⑧ 神崎沙羅

「──遺体とともに捨てられていた貴重品などから身元が判明しているのは、石原柚子葉さん、柴田郁代さん、金城さゆりさん、嶋村乃々佳さん、鶴城奈帆さん、そして音楽家の渡清一郎さんです。なお、犯人は未だ捕まっていないとのことです。また新たな情報が入り次第、引き続きお伝えしたいと思います」

 私は入口付近に天吊されたテレビを何気なく眺めていた。

 よくもまあ平和ボケしたこの世の中でそんな物騒な事件を起こそうと思う人がいたものだ。人殺しや戦争とは無縁な環境に身を置いているせいか、毎回そんな残虐な事件が流れるたびに私はそれをどこかで他人事として処理していた。

 どこの世界にもどうしたって理解に及ばない馬鹿はいる。そんな人に「何のために?」という問いが意味をなさないことは身をもって理解していた。正直なところ、顔も声も性格も知らない誰かがある日突然いなくなろうが、法を犯そうが、私生活には何の支障もきたさないからどうでもいいのだが。

 もちろんそれらの事件を怖いと思う認識はあったものの、時間が経てば結局いつかは忘れてしまうのだろう。今でさえN山で発見された六人の遺体の名前を誰一人として覚えていないのだから。

 ──手に入れたいと思っている人はいるよ。

 ついさっき天野先輩が口にしたその言葉がふと脳裏によぎった。

 あのまま勢いに身を委ねていればきっと私の初恋はもうすでに終わっていたかもしれない。隼人くんが言ってたあの噂は確かに本当だったんだ。天野先輩のことだからきっともうすぐにでもその人と付き合ってしまうのだろう。

 そんなことを考えていると次第に頭の中に靄がかかっていくように自然と気が滅入った。

 やがて施錠されていた女性用トイレの扉が開くと、どこかスッキリした顔つきの女性が中から出てきた。どうやら彼女は豪快に嘔吐していたらしい。入れ替わりで中に入ると、便器の周りには独特な腐敗臭が漂っていた。

 私は直ちに鼻先を指でつまみ、水洗レバーを数回引く。もともと尿意を催していたわけではなかったが、便座に腰を下ろすとそれなりに水分は体外へ出ていった。まだアルコールは一滴も飲んではいないしそもそも乾杯すらしていない。もちろん酔いが回っているはずもない。それでも緊張のせいで心臓は普段よりも速く動いた。

 もう今日は飲みまくって馬鹿になるしかない──

 私はそんな決意を胸に水洗レバーを引いた。

「すみません、お待たせしました」

 席に戻ると、天野先輩はすでに中身の入っていない透明で小さな包装袋を卓上で丸め、それをポケットに仕舞っていた。「それなんですか?」と私が何気なく聞くと、彼はハッとしたように顔を上げて「う、ウコン飲んでたんだよ」とどことなく戸惑ったような様子でそう答える。卓上にはすでにファーストドリンクが届いていた。

 私はさっきの言葉に明らかな違和感を覚えていたが、それをわざわざ言及する気にはなれなかった。やがて私は一人だけビールジョッキを手に持ち、彼の持つウーロン茶で満ちたグラスと軽く突き合わせる。馬鹿になろうと心に決めた私は一気にそのジョッキグラスを空にした。

「沙羅ちゃんの飲みっぷりは見てて気持ちがいいねっ」

 彼のその言葉で調子に乗り、私は近くを通りかかった店員に二杯目のビールを頼んだ。その直後にまた、あっ、と思う。気付けば、ほんの少し前に味わったばかりの後悔を二度も繰り返していた。

「カルーアミルクにすればよかったな……」

「えっ、なんて?」と彼はすかさず聞き返す。「ごめん、聞いてなかったわ」

「全然気にしないでください。ただの独り言なんで」

 私は苦笑いを浮かべながらそう誤魔化し、横を向いて顔を隠すように大きな欠伸を一つした。依然として料理はまだ届かない。

「そういえばさっきの話なんだけどさ」

 その間に天野先輩は何の前触れもなく唐突に話を切り出した。

「さっきの話ですか?」

 聞き返すと彼は肯く。「そう。さっきの好きな人の話なんだけ──」

 突然、その声がぷつりと途切れた。

 次の瞬間、ふっと首から力が抜けたように頭が落ちた。途端に胸の中で何かがドクンっと大きく動く。最初はただ酔いが回っただけだと思っていた。

 しかし、そのすぐ直後にほんの一瞬だけ視界がボヤけ、だるま落としのように額が卓上にぶつかりそうになったことに私は肝を冷やした。

「どうした?」と彼は不思議そうな顔でこちらを覗き込む。

「ああ、いえ、なんでもないです」

 ハッとした私は慌てて頭を上げ、かぶりを振る。とはいえ、さっきから何故か視界の焦点が全く合わずに目の前の天野先輩の姿が二重にも三重にも見えてしまうことに焦りを覚えていた。

 いきなりどうしてしまったんだろう。頭痛や吐き気はしないものの、まぶたが鉛のようにやたら重い。欠伸が止まらないのきっと酸素不足のせいなのかもしれないが、息苦しさは全く感じていなかった。

「ほんと大丈夫? なんかすごい眠そうな顔してるけど」

 そこでようやく自分が眠気に襲われているのだと自覚した。

「あれっ。どうしちゃったんですかね、私」

 聞いても仕方のないことを天野先輩に聞いてしまう。

 ほくそ笑むような顔でこちらを見つめていた彼は「どうやら薬が効いてきたみたいだね」とわけのわからないことを口にした。

「……えっ?」

 自然と反応は遅れた。一体何を言っているんだろう。少しずつ意識が遠のき始めていた私の頭では理解に及ばなかった。

 そのまま彼と視線がかち合ったまま、私は今にもその瞳の引力に意識を吸い取られてしまいそうな感覚に陥った。まるで誰かが力づくでまぶたを押さえつけているみたいに、みるみるうちに視界は狭まっていく。

「……どうして、さっきから笑ってるんですか?」呂律が思うように回らない。

 そこでついに私の視界は真っ暗闇に包まれた。もう指先一つピクリとも動かせない。いつの間にか頬にはひんやりとした冷たいテーブルの感触が広がっていた。

「──ようやくきみを手に入れられたからさ」

 意識が途切れる直前には、遠くからそんな声が聞こえたような気がした。

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一目惚れと初恋(No.7) ユザ @yuza____desu

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