⑥ 神崎沙羅

「なんかすごい浮かれてるみたいだな」

 退勤時間早々に着替えを済ませた私が手鏡に向かって入念にメイク直しをしている頃に、遅れて控え室に戻ってきた隼人くんはこちらを見てそう言った。

「お疲れーす。もうあがりですか?」

 私は薬指に取ったリップを唇の内側から軽く載せていきながら横目に彼を視界に捉える。この日の店内は20時過ぎにかけていつになく賑わっていたせいか、その顔には疲労の色が滲んでいるようだった。

「とりあえず残りは店長がやってくれるってさ」と言った彼は首から掛けていた茶色のエプロンを脱ぎ、それを丸めて洗濯カゴの中に放り投げた。仕事中に着用する制服は基本的に店側が毎回洗ってくれる。「せっかくこれから飯でも奢ってやろうと思ってたんだけどな」

「じゃあその分はまた今度にしてもらおっ」

 私はそう言って笑うと、隼人くんは店長がいつも使っているワークデスクに座って「へいへい。所詮おれは予定がない時に利用されるだけの都合のいい先輩ですよ」と苦笑いを浮かべた。

「なにふてくされてるんですか。こっちはこれから一世一代の大勝負なんだからもう少し気持ちよく送り出してくださいよー」

「そうだな。まあ、とりあえず慰安会の店はちゃんと予約しとくよ」

「ねー。だから縁起でもないこと言わないでよ」ちょうどメイクを終えた私は手鏡をポーチの中に仕舞う。「今日はただ噂の真相を聞くだけなんだから」

「でも、答えによってはその時点で失恋するってことだろ?」

「それはそうかもしれないけど……」

 私はそう声を漏らして目を細めて隼人くんを睨みつけた。せっかく美月ちゃんのおかげで勇気を振り絞る決心がついたのだ。わざわざ不安を煽るようなことを言ってくる彼の心情が理解できなかった。

 やがて膝の上に置いていたスマホが小刻みに震えてその画面に目を落とす。

『お疲れ! バイト終わった?』

 この日はシフトを休みにしていた天野先輩はどうやら近くの本屋で時間を潰しながら私のことを待ってくれていたらしい。『本屋閉まっちゃったから先に店に向かっててもいいかな?』というメッセージとともに、彼が事前に予約してくれていたという店の位置情報が送られてきた。

『大丈夫です! 私もすぐに向かいます!』

 私はメッセージを送り返すと、今更になってようやく天野先輩と二人きりでご飯を食べる時間が間近に迫ってきているという実感が湧き、途端に緊張を感じ始めていた。心拍数はみるみるうちに高まっていく。

 振り返ってみると、男の人と二人きりになるだけでここまで緊張していたのは初めてだったかもしれない。中学一年生の春に初めてできた先輩彼氏とデートに行った時も、高校三年生の夏休みに校内イチと謳われていた二枚目の彼氏と夏祭りに行った時も、手汗一つかいたことがなかった。

 思えば、当時の私は恋というものを雰囲気で捉えていたのかもしれない。たとえ好きな人がいなくともイケメンの男子に告白されれば一旦付き合ってみるのが多分正解で、特に嫌いでもない相手と二人で一緒に遊んだり、流れでキスやセックスまで及んでしまえばそれは「好きだからできること」だと思っていた。そしてそういうものを全部ひっくるめて恋というのだと勘違いしていた。自分に向けられた好意には敏感のくせに、自分から誰かに向ける好意はいつも曖昧だった。これまでに付き合ってきた人の数は誰よりも多いはずなのに、肝心の恋人だと思える人は一人もいなかった。

 だからこそ私はこんなにも天野先輩のことを欲している自分の姿に戸惑い、いまだかつてないほど失恋することを怖がっているのだろう。

 きっとこれが私にとって初めての恋なのかもしれない。

 今更ながらに私は初めて好きという感情に触れた気がした。

 だとすると、これまでに付き合ってきた彼らは一体何だったのだろうか。イケメンの彼氏がいるというだけで周囲から羨望の眼差しを向けられるあの心地良さは一体何だったのだろうか。身体を交わらせて寂しさを埋めていたあの時間は一体何だったのだろうか。

 ふと、私は隼人くんが浮かべていた苦笑いを思い出し、遅れてそれが胸をえぐった。

 結局は私も彼の言う通り、周りの人間を無意識のうちに都合よく利用していただけなのかもしれない。そう思い至ると、急に彼に対する申し訳なさが込み上げてきた。

「隼人くん」と支度を終えた私は控え室を出る前に声をかける。

「どした」彼はそっぽを向いていた。

「隼人くんは私にとって都合のいい先輩なんかじゃないから」

 別にこんなことをわざわざ言う必要なんてなかったのかもしれない。それでも彼にはちゃんと面と向かって伝えておくべきだと思った。

「兄妹のいない私にとって隼人くんは、何でも腹を割って話せるたった一人のお兄ちゃんみたいな存在だから」

「……なんだよ急に。気持ち悪いな」こちらを振り向いてそう言った隼人くんはふんっと鼻を鳴らし、「ああ、もうっ」と何かを吹っ切ったような声を出して頭の後ろを無造作に掻きむしった。「せいぜい頑張ってこいっ。もし落ち込むようなことがあったらその時は美味いもんでも食べさせてやっから」

 僅かに震えたようなその声に不思議と目頭が熱くなってしまう。

「うん、ありがと」

「……おう」

 その返事を聞いた私はようやく控え室の扉を開け、天野先輩のもとへ歩き出す。バックヤードを抜ける途中に後ろから微かに聞こえてきた咽び泣くような声には気付いていないフリをした。


「すみません、お待たせしました」

「おおっ、お疲れ」

 N駅の線路沿いを東に進んで突き当たりの交差点を右に折れたすぐ先にある大衆居酒屋のような見た目の店の前で、天野先輩はこちらに手を振って私のことを迎えてくれた。

 袖口の広いライトブルーのシャツとタック入りでキレイめのテーパードパンツはどちらも同じ生地のセットアップで、シャツの中に着ていた淡いピンクのTシャツの上からはゴールドのネックレスがさりげなく輝いていた。足元は日頃からこまめに手入れしていることが窺える汚れひとつない真っ白なスニーカーを履いている。そんな爽やかな格好をしていた彼は薄暗闇の中で真昼のように明るい店を背にしていたからか、私の目にはまるで後光が差しているように映っていた。

「ここって何のお店なんですか?」

「ジンギスカン専門店だよ。あっ、もしかして沙羅ちゃん羊肉苦手だった?」

 顔を強張らせる天野先輩を見て私はすぐにかぶりを振った。

「そんなことないです。大好きですっ」

 そう言うと目の前で彼はほっと安堵したように顔を緩ませた。私はついハッとして目を伏せる。別に愛の告白をしたわけでもないのに、食い気味に口にしていた「だいすき」の四文字が今頃恥ずかしくなってきたのだ。みるみるうちに顔は熱を帯び始めた。

「じゃあ行こうか」

 私は何も気付いていない様子の彼の後ろをついていき、店の中に入った。

 店内には手前側に開けたテーブル席が六つあり、その奥には暖簾で間仕切られた半個室席が通路を挟んで左右に二つずつ並んでいた。入口付近で天吊されていた液晶テレビはテーブル席に座っている客をもれなく見下ろしている。

 天野先輩が出迎えてくれた店員に「22時半から予約してた天野です」と伝えると、その店員は「お待ちしておりました」と笑顔で頭を下げて手前側二番目のテーブル席へと案内してくれた。

「雰囲気の良いお店ですね」と開口一番にそう言った私は店員から受け取ったおしぼりで緊張で湿った手を拭いながら店内を見渡した。「よく来るんですか?」

「そうだね。昔から通い詰めてる店なんだ」

「ふうん……」

 時折、私は彼の顔色を窺いながら相槌を打った。「誰とよく来るんですか?」と聞くだけでもつい震えてしまいそうになる声を無理やり矯正させながら会話を続ける。「うーん」と唸るような声を漏らしながら顔をしかめている彼を見ていると、いつの間にか自分が身構えて次の言葉を待っていることにふと気付いた。

「沙羅ちゃんの知らない人だよ」と彼は言う。

 その表情や声色には普段となんら変わりない優しさと穏やかさが孕んでいるように思えたが、その一方で、まだバイト先でしか絡んだことのない私との間に壁を作っているような振る舞いにも感じた。

 不思議と引き込まれてしまうような彼の眼差しはこちらにそれ以上立ち入ることを許さない。彼はいつもその笑顔に隠している裏側を見せようとはしてくれなかった。その滲み出るミステリアスな雰囲気が彼の魅力の一つでもあるのだが、この日ばかりは馬鹿を装ってでも軽々しく「女の子ですか?」と聞けないその空気がもどかしかった。

 せっかく美月ちゃんや隼人くんが背中を押してくれたのだ。せめて最低限の目的くらいは果たしたい。

 テーブルの脇に立て掛けてあったメニュー表に手を伸ばす天野先輩に「何食べたい?」と聞かれている時も、頭の中では以前彼がこの店に連れてきたであろう私の知らない誰かのことをひたすら想像しながら「全然お任せしますよ」と答えていた。それからしばらく彼は一人でメニュー表とにらめっこを続け、やがて呼び出しベルを鳴らして店員を呼んだ。

「そういえば沙羅ちゃんって一人暮らし?」

 彼は唐突にそんなことを聞いてくる。私はそれに肯いた。

「そこまで広くはないですけど、大学からほど近いデザイナーズ物件なんです」

「へえ、デザイナーズ物件かあ」と彼は目を丸める。感触は上々だった。「ちなみに実家はこの辺?」

「いえ、両親は九州に住んでるのでほとんど顔を合わせることはないですね」

 そう答えたところでハンディを手にした店員が注文を取りに来た。天野先輩は慣れた様子でメニュー表を指差しながら滞りなく羊肉を次々に頼んでいく。その途中でドリンクを聞かれた私は咄嗟に生ビールを頼み、あっ、と思う。カルーアミルクのような女の子っぽいカクテルにすればよかったなと少しだけ後悔し、次はそうしようと心に決めた。

 やがて注文を取り終えた店員がその場から去っていくと、つい先ほどまで交わしていた会話に引き戻そうと今度は私の方から彼に質問した。

「先輩も一人暮らしですか?」

「そうだよ」と彼は肯く。「といっても、僕が住んでるのは昔叔父も住んでた一軒家だからさ、一人だとどうしても部屋を持て余しちゃうんだ」

「え、一軒家ですか? それはすごいですねっ」とつい食い気味に反応してしまう。

 それに彼は謙遜するようにかぶりを振って苦々しく笑った。

「ただ寂しいだけだよ」

 ふと、私が彼の恋人であればこんな時に「じゃあ一緒に住もうよ」と言ってあげられるのに、と異なる世界線にいる自分が羨ましく思った。

「先輩の叔父さんって今はどこで何されてる方なんですか?」と私は聞く。

「一応、僕の知っている限りでは割と有名な音楽家だったみたいだよ」と彼は答えた。「渡清一郎わたりせいいちろうって聞いたことない?」

「すみません。私あんまり音楽とか詳しくなくって……」

「気にしないで。知ってる人の方が少ないから」

 そう言って笑う彼は無知な私に嫌な顔ひとつ見せなかった。そればかりか今度はまるで認知されていなかった身内のことを笑いものにするような口ぶりでこう言った。「でもその割には家に一丁前な防音室が完備されてるんだよね。といっても今は改装して僕のコレクション部屋になってるんだけど」

 きっと彼は叔父の存在を知らなかった私に出来るだけ気を遣わせないようにあえてそうしてくれたのだろう。申し訳ないとは思いつつも、とはいえ今更その配慮を無下にするようなこともできず、迷った末に私はそれにそれっぽい相槌を打つだけで彼が何をコレクションしているのかまでは聞かなかった。

「……先輩って付き合ってる人いるんですか?」

 どうしてこのタイミングでその質問を挟もうと思ったのかは正直自分でもはっきりとした理由が見つけられなかった。それでもなんとなく、そろそろちょうどいい頃合いな気がしたのだ。私は天野先輩と会話を交わしながらずっとその機会を窺っていた。

「付き合ってる人?」と彼は聞き返す。

 私が話を先へ促すようにこくりと肯くと、今度は目の前でかぶりを振った彼がしばらく考えるような間を空けてこう言った。

「付き合ってる人はいないけど、手に入れたいって思ってる人はいるよ」

 その独特な言い回しに私は咄嗟に何と返事をすべきなのかに迷い、次の質問を口にするまでに数秒のタイムラグが発生した。

「そ、それって誰ですか?」

 私は膝の上で小刻みに震えている手に目一杯の力を込める。

 失恋はすぐそこまで近づいてきているような気がした。すでに胸が痛み始めていたのはきっと私が初恋を無意識のうちに諦めていたからかもしれない。

 彼がどこの誰かも知らない女の名前を口にした瞬間に私の初恋は終わってしまう。そしてそれと同時に毎日コツコツと積み上げていった好きという感情は全てが無駄になり、バイト先で顔を合わせるたびに心躍っていたあの輝かしい日々はもう二度と姿を現さなくなってしまう。そんな何もかもを失った未来がすぐ目前まで迫ってきているように思えた。

 天野先輩がわずかに口を開いた次の瞬間、私はついそんな未来に怖気付いてその場に立ち上がっていた。

「どうしたの?」

 きょとん顏でこちらを見上げる彼に私は「ちょっとトイレっ」と答え、逃げるように席を離れた。トイレは半個室席とテーブル席を隔てた横に伸びる通路の突き当たりに位置していた。

 私は駆け込むように女性専用トイレに直行してその木製の引き戸を横にスライドさせようとしたが、あいにく先客が入っていたらしく、内側からトントンっと「入っていますよ」というノックの合図が返ってきた。

 仕方なく近くの通路の壁際に身を寄せて順番を待つ。

 その間もついさっき失いかけたばかりの初恋のことが頭の中でぐるぐると渦巻き、私はその渦に溺れてしまわないように入口付近で天吊にされていたテレビを何気なく見上げた。シワひとつないスーツを着こなした女性アナウンサーは無表情に手元の原稿を淡々と読み上げていた。

「N山で発見された遺体のうち女性の被害者はいずれも二年前に起きた女子大生連続失踪事件で行方不明になっており、警察は新たに連続殺人・死体遺棄事件として捜査を進めているようです。遺体とともに捨てられていた貴重品などから身元が判明しているのは、石原柚子葉さん、柴田郁代さん、金城さゆりさん、嶋村乃々佳さ──」

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