くなっちゃえばいいのに……」
そう。俺は夢を通して未来予知が出来る。それだけ聞けば羨ましい能力だが、意外とこの異能は厄介なのだ。まず、未来予知の発動を回避することは出来ない。毎日夢を見るわけでもないから睡眠不足になることもないが、突然来るから心の準備も出来ない。それに夢に見る内容はいつも人生のターニングポイントになるであろう出来事で、例えば俺が死ぬ夢とか強姦される夢とか洒落にならないものばかりだ。まあ、夢を見るおかげで行動次第ではそんな危機を避けることが出来るんだけど。
だから、あんな夢を何度も見るということは、多分今後先輩に告白をされるのだ。そしてそれが俺の人生のターニングポイントとなる。あの熱い目で俺を見て、あの甘い声で告白の言葉を紡がれる。あの温かい手のひらで俺の手を覆って――そこまで考えて、やめた。自然と顔が熱くなるのが分かったからだ。
「もう……ほんと、やだ……」
先輩のことは嫌いではない。恋愛の意味で好きかどうかは分からない。ただ、今の先輩後輩の関係が一番居心地良いのだ。壊したくなかった。
返事、考えとかないとな……。どんどん落ちていく気分を無理矢理上げて、俺はようやくベッドから降りた。
「おはよ、弥智」
あんなに放課後なんて来てほしくないと願ったのに、無情にも時は過ぎていく。気付けば俺はスクールバッグを持って、部室であるプラネタリウムの重い扉を開けていた。
「お、おはようございます、深夜先輩」
おはようという時間帯でも無いが、他にどう挨拶したらいいか分からず、とりあえず先輩に合わせて返す。先輩は先に部室に来ていたらしく、ふかふかの椅子に座って英語の教科書を読んでいた。窓が無く、一切外の光が差し込んでこないそこはオレンジ色の人工的な明かりで照らされている。期末テストが近いとは言え、こんな暗いところじゃなくて自分の部屋や図書室で勉強すればいいのになあ。そう思いながらどこに座ろうかと辺りを見渡して迷った結果、結局俺は先輩から遠く離れた席に座った。あの夢を見た後はいつも気まずくなる。しかし、そんな不自然な俺に気付かないほど先輩は鈍感ではない。
「遠くない?」
「えっ……そ、そうですか……?」
先輩からの指摘に、ひくっ、と頬が引きつる。それでも「先輩に告白されるんじゃないかと警戒しているんです」なんて言えるわけが無いので、適当に惚けながら俺は鞄から星座図鑑を取り出した。今の時期特に部室に来てもやることが無いので毎日これを眺めるのが日課だった。そんな俺を見て、俺に会話を続ける意思が無いことを察したのだろう。何かを考えるように黙った先輩は暫くして「まあ、いいけど」と返し、それから沈黙が続く。空気が重い。
「……」
罪悪感。誰かを避けるなんてこと今までしたこと無かったから、胸の中がもやもやして仕方がない。何だか堪らなくなって、星座図鑑を見る振りをしてちらりと横目で先輩の顔を観察した。
澄川深夜先輩。俺の一つ上で、この天文部の部長だ。中等部の頃一人ぼっちだった俺に声をかけ、それからずっと俺を気にかけてくれている恩人でもある。ふわふわと柔らかそうな焦げ茶色の髪。スッと伸びた鼻筋に、薄い唇。ラピスラズリのような美しい瞳は凛々しくて怖い印象を与えがちであるが、案外彼は人懐っこい性格で、俺のような後輩が相手だとふわりと幼く笑う。見た目にも成績にも人一倍気を使っており、何事も楽にこなしているようで実は影で必死に努力をしているような人だ。しかしそれを鼻にかけることもなく、寧ろ謙遜さえする。俺はそういう先輩が大好きで、尊敬していた。
俺は先輩から目を逸らし、開きっぱなしの図鑑にぺたりと額を付ける。はあ、と息を吐いた。思った以上に震えていた。先輩のことは尊敬していたし、もちろん今でもしている。深夜先輩みたいになれたらいいなっていつも思っていた。人の視線ばかり気にして誰かの助けをひたすら待っている自分とは全く違う世界に住んでいる先輩に憧れていた。だからこのように同じ部員として一緒にいられて嬉しかった。ずっとこのままでいたいと思っていたのだ。それに――正直、先輩に夢を見ている部分もある。先輩は素敵な人だから、俺みたいな根暗じゃなくて、もっと素晴らしい人が似合うはずだ。男で、年下で、全然頼りない俺なんかよりも、卒業して綺麗な女の人と一般的な家庭を築いた方が幸せで――寧ろ、そうであってほしかった。俺なんかで妥協してほしくなかった。
「弥智? 具合悪いのか?」
図鑑に顔を引っ付けている俺を見て、不思議に思ったのだろう。先輩は首を傾げながら、心配そうに声をかけてくれた。こんな俺にも優しくしてくれる先輩が神様のように思えて、泣きそうになった。だって俺、先輩に対して失礼なことばかりしてる。
「……いえ、少し、その……眠くて……」
そんな先輩に嘘を付くのは躊躇われるが、本当のことなど言えるわけがない。俺はしどろもどろになりながらそう伝えると、先輩は「無理するなよ」と優しい声でそう返した。そして俺から英語の教科書へと視線を移し、再び静寂が訪れる。
「……」
こんな気持ちになるのなら、とっとと告白してきてほしかった。もう今更元には戻れないのだ。先輩の告白には応えられないけれど、それでも後輩として一緒にいたい。そう答えたら、先輩はどんな顔をするのだろうか。傷ついた表情をする先輩が容易に想像出来て、俺の気持ちは更に落ちた。溜め息しか出なかった。
そもそも先輩と出会ったのは、俺が十四歳になった春の日だ。引っ込み思案なのもあって中学二年生になってもなかなか友達が出来なかった俺は、その日も裏庭で一人昼食をとっていた。
周りの人間は良くも悪くも自分勝手な人だった。それこそ、他人と仲良くする理由は大半は「利用価値があるから」というもので、純粋に相手が好きだから仲良くしているという人間はこの学園ではとても珍しい。こんな俺だって、未来予知という異能を持っていると知られた瞬間は人気者だった。ただ、俺の異能は俺にしか利益がないし、つるんでも何も得られないと気付かれてからは再び一人になったけれど。
特に辛いのは昼休みだった。大抵の人間が食堂やテラスに行っているため、教室で食べる人は少ない。そしてその数少ない人たちも友達同士でわいわいと楽しく食べているので、独り者の俺は肩身が狭かった。だから俺はいつも誰もいない裏庭まで足を運んで、一人で弁当を食べていたのだ。
「いつもここで食べてんの?」
そんな俺に、先輩は声をかけてくれた。それが始まりだった。
裏庭の中央にどっしり構えている学園一大きな桜の木が揺れて、ちらちらと花びらが舞い散る。ベンチに座って池を泳いでいる鯉をぼーっと眺めていた俺は、突然背後からかけられた声に驚いて、大きく振り向いた。そこに立っていたのは、俺と違って友達がたくさんいそうな雰囲気の男の子。ネクタイの色で、一つ上の学年だということが分かる。まさか人に話しかけられるとは思っていなくて、先輩の質問に「えっ、あ、えっと」と吃ることしか出来なかった。そんな俺を見て、先輩はくすりと笑う。
「驚きすぎだろ」
「だ、だって……お、俺なんかに声をかける人なんて、いなかったから……」
バクバクと暴れる心臓を押さえながら、必死に言葉を紡いだ。こんなところまで来て俺に話しかけた先輩の真意が分からなくて、この時の俺は相当警戒心剥き出しだったと思う。しかしそんな俺に気分を悪くすることもなく、先輩は笑いながら俺の隣へと腰を下ろした。
「いつも窓から見てたんだよ。寂しそうに一人で飯食ってるとこ」
ずっと気になってて、今日勇気を出して来てみたんだ。そう言って、先輩は手に持っていた弁当箱を開く。一緒に食べるつもりなのだろうか。嫌なわけではないが、少し緊張する。他人と一緒にご飯を食べるなんていつぶりだろう。そう思いながら箸を動かす手を止めて先輩を見つめていれば、先輩はその視線に気付き、「自己紹介してなかった」と弁当箱の蓋を付け直して俺に向き直った。
「俺、三年の澄川深夜。お前は?」
「えっと……二年の、高城弥智です。よろしくお願いします」
「弥智な。よろしく」
そうにこりと微笑みかけられ、俺は慌てて勢いよく頷く。この学園では普通に過ごしていれば先輩と関わることなんてほぼない。部活に参加していなければ尚更。だからまさかこんなところで先輩と話をすることが出来るとは思っていなかった。人生何が起こるか分からないなあ。なんて考えていると、先輩は「明日から俺もここで食べていい?」と俺に声をかけた。
「えっ?」
「だめ?」
「い、いや……だめってことは、無いですけど……」
無いけど、先輩がここで食べるメリットが思いつかない。俺のように居場所がなくて困っているならまだしも、先輩がそんなことで困っているようには思えないし。しかしそんなことを先輩に聞くなんてことは出来ず、俺は「よ、よろしくお願いします」と結局流されてしまったのだった。
それからほぼ毎日、昼休みに先輩とご飯を食べた。色んな話をした。先輩の家族の話や、クラスメートの話、テレビの話。そして――星の話。相当星が好きなのだろう。先輩は星についての知識をたくさん持っていて、色んなことを教えてくれた。その時の俺はあまり星に興味が無かったので星の話をされても正直よく分からなかったが、星のことを話す先輩は目が輝いていて可愛いなとは思っていた。いつも穏やかで冷静な先輩がこんなふうに表情豊かに話す姿なんて滅多に見られるものではなかったから、そこまで先輩を変えるものって一体どんなものなのだろうと興味も持った。――そして先輩の話を聞くうちに、気付いたら俺も先輩と同じくらい星が好きになっていたのだ。
そして、そんな時だった。いつも通り昼休みに一緒にご飯を食べていたとき、先輩が自分の夢のことについて話してくれたのは。
「俺、父親の影響で天体観測が趣味でさ、学園に入る前から色んなところに行って星を眺めてたんだよ」
ぱくりと卵焼きを口に入れ、隣でそう話し始めた先輩の横顔を見る。過去を思い出している先輩の表情は切なそうで、俺は食べていた卵焼きを急いで飲み込み、箸を動かすのを止めた。先輩は家族の話はしても自分の話はあまりしないような人だったから、自分のことを俺に話してくれようとしている今、ちゃんと聞かないといけないと思ったからだ。
「プラネタリウムって行ったことある? あれ、すげえよな。あんな小さなところで、色んな世界の星が見れるわけだろ。俺、ハマっちゃってさ」
「へえ……」
「あそこで働けたらいいなあって思ってたんだ、昔。ばっかみてえだよな」
桜の木をぼうっと見ながら、嘲笑してそう言う先輩。その姿が何だか痛々しくて、俺はただ首を横に振ることしか出来ない。
「俺たち異端者って、将来決められてるわけじゃん。国のために異能を使え、ってさ。俺たちに夢を見ることは許されない。そんなの、分かってんだけどさあ」
「……」
「夢見る前に目を覚まさせてくれれば、こんな後悔することも無かったのにって……そう思っちゃうんだよな」
へらり、と先輩は俺の方へ顔を向けて笑う。俺は自分が異端者だと気付く前もその後も将来の夢なんて持っていなかったから、決められたレールの上を走ることに関して何も思っていなかったけど、皆が皆自分のように生きているわけではないのだ。何かに興味を持って、やりたいことを見つける。それが簡単に出来るものではないと俺は知っている。中学生になった今もやりたいことなんて見つけられず、ただのうのうと生きているのはきっと自分だけではない。それが出来ている先輩を、馬鹿みたいだなんて思わない。思うはずが、ない。
「……せんぱい、」
ただ、この気持ちをどう伝えたらいいか分からなかった。意味もなく泣きそうになった。俺は弁当箱をベンチの端に置いて、先輩の手をぎゅっと握り締める。相変わらず先輩の手は温かかった。驚いたように俺を見る先輩の顔はなるべく視界に入れないように、ただ先輩の手を見つめる。
「え、えっと……なんて言ったらいいか、分かんないですけど、その、ええと……」
「……弥智?」
「俺、しっかり自分を持ってる先輩のこと、かっこいいな、って……そう、思うんです」
「……」
「ばかみたい、だなんて言わないでください。そんなことないです、絶対にないです。……俺、この学園の中で先輩が一番、かっこいいと思います」
俺、先輩のおかげで星に興味持てたんですよ。自分の『好き』って気持ちだけで人を変えるって、すごいと思いませんか。
ちゃんと俺の思ってることが先輩に伝わったかどうかは分からない。自分の気持ちを人に伝えるなんてあまりしたことがなかったから、しどろもどろになってしまった。先輩、引いたかな。不安になって先輩を見ると先輩は今にも泣きそうな表情をしていた。綺麗な表情だった。
「せ、先輩」
「……お前、恥ずかしいやつだな」
先輩はそう笑いながら、「ありがとう」と俺の手をすり抜けて俺の頭をぽんぽんと撫でる。優しい手。クサい台詞を言ってしまったこととか、先輩に頭を撫でられている現状とか、その他諸々何だか恥ずかしくなって、自分の顔に熱が集まるのが分かる。だけど先輩はちょっと嬉しそうな顔をしていたから、きっと俺は間違ったことはしていないのだろう。それだけが救いだった。なんて思っていたときだ。
「弥智」
「……なんでしょう」
「お前、星に興味持てたって言ったよな」
へ? 突然話を変えた先輩に、俺は頭を撫でられながら首を傾げる。確かに言ったけど、それがどうかしたのだろうか。俺は恐る恐る頷くと、先輩は俺の頭から手を離してまるで内緒話をするように顔をそっと近付ける。
「実は学園には小さいけどプラネタリウムがあってさ、そこで天文部が活動してるんだよ」
「え……?」
「天文部。俺が部長やってる。……弥智さえ良ければ、一緒に活動してみないか?」
俺が断るとでも思っているのだろうか。先輩は不安そうに俺の顔を覗き込んでいる。というか先輩が天文部に入ってるのも今知ったし、この学園にプラネタリウムがあるのも今初めて知った。俺は今のところ部活に入っていないし、その点は何の問題はない。それに、先輩をこんなにも夢中にさせたプラネタリウムをこの目で見て、感じてみたい。話を聞いてそう思った。だから、先輩。そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫です。――答えはもちろん、決まっている。
***
「あ、あっ……せんぱい、せんぱ……ん、う……ッ」
「弥智、可愛い……もっと聞かせて、その声」
「や……っ、恥ずかし……んンっ、あ……っ」
先輩が腰を動かす度、俺の口から女みたいな甘ったるい声が漏れる。声を抑えようと両手で口元を覆うが、先輩は俺の両手を「だーめ」とそこから剥がし、そのまま強引にベッドに押し付けた。そして穏やかな顔をして意地が悪い先輩はぐちゅ、と前立腺を刺激するものだから、俺はついびくんと身体を跳ねさせる。うう、恥ずかしい。恥ずかしいけど、でも、それ以上に気持ちよくて、何だか頭が溶けちゃいそうだった。ギシ、とベッドが揺れる。
「ああっ、ん、そこ……っ」
「ここ好き?」
「すき、せんぱ……好き……ッ、あう……んっ」
「はは、そういう意味で聞いたんじゃねえんだけどな……」
もう先輩が何を言っているのか分からない。俺は子供のように泣きじゃくりながら、「すき、すき」と何度も繰り返す。好きだ。先輩が、好き。それ以外の言葉を忘れてしまったかのように、何度も何度もそう告げる。なんで早く素直にならなかったんだろう。こんなに幸せな気持ちになれるんだったら、早く応えてしまえばよかった。先輩の温かい体温が掴まれている手首から伝わってきて、どうしようもない気持ちになる。触れていたい。近付きたい。いっそ、一つになってしまいたい。ぼんやりとした頭のまま、俺は「きす、したい」と口パクで先輩に伝える。好き。好き。自分がこんな重たい気持ちを持っているだなんて、知らなかった。
「弥智……っ」
「せん、ぱ……んん……っ!」
先輩が俺の名前を呼んで唇を塞いだ瞬間ぶわりと胸の奥から愛しい気持ちが湧き上がってきて、これ以上この気持ちが重たくなったら潰れちゃいそうだな。そう、ぼんやり思った。そして――
「――うわっ!」
勢いよく起き上がる。窓から差し込む太陽の光と、ばさりと布団が翻る音。え、えっと、なんだこれ。息を切らしながら状況を把握するために周りを見渡す。白い壁。茶色のカーテン。教科書が入っている本棚。……自分の部屋だ。
「ゆ、夢……?」
それにしては、やけにリアルな夢だった。夢から覚めた今でも未だに先輩の熱を覚えている。愛を囁く甘い声も、キスの感触も、自分の気持ちの昂ぶりも。自分の唇に触れながら、ぼうっと夢の内容を思い出していく。あんなに幸せな夢は初めて見た。愛しくて愛しくて仕方がないという気持ちと、それに先輩が応えてその分返してくれる夢。溢れるくらい好きだと身体で伝えられて、この幸せな気持ちのまま死んじゃいたいと思った。夢でもこんな気持ちになるのに、実際に先輩と付き合ったらどうなるんだろう。先輩と付き合って、本当にセックスなんてしたら……
「……いや。いやいや」
なんてそんなことを考えている場合じゃない! 俺はそれ以上に重要なことを思い出して、俺は時計を見るよりも先に布団を捲って下着を確認した。……ぬ、濡れてない。勃ってはいるけど、出してはいない。危なかった。セーフ。あの夢で夢精でもしてたら罪悪感で学校に行けなかった。
「さ、最悪だ……」
というか、何でまだ告白もされてないのに先輩とえ、えっちする夢見てるの、俺……段階すっ飛ばしすぎじゃないか……? しかもこれがただの夢ならいいが、多分これも予知夢だ。先輩に告白される夢じゃなかったってことは、俺は将来先輩の告白に応えることになるのだろうか。うう、もうやだ。それでもいいかもしれないとか思い始めてるからだめだ。だめ。無理。先輩の気持ちには応えられない。応えたくない。あの立ち位置は、俺じゃない方がいい。そう、分かっているのに。
「はあ……」
その前にこれ、何とかしないとなあ。大きな溜め息を付いて、俺は下着の中へ手を差し込む。おかずは、やっぱり先輩との行為だった。
「お、おはようございます……」
放課後。プラネタリウムの重たい扉を両手で開けて、小声で挨拶しながらこっそり中を覗き込む。そこは電気が付いておらず、真っ暗だった。当然返事も返ってこない。早く来すぎたのか誰もいないらしい。
「はあ……何で来ちゃったんだろ」
あの夢を見て、処理をし終えたときが一番虚しかった。男で、しかも尊敬している先輩で抜いてしまったのだ。最中はいつも以上に気持ち良かったけれど、終わってしまえば今までにないくらいの罪悪感で死にそうだった。いつもは髪の毛を整えて学校に来ているが、今日は混乱しすぎて寝癖をつけたまま登校してしまったくらいだ。この状態で先輩に会ったら多分、いつも以上に挙動不審になってしまう。はあ。また、溜め息。どうしよう。帰っちゃおうかな。そもそも天文部は研究発表や天体観測日以外は活動は自由だ。毎日毎日律儀に来る必要はない。先輩と出会うリスクを背負ってまで顔を出す必要はないのだ。
「先輩、来ないのかな……」
来るならその前に帰るし、来ないならちょっとだけここにいようかな。そう思っていたときだ。
「呼んだ?」
「うわあっ!」
自分しかいないと思っていたところに背後から声をかけられて、思わず大声を出して振り向く。そこにはクスクスと笑いながら「驚き過ぎだろ」と俺を見つめる先輩がいた。耳に優しい綺麗な声。いつもはその声を聞いて嬉しくなるが、この時だけは聞きたくなかった。ドキドキと心臓がうるさい。冷や汗が止まらなかった。
「別に毎日来なくてもいいんだぞ。テストも近いんだし」
「……」
「こんな時期にまで部室に来るの、俺以外じゃ弥智だけだよ」
「……」
「聞いてる?」
先輩は扉の前で立ち尽くしている俺の横を通り過ぎて、振り向きざまに怪訝そうに首を傾げてみせた。聞いている。先輩の話を聞いてないことなんてこの人生の中で一度もない。でも、だけど、
『弥智、可愛い……もっと聞かせて、その声』
ふとあの夢を思い出してしまって、どう反応していいか分からない。あれは夢だ。現実じゃない。分かってるのに、妙に気恥ずかしくなってしまって返事が出来ない。ただでさえ告白される夢を見ていて関わり方を決め兼ねていたのに、解決する暇もなくあんな夢を見てしまったから尚更。お、俺、先輩とどう関わってたっけ? 先輩の声かけに俺はただ先輩から目を逸らしてこくこくと頷くことしか出来ず、鞄をぎゅっと握りながら慌てて先輩とは遠く離れた席へ座った。あからさまだ。分かっている。分かってるけど。
「……なあ。お前、最近変だぞ」
ほら、先輩だって流石に今までみたいに見て見ぬ振りなんてしてくれない。先輩は俺が座っている席まで向かってきて、その隣の席に座り、俺の顔を覗き込む。この光景に何かデジャヴを感じて、息が止まった。
プラネタリウム。隣に座る先輩。先輩の、視線。――これ、告白されるときの位置。
「へ、変じゃないです!」
それに気付いた俺はぶんぶんと勢いよく首を振りながら、意味もなく立ち上がった。そんな俺を驚いたように見上げる先輩。違う。今は告白なんてされるわけがない。だってまだ五月だ。卒業シーズンじゃない。でも、俺は知っている。未来なんてふとした瞬間にすぐ変わってしまうことに。俺の対応一つで、簡単に。
「……弥智」
「っ、ご、ごめんなさい……その、あの……お、俺帰ります」
「弥智ってば」
帰ろう。帰らなきゃ。そう思って俺が扉に視線を向けたとき、先輩は俺の腕を掴もうと手を伸ばす。
「ひっ……!」
触られる。そう考えるより先に、俺は先輩の手を思い切り跳ね除けた。パシンッ、とプラネタリウムに響く乾いた音。そして、そこから続く沈黙。やってしまった。そう後悔してももう遅い。先輩は跳ね除けられた自身の手を見つめながら、どんどん冷ややかな表情になっていく。はあ、と先輩の溜め息がやけに鋭く聞こえた。や、やだ。やだ。
「あ、せ、先輩……違うんです、これは――」
「もういい」
拒絶したわけじゃないんです。言い訳をするために言葉を並べようとしても、先輩はそれを拒否するように俺の言葉を遮った。今まで先輩は俺の話を最後まで聞いてくれて、こんなふうに遮ることなんて一度も無かったのに。それに、こんな冷たい先輩の目、初めて見た。どうしよう、どうしよう。焦る俺と反比例して、先輩はやけに冷静だった。そんな先輩は怠そうに立ち上がり、俺を見下ろす。
「最近弥智がおかしいのは気付いてたけど、でもいずれまた前みたいに話せるようになるって信じてたから。だから俺、何も言わないで待ってたんだ」
「っ、せ、せんぱい……っ」
「でもさあ、俺だって好きな奴に避けられて何も思わないわけないだろ」
先輩はそれだけを吐き捨てて、鞄を手に取って扉へと向かっていく。離れていく背中。先輩が、先輩が行ってしまう。引き止めないと。このままじゃ戻れなくなる。分かっているのに身体は動かなかった。喉を絞められているみたいに声が出ない。ねえ、待って。先輩。離れていかないで。それだけを伝えればいいのに。
「……っ」
ぱたん、と無情に閉まる扉。一人残されたプラネタリウム。防音仕様のおかげで一切音が入ってこないこの部屋で、俺は呆然とただ立ち尽くすしか出来なかった。
――好きな奴。さり気なく告白の言葉を伝えられたことより、先輩が自分から離れてしまったことの方が辛くて苦しくて、悲しかった。
そろそろ気付かない振りは止めたら。そう、鯉が俺に伝えているようだった。
「でも、だって、先輩と俺じゃ全然釣り合わないもん……」
昼休み。裏庭にある池をしゃがみこんで眺めながら、先輩に言えなかった言い訳を鯉に向けて呟く。そんな中、鯉はぱくぱくと俺があげた餌を美味しそうに食べていた。まあ、鯉が話すわけがないか。全部、俺が思っていることだ。
あれから一週間。俺は毎日プラネタリウムを尋ねたが、先輩と会うことは一度も無かった。きっとテスト期間中だからなのかもしれないし、何か用事があったのかもしれない。来ない理由は色々考えられる。でも先輩と会った最後の日を思い返すと、俺と会うのが嫌で避けているのだろうと思わざるを得なかった。それを証明するように昼休みに先輩の教室まで足を運んでも、いつも先輩はどこかへ行っていて会うことが出来ない。俺を避けている。多分。
でも、言い訳がましいと思うけど、本当にこんなつもりじゃなかったのだ。先輩を怒らせるつもりは無かった。なんて後悔しても、もう何もかも遅い。きっと俺にこんな能力が無ければこんなことにはならなかったのに。そんな、どうしようもない"もしも"まで考えてしまう。
一人ぼっちな俺を助けてくれた先輩。夢を持って生きている先輩。地道に努力を続けている先輩。先輩は俺にとって太陽のような存在だった。神様だった。そんな先輩と、ただ流れに身を任せている俺じゃ、全く釣り合わない。同性で、頼りなくて、自慢にもならないどうしようもない俺じゃ。
だから嫌だったのだ。だって、このままの関係でも十分幸せだった。変化なんて求めていなかった。
「君が夜空を泳げないのと一緒で、俺も先輩の隣には立てないんだよ」
鯉に向けてぽつりと呟く。そう。出来ないことをやろうとしても無駄。だから最初から諦めていた。先輩には幸せになってほしい。俺のことなんて忘れて、どこか遠いところで。時々、連絡くれるくらいでいいから。そう思っていたけど、もうそれすらも叶わない。連絡どころか、恨まれて終わってしまうのかもしれない。……はあ。死にたい。
「先輩、俺に愛想尽かしちゃったかなあ……」
そう言葉に出すと改めて現実を突きつけられて、泣きそうになった。まあ、でも、そうだよな。あんな態度取られたらいくら先輩でも怒るよな。……やだなあ、嫌われたくないなあ。俺は鯉から視線を移し、膝を抱えてそこに顔を埋める。そしてぐり、と額を膝に押し付けた。溜め息が止まらなかった。
本当は気付いているのだ。告白される夢を見て気持ち悪いと思わなかった理由も、先輩で抜いてしまった理由も、毎日来なくてもいい部活に顔を出している理由も、先輩に嫌われたくないって思っている理由も、全部全部。
初めて声をかけてくれたときから先輩が大好きだった。俺に柔らかく笑いかけてくれたり、優しく頭を撫でてくれたりするところが大好きだった。一緒にいると何だか胸がきゅうんと締め付けられるようになったり、ぽかぽかと温かく幸せな気持ちになったり、先輩に出会ってから初めて知る感情ばかりで、先輩は俺に星のこと以外にも色々と教えてくれていた。俺はそれに三年間気付かないふりをしていた。変わりたくなかった。ただそれだけの理由で。だから罰が当たったのだろう。先輩を傷付けてまであんなに手放したくなかった日々は、もう戻ってこない。
「はあ……」
何度目の溜め息か、数えるのも止めた頃だ。帰りたい。引き篭りたい。そう思いながらぱらぱらと鯉に餌をあげながらぼんやりとしていたら、背後からがさりと草を踏む音が聞こえた。
「ッ……!」
も、もしかして先輩!? そう期待して勢いよく振り向く。先輩だったら、早く謝らなきゃ。もう変わりたくないなんて我が儘言わないから、お願いだから離れていかないで。そう、伝えなきゃ。「せんぱ、」と先輩を呼ぼうとしたときだった。
「おい、そろそろ授業始ま――ん、あれ、高城?」
俺が先輩だと思っていた人は、先輩のようにふわふわとした茶色の髪はしていなかったし、愛情溢れた瞳はしていなかった。後ろを振り返ると、そこには怪訝そうに俺を見下ろす男。左側だけ長いアシンメトリーの黒髪に、紫色のメッシュ。季節外れの革手袋と、パワーストーンが付いたブレスレットが目を惹いた。そしてそれよりも目に入ったのは、王冠と薔薇がアクセントに付いているネクタイピン。風紀委員の証だ。――天宮夏希。俺と同じクラスで、風紀副委員長を務めている男である。どこからどう見ても先輩じゃない。その事実に少し気持ちが落ち込んでしまう。先輩じゃないならいいや、なんて思ってしまうほどだった。
「お前いつも昼いないなって思ってたけど、ここにいたんだ」
「う、うん……」
「もう戻ったら? 授業遅れるぞ」
「うん……」
きっとずっとここにいても先輩は来ないだろう。俺は天宮が言う通り教室に戻ろうと重たい腰を上げる。先輩と会えないなら学校なんてどうでもいいし、授業に遅れても全く構わないけど、風紀委員がいる手前そういうわけにもいかない。そう思って裏庭と校舎を繋いでいる扉に手をかけた。そのときだった。天宮が俺に声をかけてきたのは。
「そういや、あの先輩とは最近会ってないのか?」
「……え?」
「ほら、昼いつも一緒に食べてる」
天宮は不思議そうに首を傾げて、俺にそう言った。若干強ばった声。何気ない会話のつもりで声をかけたのだろう。でも、今先輩の話をしないでほしかった。苦しくなる。それでも滅多に話す機会が無いクラスメートを無視するわけにもいかなかったから、俺はゆっくりと振り向いて「見てたの?」と問いかけた。質問に質問で返すなんてずるいなあ、俺。そう思いながら天宮の顔を見れば、彼は気まずそうにへらりと笑う。
「窓から丁度ここが見えるから、つい」
「……」
「お前が幸せそうに先輩と話してるの見て、こんな顔も出来るんだなあって思ってた」
幸せそう? 天宮にそう言われて、俺は思わずぺたりと両手で自分の頬に触れた。もちろん、触ってみても全然分からない。幸せそうな顔、してたのかな。俺。先輩と会えなくなってしまった今、確認することも出来ないけれど。自覚が無かった俺は天宮に対して首を傾げてみせると、そんな俺を見た天宮は一歩ずつ俺に近付いてきて「いつも教室じゃ下ばかり見てて、ちょっと暗い感じだったから」と続けた。
「く、暗い感じ……」
「あっ、ち、違うぞ? 悪口が言いたいんじゃなくて……ええと、だから……その、珍しいなって思ってたんだ。それで、高城にもそういう頼りになる相手がいて良かったなって思ってた」
「……うん」
「だけど、最近、いつも以上に表情が暗かったから……あの先輩と何かあったのかなって」
俺に気を遣いながらそう声をかけてくれる天宮に、俺は「えっと……」と口篭ることしか出来ない。俺のことを本当に心配してくれている天宮の気持ちが言葉の節々から伝わってきていた。
入学してから今まで、あまりクラスメートと話したことは無かった。昼休みはなるべく教室にいないようにしていたし、放課後はすぐに部室に行っていたから。だから、彼らと歩み寄ろうともしていなかったし、知ろうともしていなかった。未だにクラスの人たちの名前や顔は覚えていない。それでも、天宮は俺のことを見てくれていたのだ。そして心配してくれて、今日は声もかけてくれた。それが何だかくすぐったくて、恥ずかしくて、ちょっとだけ嬉しい。だからそんな天宮に、俺も応えなきゃいけない。応えたい。そう思った俺は緊張しながらも勇気を振り絞って、「……こんなこと言われても、困ると思うけど」と前置きをして、天宮の金色の瞳を見つめた。さら、と柔らかく爽やかな風が俺たちの頬を撫でる。
「その……先輩に酷いことをして、先輩を怒らせちゃって」
「うん」
「謝りたいんだけど、先輩に避けられてるし……それに、なんて言ったらいいか分かんないんだ。こういう……その、誰かとすれ違うのって、初めてだったから……」
人と関わってこなかったから、喧嘩もしたことがない。だから仲直りの仕方も分からない。自分の気持ちの伝え方も分からない。こんな状態で先輩と会って、今まで通り一緒にいられるようになるとは思えなかった。正直、先輩に会えなくてほっとしている自分もいたのだ。怖い。あのときみたいに冷たい視線でまた見つめられるのは、怖かった。自分の足先を見つめながら、俺はぽつりぽつりと落とすように言葉を紡ぐ。泣いちゃいそうだった。
「まあ、そうだよな。人の気持ちって分かんないから、自分が言った言葉にどんな反応が返ってくるのか分からなくて不安だよな」
情けない顔をしているだろう俺の姿を見ても、天宮は優しくそう返してくれた。そして、俺の手を取ってぎゅっと握り締める。革手袋のせいで体温は伝わってこない。ざらついた生地。それでも、何だかほっとした。そして同時に先輩の温かい手を思い出して、あの手でまた触れてもらいたいって、そう思った。
「でも、大丈夫。高城の気持ちを素直に先輩に伝えたらいいと思うぞ、俺は」
「……素直に?」
「ああ。でも、なんでそんなことしちゃったのかとか、そういう言い訳は二の次だ。まず、先輩とまた話せるようになりたいってことを伝えたらいい」
「……」
「風紀の仕事で先輩と顔を合わせることあったけど、結構元気無かったぞ。それって、きっとそういうことなんじゃないの?」
そういうこと。そういうこと、なのかな。大丈夫かな。不安な気持ちのまま顔を上げて天宮を見れば、天宮は安心しろと言いたげに手を握る力を更に込める。
「それに、もしだめだったら俺が代わりに先輩殴ってやるから」
「えっ、だ、だめだよ!」
「ふふ、冗談だって。ま、そんなに心配しなくても大丈夫だろ。きっとなるようになるよ」
だからまずは先輩と話をしてこい。そう言って天宮は俺から手を離し、俺を後ろへ振り向かせて背中をぽんと押した。勢いが付いて、つい一、二歩足が前に出る。振り向けば、天宮は優しい表情で笑みを浮かべていた。なるようになる。……そうかな。そう、だよね。きっとこのままいても何も変わらない。行動を起こさなければ。それに、先輩は優しい人だから、きっと話くらいは聞いてくれる。返答は、どうなるか分からないけど。でもこのまま話せなくなるよりは断然マシだ。俺は天宮の言葉に対して「うん」と頷き、ぎこちなく笑ってみせる。まだ不安だけど。まだ怖いけど。それでも、勇気は出た。
「ありがと。……先輩に、会ってくる」
そう言って、今度こそ裏庭を出るために扉に手をかけた、その時だった。腕を引っ張られて、歩みを止められたのは。
「だめ」
「……えっ?」
「会いにいくのは、授業終わってからにして」
俺、一応風紀委員だからさ。サボりは見逃せないんだよね。そう言われて、俺は思わず笑ってしまった。まあ、放課後でもいいか。いくら時間が経とうが、きっと気持ちは変わらないから。
とは言ったけど、な、なんでこんな時に限って頼まれごとされるんだよ……!
「もー、早くしないと先輩帰っちゃうー……」
重たい段ボール箱を二つ抱えながら、俺はよろよろと職員室に向かって廊下を歩く。段ボールが邪魔で前が見えない。重たい。もう、こんなことしてる場合じゃないのに! 気持ちが焦って焦って、俺はまた泣きそうになっていた。
放課後。空が少しずつ青からオレンジへと変わっていく時間帯。ようやく先輩に会える。そう色んな意味でそわそわしていた、そんな時だった。担任から雑用を頼まれてしまったのは。きっとあの時教室にいた生徒の中で俺が一番頼みやすかったのだろう。断れなかった自分も自分だが、ようやく先輩と話す勇気が出て早速探しに行こうと意気込んでいたときだったから、何だか気持ちが沈んでしまう。
きっと今更先輩の教室に行っても、もう先輩はいないだろう。他に先輩がいる可能性があるのは部室とかだろうか。でもテスト前でもあるし、部屋で大人しく勉強しているかもしれない。うう、ホームルームが終わった直後に行けば、まだ間に合ったかもしれないのに! 頼み事をしてきた担任を思わず恨んでしまうが、そんなことをしていたって状況が変わるわけではない。とにかく急いでこの荷物を置いていかなければ。そう思って俺は足早に――と言っても端からは急いでいるようには見えないだろうけど――職員室へ向かっていた。そんな時だ。職員室の手前にある窓から、ふと外を見たのは。
「……あれ?」
悠々と構えている桜の木。その周りに置かれたいくつかのベンチ。そして、そこを囲むように作られた円状の池。――そう。ここの窓から見えたのは、俺達がよく行っていた裏庭だった。……へえ、ここからでも見えるんだ。そう思って感心していると、視界にちらり、人影が見えた。
「……」
揺れる茶髪。すらりと背筋が伸びた後ろ姿。窓から見えるのは背中だけで、顔は見えない。唯一分かるのは池を覗き込んでいるということと、茶髪の男性だと言うことだけだった。この学園は男子校だし、茶髪の生徒なんてここにはいくらでもいる。それでも俺はこの時にはもう既に確信を持っていた。――あの人は絶対に、深夜先輩だと。
「……っ」
そう思った途端、俺は咄嗟に段ボールを太股に載せて片手を空かせ、窓を開ける。そして涼しい風が廊下に入ってくるのも無視して、俺は大きく息を吸いこんだ。もう考えるのは止めた。ただ、今ここで声をかけなければ、もう二度と先輩と会えなくなる気がした。
「先輩!」
生まれて初めて、こんな大きな声を出したと思う。廊下を歩いている生徒たちも何事かとこちらを見るほどだ。普段であれば人目が気になって逃げていただろうが、今ではもうそんなことはどうでもいい。とにかく、先輩に気付いてもらいたい。そんな気持ちで嗄れかけた声で必死に叫べば、裏庭にいる茶髪の彼はぴくりと反応して、振り返った。
「や、弥智……?」
よく耳を澄まさないと聞こえないほどの小さな声。それでも確かに先輩は俺の名前を呼んでいた。先輩だ。久しぶりの、先輩。そう思うと感極まって、上手く呼吸が出来なかった。嬉しくて、幸せで、そして少しだけ緊張する。
でも、先輩の方は俺と目を合わせた瞬間、やはり気まずそうな表情をしていた。八の字に歪んだ眉。困ったような、そんな顔。やっぱり会いたかったのは俺だけで、先輩は会いたくなかったんだ。そう思うと胸が締め付けられるけど、でも、そしたら何でそんなところにいるの。そこは俺達の出会いの場所でしょ。ねえ、なんで? ねえ、先輩、せんぱ、
「――うわあ!」
途端、ガタンッ! 廊下中に大きな音が響く。自分が今、段ボールを持っていたことをすっかり忘れていた。先輩と話すことに夢中になってついバランスを崩した俺は、重たい段ボールを二つとも引っくり返してしまい、そのままべちゃりと尻餅をつく。いたい。
「弥智!」
運良く段ボールたちは自分に当たることは無かったが、裏庭にいる先輩はそんな俺の様子は見えていないのだろう。先輩の必死な声を聞いて、俺は慌ててむくりと立ち上がり、再び窓から顔を出す。今だ、今しかない。
「ま、待っててください」
「は? いや、弥智、怪我は? 怪我ない?」
「今からそこに行きますから、絶対に動かないでくださいね!」
心配しているような、呆気にとられているような、そんな先輩の表情。俺は転げ落ちた段ボールなんて無視して、急いで踵を返し廊下を走った。もう頼まれ事のことはすっかり忘れていた。早く、早く行かないと先輩が逃げちゃう。それだけを考えて。
元々走るのは得意ではない。昔から根っからの文化系だし、スポーツなんて体育の授業以外ではやったことがない。全力疾走なんて久しぶりだった。何度も足が縺れる。そのまま躓いて転びそうになるが、俺はそれをぐっと堪えて走り続けた。息が切れる。喉が痛い。それでも俺は足を止めなかった。だって、今話さないときっと、先輩に嫌われたままだと思ったから。
「はぁっ、はぁ、っ、せんぱ、い……ッ!」
――そして俺はようやく、裏庭に続く扉を開けた。
オレンジ色の空。さらりとした爽やかな風を全身に浴びる。草花の香り。扉を開けると池の前には先輩が先程と変わらない姿で立っていた。濃い青色の瞳と目が合う。その瞳は一見氷のように冷たいが、本当は誰よりも優しいことを俺は知っている。
「や、弥智、大丈夫だったか? 怪我は――」
先輩は俺の姿を確認すると、心配そうな表情をして俺に一歩近付いた。しかし俺は先輩の言葉を無視して、先輩より先にどたどたと先輩の元へ駆け寄る。風で頬に張り付く髪もそのままにしながら。だって、早く触れないと、夢かもしれないから。そう思いながら俺は先輩に近付いて、そして――ぎゅうっ、と、欲望のままに先輩に抱きついた。
「うわっ」
先輩から伝わるシャンプーの香りが俺の鼻孔をくすぐる。先輩もまさか俺が抱きついてくるとは思ってもみなかったのだろう。俺を支えようと俺の腰に手を回すが、勢いが付きすぎて受け止めきれず、そのまま二人一緒に芝生へと倒れ込んだ。俺が押し倒したようなものなのに、やはり先輩は俺を庇うように抱きしめていてくれていて、それにまた泣きそうになった。
「弥智……」
「……っ」
「弥智、泣いてるの? 弥智……?」
先輩の上に乗り、ジャケットに顔を埋めながらぐす、と鼻をすする。……先輩だ。先輩が、俺の傍にいる。そのことが嬉しくて嬉しくて仕方がなくて、まるで涙腺が壊れたかのように涙が溢れ出す。俺、こんなに泣き虫だったっけ? 最近ずっと泣きそうになってる。先輩が絡むとすぐ泣いてしまう自分を恥ずかしく思いながらも、俺は黙って先輩の腕の中で大人しくしていた。先輩も黙り込む俺を最初は心配していたけど、今は俺の背中を優しく摩ってくれている。嗚咽が止まらない。先輩が優しい。嬉しい。
「弥智、大丈夫か? ……って、俺が聞くのも野暮か」
「……」
「俺のせいだもんな。ごめんな、弥智」
先輩は苦笑混じりに俺の頭を撫でた。囁くような声。先輩の爽やかな香りと、芝生の独特な匂い。俺はちらりと少しだけ顔を上げて、先輩の顔を見た。たんぽぽの綿毛が風に飛ばされていく。先輩のせいじゃ、ないです。あれもこれも全部、俺が逃げてしまっていたから。なんて色々と思うことはあるけど、何から話したらいいか分からない。先輩も今は待ってくれているけど、早く何か言わないとまた呆れて去ってしまうかもしれない。それは嫌だ。折角会えたのに、またあんな気持ちになるのはもう耐えられない。先輩に避けられてから一人でいたときのことを思い出して、またぽろぽろと涙が出てくる。そんなとき、俺は天宮の言葉を思い出した。
『まず、先輩とまた話せるようになりたいってことを伝えたらいい』
そうだ。天宮が教えてくれた。素直に。俺が思っていることを、素直に、伝える。言い訳は後。今言わないと、きっともうチャンスは無い。ここで言わないと。心の中で何度もそう繰り返して、ようやく決意を固める。先輩はただただ首を傾げて、俺の言葉を待っていた。俺はさっきまで先輩に凭れていた身体を起こし、芝生に両手を付いて先輩に跨る。そして先輩を見下ろし、恐る恐る口を開いた。
「え、えっと……その、お、俺……」
「うん」
「先輩としばらく会えなくて、凄く寂しくて……だから、こうして今先輩と話せてるの、ゆ、夢なんじゃないかって、今でも思ってて……」
「うん」
「っ、で、でも俺、わがままかもしれないけど……その、やっぱり今までみたいに、せ、せんぱいとお話していたいんです……っ」
話している途中でまた涙が溢れてきて、俺は子供みたいにしゃくりあげながらぐちゃぐちゃに言葉を羅列する。一体自分が何を話しているのか全く分からない。先輩にちゃんと俺の気持ちを伝えられているのかも分からない。それでも先輩は困った顔一つせずに、俺の頬に張り付いていた髪を耳にかけてくれた。
「寂しかったの?」
「……はい」
「そっか、ごめんな。まあ、その……言い訳になるんだけどさ、テスト前なのもあったし、ちょっと弥智にきつく当たりすぎた自覚もあったから、少し気まずかったんだ。正直避けてた。……大人げないな、俺」
そう続ける先輩の言葉に俺は何も返せず、ただふるふると首を横に振る。すると先輩は寂しそうに眉を下げて笑い、俺の髪をくしゃくしゃに強く撫でた。
「でもさ、多分今まで通りってのは無理だ」
「えっ……」
な、何で? 思わず目を見開いて、もう一度小さく「え?」と零す。聞き間違いでは、ない。突然の先輩の言葉に、俺はまた泣きそうになった。覚悟はしていたつもりだったけれど、実際に先輩から拒絶の言葉を聞くとやはり想像以上に傷ついていた。や、やだ。やだ。
「ご、ごめんなさい……俺、もう先輩のこと避けたりしませんから、だから」
「うん。でもさ、そう言っても、弥智は多分これからも俺のこと避けることになると思うよ?」
「そ、そんなこと……っ」
「言ったじゃん。俺、弥智のこと好きなんだって」
先輩は俺の髪を撫でていた手をそのまま後頭部へと滑らせ、ぐいっと自身の方へ引き寄せる。突然のことだったから俺は反射的に俺と先輩の顔がぶつからないよう、咄嗟に腕に力を入れて自分の身体を支えた。お互いの吐息がかかる距離。近い。……あ、先輩の睫毛、思ったよりも長い。そう思っているときだった。ちゅ、と温もりが唇に落とされたのは。
「んっ……」
き、キス。俺、先輩とキス、してる……? 柔らかいそれはすぐに離れたと思いきや、再びまた俺の口を塞いだ。ぽかんと空いたままの俺の口内に、ぬるりと入ってくる熱い舌。一瞬いつもの夢かと思ったけど、夢、じゃない。だって夢以上に熱くて、ドキドキして、心臓が止まっちゃいそうだったから。
「ん、ん……っ、んぅ……ッ」
くちゅ、といやらしい音が聞こえて耳を塞ぎたくなる。それでもキスの気持ちよさには勝てなくて、抵抗もせずにただただ先輩の舌を受け入れていた。先輩の舌はゆっくりと俺の口内を余すことなく犯し、上顎をくすぐるように愛撫する。俺の唾液が重力に耐え切れず落ちて、そのまま先輩がごくりと飲んだ。恥ずかしい。力が抜ける。
「ン、はっ……」
そしてようやく唇を離し、先輩の顔を見れば、先輩は少しだけ頬をピンク色に染めて、劣情を孕んだ瞳で俺を見つめていた。
「な? こういう意味で弥智のことが好きなの、ずっと」
「っ……」
「嫌じゃねえの? 俺、ずっと弥智のこと性的な目で見てたし、きっとこれからも見る。本当はこんなんじゃ足りない。もっと弥智の身体に触れたいって思ってる。……それでも俺のこと嫌いにならないって言える?」
そう言う先輩は、俺のYシャツの中に手を差し込み、つつ、と腹部をなぞる。瞬間、俺の身体はぴくっ、と跳ねた。先輩の温かい手。俺はずっとその手にまた触れられたいって思ってたんだ。そんなこと、思うわけない。そんな思いを込めて、俺は両手で先輩の腕を掴み、無理矢理、俺の胸板――心臓の辺りに押し付けた。「え、ちょ」と慌てた先輩は無視だ。
「俺だって、こうやって……先輩に触れてもらいたいって、そう思ってるんです……」
「や、弥智?」
「あ、あと……先輩と、その……え、えっちする夢見て、抜いてるし、えと、あの」
「えっ!?」
「わっ、ご、ごめんなさい、えっと……そ、それに、今のキスも、もっとしたいって……そう、思ってるくらいには、俺……」
うう、恥ずかしいこと言ってる、俺。流石に先輩も驚いているようで、少し顔を赤くしていた。ぱちくり、目を瞬かせている。でも、それでもきっと、言わないよりはマシだ。そう思って、天宮に言われた通りに素直な気持ちを先輩に伝えてみた。余計なことを言ってしまった気もするけど、でも、俺だって先輩と同じ気持ちだってこと、知ってほしくて。
俺は先輩の腕から手を離し、ずっと跨っていた先輩から下りる。そして丁度身体を起こした先輩と顔を合わせた。ごくり、息を呑む。空はもう群青色に染まっていて、星がきらきらと輝いていた。
「……好きです」
どきどき、心臓が暴れてる。それでもようやく言えた言葉に、達成感すらあった。
「先輩が俺に声をかけてきてくれたときから、ずっと俺、先輩のことが好きです」
手が震える。呼吸の仕方も忘れてしまったみたいで、俺は震えている息を細かく、そして小さく吐いた。やっと言えた告白に、先輩は何にも言葉を発しなかった。
五月とは言え、日が落ちると少し風が冷たい。時間も時間だからか、いくつかベンチの横に置いてあるランプによって、裏庭が――控えめにではあるが――ライトアップされた。
えっと、ど、どうしよう。このまま無言で一日を終えてしまいそうな雰囲気に思わず不安になる。とにかく何か言わなくちゃ。何か。そう思ってちらりと先輩の表情を見ると、ランプの光でよく見えるようになった先輩は、ぽかんと口を開けていて間抜けな表情をしていた。
「あ、あの、先輩……?」
「えっ? あ、ああ……な、なんて?」
「え、えと、せ、先輩のことが好き、って話です……」
「……弥智が?」
「……は、はい」
「俺を?」
「はい……」
先輩は俺にそう確認したと思うと、突然、はああ、と大きく溜め息を吐く。そして力が抜けたように項垂れた。ど、どうしたんだろう。不安になって先輩の顔を覗き込もうとするが、その前にぺちりと大きな手で俺の目を覆われる。み、見えない。
「俺、めっちゃ傷ついたんだからな……」
「……え?」
「手、払い除けられたやつ……」
そう言われて、はっと思い出す。もしかしなくてもそれは、先輩から避けられるようになった元凶のことだ。うう、申し訳ない。あれは俺が全部悪いんです。予知夢だとしてもただの夢でしかないのに、あんなに惑わされてしまったから。そう思って「ごめんなさい」と再び謝ろうとするが、先輩はその前に俺から手を離して、そのまま俺の両手を握る。温かい手。いい匂いがする。ついでに顔も近い、と思う。それでもそんなことを言う雰囲気では無くなってきたので、俺は黙って真面目な表情の先輩を見つめていた。
「俺も好き」
「……はい」
「最初はただ単純に一人で飯食ってる弥智が気になってただけだけど、俺の将来の夢の話を真剣に聞いてくれて、かっこいいって言ってくれたときから、ずっと好きだった」
「ふふ……」
「言っとくけどな、俺、優しいだけじゃないぞ。重たいし、多分お前が思ってるより、結構えげつないこと考えてる」
「そうなんですか?」
「そうなの。でも、もう逃げられないからな。いいの? 逃げるなら今のうちだぞ」
先輩は俺の手を握りながら、真剣な表情で俺の顔を覗き込む。そんな先輩を見て、俺は思わず笑ってしまった。だって逃げられないって言いながらも、逃げ道を用意してくれてる。そんな先輩が好きで好きで、どうしようもなく好きなんだからしょうがない。逃げるなんて最初から全然考えてない。
「大丈夫です。俺、先輩になら何されても平気だから」
俺はそう言って、自分の手ごと動かして先輩の手にキスを落とす。まるで一生を誓うような、そんなキス。先輩が俺の傍にいてくれるなら、それだけで幸せだもん。大丈夫。そう言うと先輩は今までにないほど幸せそうにふにゃりと笑って、「あーあ、もう知らないからな」とおどけてみせた。
――空を見上げれば、そこはたくさんの星たちで彩られている。澄んだ空気。冷たい風。そして彼らの行く末を見届けた鯉は、池に映った星々と一緒に優雅に夜空を泳いでいた。
***
「えげつないことって、例えばどんなこと考えてたんですか?」
寮への帰り道。夜空の下、先輩と手を繋いで歩いている最中に、密かに気になっていた疑問をぶつけてみた。
「えっ?」
先輩はまさかその話題を掘り返されるとは思ってもみなかったのか、あからさまに嫌そうな顔をする。むむ。そんな顔をされると、余計に気になってしまう。俺はわざと足を止めて、催促するように先輩の顔を見上げた。
「本当に聞くの?」
「……だめですか?」
「いや、だめっていうか……引くと思うんだけど」
「ええ……?」
俺が引くようなこと? 何だか想像が出来ない。先輩の言葉の続きを首を傾げて待っていると、先輩はしばらく無言でいたが、一歩も譲らない俺を見て諦めたように溜め息を付いた。
「弥智さ、夢見てただろ」
「夢……?」
「俺に告白される夢とか、えーと……セックスする夢とか」
ん? ……え!? もしかして予知夢のこと!? な、何で先輩がそのことを知ってるんだろう。まさか俺、いつの間にか口を滑らせてしまっていただろうか。そう思った俺はもう手遅れだというのに、意味もなく両手で口を塞ぐ。すると先輩はそんな俺を見て「違う違う」と笑って否定し、「あれさ、俺のせいなんだよね」と苦笑しながら続けた。
「……はい?」
先輩のせい、ってどういうこと? 全く理解が出来なくて目を瞬かせていると、先輩は気まずそうに目線を空に移し、「だから言いたくなかったんだよなあ」とぼやいていた。続きが気になる俺は思わずごくり、唾を飲み込む。
「俺、他人の夢に干渉出来るんだよ」
え?
「だから異能使って、俺が弥智にそういう夢を見せてたの。俺のほうが年上だから、異能のレベル的に弥智の異能打ち消せるんだよ」
「えっ!?」
「要するに、弥智が見ていた夢は全部、俺の妄想」
先輩はそう言って、俺の手をぎゅっと強く握る。風のせいでちょっとだけ寒くなってきたから、先輩のこの温かい手が丁度良かった。俺は先輩と手を繋いだまま、自分の足先を見つめながら悶々と考える。
え、えっと……もしかして俺、聞かなくてもいいことを聞いてしまったんじゃ……? そしたら俺は先輩の妄想で抜いてたってことになるし、そもそも先輩は俺とあんなことやこんなことをする妄想をしてて、それをわざと俺に見せてたってことで……ええと……
先輩はもうここまで言ってしまったからか「まあ、弥智が聞きたいって言ったから」なんて開き直っていた。そしてそんな先輩は複雑な気持ちになっている俺なんて無視して、そのまま俺の腰をぎゅっと引き寄せる。
「ひえ……っ」
せ、先輩のあれが俺の股間に当たってるんですけど、その、えっと。
「あんな夢見たら、嫌でも俺のこと意識するだろ? だから毎日毎日弥智に異能かけてた」
「……あ、あの」
「どうしても欲しかったんだ、お前のこと。俺のものにしたかった」
耳元で囁かれる甘い言葉。それがとても擽ったくて、俺はみっともない声を出しながらつい肩を上げて耳を隠す。うう、そう言われると、何でも許してしまう。ずるい。最初から怒っていたわけではないし、少し戸惑っていただけだけど、それでもその言葉を聞いただけできゅうん、と胸が締め付けられて、どきどきした。
……うん、まあ、先輩にこんなにも愛されてたんだなあと思うと、悪い気はしない、かもしれない。ちょっとびっくりはしたけど。俺だって先輩の立場だったら何でも利用していたかもしれないし。そう思った俺は、先輩の背中に手を回して強く抱きしめる。大きな背中。やっぱり、どんな先輩でも好きだ。仕方がない。
「もう俺は先輩のものだから、大丈夫ですよ」
その代わり、先輩も俺のものですよね? そう問いかけると、先輩は幸せを噛みしめるように「うん」と笑った。
魚は夜空を泳ぐ夢を見る ちゆき @cyk03_01
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