⑦ 鶴城奈帆

 目を覚ますと私はいつの間にか暗闇の中にいた。

 思うように身動きが取れないのは知らず知らずのうちに手足をロープか何かで強く縛られていたせいで、口の上をガムテープで覆われていたせいで声も出せずに息苦しかった。

 床から伝わってくる温もりは心地よく、ジメジメとした嫌な湿気は感じない。そんな少ない手がかりを基にして考えればこの場所が空調管理の行き届いた室内であることくらいはわかるが、それでも結局は自分の置かれている状況がさっぱり理解できずにいた。頭の中には小動物のようなものが絶えずうごめいているような不快感と、時折内側から頭皮を刺すような痛みが残っている。

 ロープを手繰り寄せてみるように記憶を辿ってみると、最初に思い浮かんだのは天野くんだった。そうだ、私はついさっきまで彼と一緒に駅近の店でジンギスカンを食べていたんだ──

 天野くんっ、と叫んでみるが実際にはほとんど声は出ていない。彼の返事が返ってくることはなかった。不気味なほどの静けさやがて正体のわからない漠然とした不安へと変わっていく。

 目が慣れ始め、暗闇の中で物音ひとつ立てずにひっそりと佇んでいる物体のシルエットが薄らと浮かび上がった。壁際に寄せられた大きな四角い棚のような影に、天井にも届くほど背の高い円筒型の影、そして壁の上部から飛び出している得体の知れない塊のような何か。周囲を見渡すと、とにかくこの部屋に自分以外の人影がないことだけははっきりとわかった。

 私は身動きが取れないなりに足首を縛り上げられたままのかかとを必死で地面に叩きつけ、誰かしらの助けを待った。しかしその音は四方を囲んでいる壁面にあえなく吸い込まれてしまった。再びこの部屋に残ったのは深くて重い静寂と絶望に似た虚無感だけ。

 どうやら私はこの部屋に閉じ込められているらしい。

 ふと、今更になってそんなことをはっきりと自覚した頃、いきなり背後から細い光が差し込んできた。

「あ、起きてたんだねっ」と聞き覚えのある声がした。

 それは振り向かなくても後ろに立っているのが天野くんだとわかった。と同時に、不思議とその声から全く恐怖心を感じ取れなかったことが引っかかった。

 暗闇に覆われていた地面に細く白い光の筋が這い、徐々にその範囲を広げて室内を照らし出していく。私の影は光のレーンを走るように壁際までのっぺりと伸びていた。そしてその先に見える大きな四角い影の正体は、大中小からなる瓶が無数に並べられていた透明なショーケースだった。

「ごめんけど、この部屋の蛍光灯は取り外してるから薄暗いままで我慢してね」

 天野くんがそう言うと私はようやく彼の方を振り返った。廊下の明かりを背中に受けていた彼の表情はよく見えない。しかし、まるで前々からこの部屋の存在を知っていたかのようなその口ぶりに今度ははっきりとした違和感を覚えた。

「僕のコレクションたちは蛍光灯の紫外線に弱くてね」と彼は照れ臭そうにそう言った。「でもせっかくだからよく見てくれよ。ここまで作るのには随分と時間がかかったんだから」

 天野くんの指差す方へと視線が移る。

 そこでようやく私はこの室内の異質さに息を呑んだ。

 天井にも届くほど背の高い円筒の中には人が直立していたのだ。全身の皮膚は剥ぎ取られ、筋肉と内臓をむき出しにしている。飛び出るほど威圧的なその眼球はこちらを一直線に睨んでいるようにも見えた。

「あれはただの人体模型だよ」と彼はどこか不服そうに口にする。「見て欲しいのはそっちじゃないんだけどな」

 私はその言葉で恐る恐る目線を変える。そこには壁面から飛び出した様々な動物の頭が並んでいた。豚、鹿、ニワトリ、うさぎ、犬、その他諸々。

 そのどれもが妙に生々しくリアルで思わずゾッとした。

 いつの間にか目の前まで移動して正面から廊下の光を浴びていた天野くんはこちらをどこか満足げな表情で見下ろしている。それはまるで私の知らない全くの別人に見つめられているような気分だった。

「剥製はね、内臓や肉を取り除いた動物の皮に防腐処理を施した後、綿を詰めて形を整えるんだ」と言って今度はショーケースの前に移動し始めた彼は大きさの違う二つの瓶を両手に取る。「ちなみにこっちも結構上手くできたんだ」

 そしてついに得意げに話を続ける彼の姿に背筋が凍った。

「ホルマリン漬けって知ってる?」と聞く彼はこちらに見せつけているようにそれぞれの瓶を愛おしそうに頬ずりしていた。「ちなみにこれはネズミと子豚の標本だよっ。可愛いでしょ?」

 私は瓶の中に詰め込まれていたその光景を見た時、思わず目を疑った。

 それは液体に浸かった本物のネズミと子豚の死骸にしか見えなかったからだ。触れなくともその体温が限りなく冷えていることだけはこちらにも伝わってくる。瓶の中に閉じ込められていた二体の動物はどちらも同じようにその瓶の側面に頬が潰れるほど顔を押し付け、生きていた痕跡を残すかのように瓶の外側にはマジックで日付が記されていた。

 そのあまりの不気味な光景に私が咄嗟にそこから目を逸らそうとすると、天野くんは頬ずりしていた手をはたと止めて「もう少しちゃんと見てくれないとこいつらが可哀想じゃないか」とその二つの瓶を無理やりこちらの目と鼻の先まで近づけてきた。

「よく見てよ。ほら、可愛いだろう?」

 それは到底可愛いなんて言葉を用いて称されてもよいものだとは思えず、私はそれを拒絶するようについ強くかぶりを振っていた。

 すると次の瞬間、刃物のような鋭い声が鼓膜に突き刺さった。

「なあっ! 可愛いだろっ?」

 いったい何が彼の琴線に触れたのかは理解できなかった。それでも狂気じみたその眼差しに私は身の毛がよだつ恐怖に駆られた。

 私は結局その迫力に気圧され、力なく肯いてしまう。天野くんはその反応にようやく満足したように「ようやくわかってくれたみたいだね」と今度はその顔に不気味なまでの笑みを貼り付けた。

「ちなみにホルマリン漬けした標本はこの他にも魚や蛇があるんだ」

 そう言ってもう一度ショーケースの前に移動した彼は手に持っていたネズミと子豚の入った瓶を元の場所へと戻し、それと入れ替えるように新たに瓶を二つ手に取った。

「まあ、なんといっても極め付けはこれだよね」と口ずさみながら再び私のもとに戻ってきた彼は左手に蛇の浸かった瓶、そして右手には何やら赤い塊が底に沈んでいた瓶を持っていた。「人の心臓って生で見たことないでしょ?」

 一瞬にして全身から血の気が引いた。途端に動悸と冷や汗が止まらなくなる。

「ああ、その状態じゃ喋れなかったよね」

 唐突にそれを独り言のように声に出した彼は今更になって私の口を覆っていたガムテープをゆっくりと剥いだ。

 久しぶりに生ぬるい空気が唇に触れる。

 しかし、未だに自分が置かれている状況がよくわかっていない混乱と天野くんに対する拭いきれないほどの畏怖が胸の中で複雑に絡み合っている今、第一声にまず何を口にするべきなのかに困惑し、なかなか喉が開かなかった。

 そうこうしているうちにも天野くんの邪魔が入る。

「本当はこの前まで心臓以外にも肺とか腎臓とかも飾ってたんだけどね、なんでかものの見事に腐っちゃってさ。多分、防腐処理が上手くできてなかったんだと思うんだけど」と彼はまるで理科の実験に失敗したかのような軽い口調でその後も続けた。「だから今はやり方を変えて、プラスティネーションって呼ばれてる手法を試してるんだ。これは人や動物の遺体の一部に含まれてる水分と脂肪分をプラスチックのような合成樹脂に置き換えることでまるでフィギュアみたいに保存可能にする技術なんだけどね──」

 私はその説明の半分も理解することができなかった。

 いや、正確にはそのあまりに現実離れした光景や言葉の数々に、私は目に映るもの全てを嘘だと思い込もうとしていただけなのかもしれない。

 そしてふと、私はどこかで聞き覚えのあるその言葉に引っかかり、不意にそれを口先で反芻していた。「フィギュアみたいに……」

 何故かその言葉を口に出した途端、手先の震えが止まらなくなった。

 いつかの合コンで彼が口にしていた趣味を思い出し、私は水を浴びたような戦慄を感じてしまう。

 ──フィギュア作り。

 確かに彼はそう言っていた。厳密にはフィギュアものを作っていると言っていた。しかも素材の調達と下準備は自分の手でやるらしい。さらに、作ったフィギュアは誰かに売ったり譲ったりはせずに部屋に飾って楽しむ自己完結型。最近は人型のものにも挑戦しているようだが失敗続きでことごとく素材を無駄にしてしまっているという……。

 まるで順番にパズルのピースが嵌っていくかのように、私の胸の中はみるみるうちに恐怖で埋め尽くされていく。

「奈帆ちゃん、僕のフィギュア作りに協力してくれるんでしょう?」

 天野くんは不気味に笑っていた。

 いつの間にか私は大声で叫んでいた。

 誰でもいい。誰でもいいからこの声を偶然拾ってくれる救世主に助けを求めたかった。波打つ心臓は次第に警鐘を鳴らすように激しさを増していく。

 しかし、無情にも四方を囲んでいた壁がその決死の声を跡形もなく吸い取ってしまった。

 その後も私はわけがわからず何度も何度も喉がはち切れんばかりに命を賭けて叫び続け、やがてようやく絶望を知った。

「無駄だよ。ここ防音室だから」

 不気味にニタつく彼の笑い声だけが、なぜか反響しているように聞こえた。

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