⑤ 鶴城奈帆

 二限目の講義が終わったのか、食堂にぞろぞろと学生たちが雪崩れ込んできたあたりで私と健介は席を立ち、使用済みの食器とトレーを返却口に返した。

 私は私服姿の学生とすれ違うたびに彼らのことをどこか羨望の眼差しで見てしまう。もっと遊んでおくべきだったかなあ、なんてことをつい後悔するのは今に始まったことではなかった。

 脱いだジャケットを腕に掛けていた健介は食堂を出たところで「これから友達とカラオケ行くんだけど、お前も来る?」と持ち前のフットワークの軽さを見せつけてきたが、私はその誘いを断って大学の図書室へと向かった。

 今年に入ってから毎日欠かさず昼食後からバイトまでの時間をSPI(適性検査)の勉強やエントリーシートの作成に使っていた。別にそれを努力だとは思っていなかったが、ほとんど何もやっていないで就活に挑もうとしている健介や彼の取り巻きたちよりは大きな会社に入ってやろう、という自分勝手な闘争心を燃やしながら就活に励んでいると、キツいことがあってもなんとか頑張ろうと思えた。

 この日も私はきっちり三時間ほど机に向かい合った後、一度家に戻ってスーツを着替え、バスを乗り継いでバイト先へと向かった。

 一昨年開店したばかりのN駅前にある本屋のオープニングスタッフとして働き始めた私はアルバイト生の中ではただ一人の最古参だった。昔からそれほど本が好きだったというわけでもないのだが、たまたま集めていた漫画を社割価格で購入できることを知り、求人に応募した。とはいえ、本屋で働いていると自然とそれまで興味のなかった芥川賞作家や直木賞作家の名前を覚え、彼ら彼女らの新刊を不意に手に取っていることも増えた。

 私はいつも通り16時には出勤して早番の職員から共有事項を引き継ぐと、早速混み合っていたレジで会計業務に従事した。

 書店員は基本的に閉店までの時間のほとんどを接客や POPづくりに充て、空いた時間があれば出版社に返品しなければならない売れ残った書籍をダンボールの中に詰めていく返品作業を進めていく必要がある。

 美術部に属していた経験はないが昔から絵を描くことが得意だった私のイラスト入りPOPは割と客ウケが良いらしく、周りからも冗談で「POP職人」と命名されていた。そのため、店長には出勤する日はできるだけPOPづくりに多くの時間を割くように頼まれていたのだが、この日の店内はいつになく賑わいを見せており、一向にレジ打ち業務から解放される気配はなかった。

 どうやら今日は人気少年漫画の新刊の発売日だったらしい。その漫画を購入していく客の中には同じS大学に通っている顔見知りの男子学生も何人かいた。

 手際よく裏表紙のバーコードを読み取り、客が財布からお金を抜いている間に商品にブックカバーをかける。その単純作業を淡々と繰り返しているうちに私は自分がロボットであるかのような錯覚に囚われることがあった。だからといってこの仕事に不満を抱くことがあったわけでもなかったのだが、人口知能が発達すればきっとこういう仕事をやっている人たちから職を奪われていくんだろうなとふと考えてしまい、やはりなんとか大企業に就職できるように頑張っていこうという気概が生まれた。

 そんな緊急性のないどうでもいいことを頭の中で巡らせていると、いつの間にか接客のピークは過ぎていた。

 手の空いた私はようやくレジから離れ、ここ最近注目され始めたという若手作家のベストセラー作品のPOPづくりに励んだ。その作品は私も先週の金曜日に購入したばかりだったが、息をつく暇もないくらい壮絶でスピーディーな展開がページをめくる手を止めてくれず、次の日の午前中にはすでに読了していた。未だにその余韻が残っていたからなのか20分ほどで納得のいくPOPが完成し、店長にも「相変わらず良いの作るね」と褒められた。

 それが終わるとしばらくは返品作業に集中し、やがて閉店時間まで残り一時間と迫ってくると私は実用書コーナーへと移動して翌日入荷される予定の新刊を並べるためのスペースを確保し始めた。

 やがてその作業にもひと段落がついた頃、すぐ近くの壁面に貼り出されていた一枚の広告用ポスターがふと目に留まった。『人体の不可思議展』とそこには書いてある。

 どうやらそこには胎児を子宮に入れたままの妊婦や皮膚を剥がされて筋肉や内臓が露わになった人体、輪切りにスライスされた人体などが展示されているらしい。ただ、驚くべきはそれらが全て生きた人間の死体を標本にしたものだということだった。

 ポスターにはまるで決まり文句のように『生命いのちの神秘に触れてみませんか?』と記載されていたが、私はその言葉には一切惹かれず、倫理的にどうなんだろうかという率直な疑問で顔を歪めることしかできなかった。

「──鶴城さーんっ」

 私は店長の声でハッとする。最後の客が帰ったようだ。こちらに向かって手を挙げていた店長は翌日発売予定の週刊コミック誌を陳列するように指示を残し、自分はレジの締め作業に取り掛かり始めた。


「お疲れ様でしたー」

 無事に定刻通りにタイムカードを切った私は控え室で数分ほど店長と談笑した後、22時過ぎに店を出た。

 N駅前の夜は割と明るい。居酒屋にファミリーレストランにカラオケに牛丼チェーン店。そのどれもがまるで虫を呼び寄せるように真昼のような光を放ち、明日もきっと仕事があるだろうにすでに千鳥足で路上を歩くサラリーマンや周囲の目なんて全く気にしないで大声で騒ぐ大学生らしき男女6人組、ヘッドフォンを装着して単語帳に目を落としながらブツクサと英単語を唱えている塾帰りの高校生や背中に『蹴球』というバックプリントをたずさえたジャージ姿のスポーツマンたちをそれぞれの用途に合わせて店内へと吸い込んでいた。

 私はその光景をどこか羨ましく思いながら眺め、やがてその光に背を向けて帰路についた。

 最寄りのバス停までの道のりは大通りに面していたこともあり、車が通るたびに薄暗かった視界が晴れた。とはいえ今日のように全く車が通る気配すらないこともあり、そうなると自ずと等間隔に設置された街灯の青い明かりを頼りに歩かなければならなかった。しかし、その空気中だけを照らす綿菓子のような密度のない光だけではどこか心許なく、むしろ、すれ違う通行人や周りを囲っている建物の正体を輪郭だけでしか捉えることのできないその状況に漠然と不安を煽られてしまう。そのせいか、いつもより首を左右に振っている回数も自然と増えた。

 別に幽霊の存在を信じているとか黒服の通り魔に突然襲われてしまうかもしれないとか、そういった類の非日常的な被害妄想を常日頃から考えているわけじゃない。ただ、半田汐恩に付きまとわれるようになってからというもの、私はそれ以前よりも周囲に対する警戒心を強く抱くようになっていた。それに加え、この日は昼食を共にした健介に冗談っぽく忠告もされていた。

 ──またあいつに付きまとわれるかもしれないだろ?

 今更そんなことがあるわけないとはわかっていたが、ふとテラス席に座っていた半田汐恩の満面の笑みが脳裏に過ぎると私はその場で身震いを起こしていた。

「大丈夫かい?」

 突然、後ろから声をかけられて私はつい足がすくんだ。

 それほど遠くない距離からコツン、コツン、という足音はこちらに近づいてくる。そのたびに心臓が跳ね上がるような強い鼓動をひしひしと感じた。

 私は恐る恐るその声の主を振り向こうと首を回す。

 が、半分ほど反転しかけていたところではたとその動きが止まった。

「……やっと二人きりで会えたね。鶴城さん」

 その声が聞こえた次の瞬間、私はいつの間にか思い切り地面を蹴っており、後先のことなんて何も考えずにその場から逃げ出していた。

 私は後ろを振り返らずに青い街灯の下を必死に走る。

 頭の中はすでに真っ白で、いつまで、どこまで、そしてなんのためにこれを続けれなければならないのかなんて全くわかっていなかった。懸命に前へ前へと運ぶ足の動きに釣られて胸は警鐘を鳴らすように騒ぎ立て、その押し寄せる波に溺れるように呼吸が乱れる。

 気付けば馴染みのバス停の横を通り過ぎ、大きな交差点に差し掛かると無計画にそこを左に折れていた。やがて左手に道幅の狭い歓楽街が見える。真昼のような駅前の明るさとはまた種類の違った煌びやかで妖艶なネオンの光にいざなわれるように自然と足が向く。いつもは嫌悪している下着姿の女性が堂々と載っている刺激的な看板や店の前に立って恥ずかしげもなく「おっぱい如何ですか」と叫ぶ黒服の客引きたちの姿に何故か安心感を覚えた。

「なんだい、姉ちゃん。鬼ごっこでもしてるのかい?」

 顔を真っ赤に染めていた酔っ払いとすれ違う。

 今にも忍び寄る足音が耳の真裏で聞こえてきそうで、すぐにでも後ろから襟首を掴まれてしまうのではないかという恐怖に囚われていた私はそれを無視して先を急いだ。

「待ってよっ」

 迫りくるその声に全身から血の気が引いた。

 途端に足先の感覚が薄れていき、なんでもないところで躓いてしまう。

 私は歓楽街のど真ん中で豪快に転んだ。

 すると、すぐさま「大丈夫かい?」と心配そうに駆け寄ってくる客引きに紛れてその声は聞こえた。

「……やっと捕まえた」

 息切れを起こしていたその男の声にはどこか聞き覚えがあるような気がした。

 しかし、私は恐怖で顔を地面に伏せたままその場から立ち上がることができない。やがて周りを囲っていたらしい客引きたちは私に連れがいたことに安堵したように、「じゃあ後は任せたよ」と誰かに言い残して側を離れていこうとしていた会話が聞こえてきた。

 待って。一人にしないで。

 あまりの酸素不足で思うように声が出せない。

「そんな逃げられるようなことをした覚えがないんだけど」と言った男の声はどこか悲しげに聞こえた。「もしかして僕のこと覚えてない?」

 私は身体を伏せたまま恐る恐る後ろを見上げる。背中にネオンの光を浴びていた男の顔には濃い影が落ち、パッと見ただけではそれが誰だったのか見分けがつかなかった。

「そんな怖い顔で睨まないでよ」と男は笑う。「僕だよ僕。ついこの間の合コンで一緒になったばっかりじゃんっ」

「……合コン?」

 思いもよらなかったその言葉につい口先が反応する。

「そうだよ。もしかしてほんとに忘れちゃった?」

 そこでようやく私はその聞き覚えのある声にピンときた。

「もしかして天野くんっ?」

 男は一つ呆れたようなため息を吐き、頭の後ろを掻いて「そうだよ」と肯いた。「やっと思い出してくれたみたいだね」

「ご、ごめんなさいっ。私てっきり別の人だと思ってたから」

 私は慌てて身体を起こし、服についた汚れを手で払いながらその場に立ち上がる。ついさっきまで影に覆われていた男の顔に少しずつ光が差していき、それが確かに天野くんで間違いなかったことが証明された。

「まじでびっくりしたよ。声かけた途端、急に逃げ出すんだもん」

 彼はそう言ってわざとらしく不満げに目を細める。相変わらず吸い寄せられるようなその瞳に見つめられていると、つい肩に力が入ってしまった。

「ほんとごめんなさい……」笑って誤魔化そうとはしたものの、あまりの動揺と唐突な緊張とで上手く笑えなかった。「でもどうして天野くんがこんなところにいるの?」

「実は駅前のファミレスでバイトしてるんだよ」と彼は答えた。

「へえ、そうだったんだね。知らなかったな」

 私はそんな相槌を打ち、それに続くちょうどいい会話の話題を探した。ほんの数秒前まで反射的に天野くんから逃げ出してしまっていた手前、沈黙が長引けば申し訳なさと居た堪れなさとで胸が押し潰されてしまいそうだった。

 しかし、焦れば焦るほどに頭の中から何かが抜け落ちていき、気付けばそこには何も残らなくなっていた。

 結局、私はその重たい沈黙を天野くんに破らせてしまう。

「ってかさ、もしよかったらこのまま一緒にご飯でも行かない? この近くに行きつけのジンギスカンのお店があるんだよ」

「え、行きたいっ」

 何も考えずともそう口が動いていた。

「よっしゃ。じゃあ行こうぜ」と彼は言う。

 すると、ふと私の頭の中に金城さゆりの顔が浮かんだ。

「……せっかくなら金城さんも呼ぶ?」

 自然とそんな言葉を漏らしていた自分にハッとした。

 何を言っているんだろう私は。どうしてそこで金城さんを呼ぶ必要があると思ってしまったんだろう。

「さゆりちゃん?」と天野くんはたちまち眉をひそめる。「もしかして僕と二人きりじゃ嫌だった?」

 違う。そうじゃない。

 私は強くかぶりを振って誤解を解こうとするが、彼のしかめ面は一向に治る気配はない。自分でもあまりこの状況の整理がついていなかった。それでも何かを発言しないとますます大きなすれ違いを起こしてしまう気がして、私は慌てて口を開いた。

「いやっ、なんかその、この前の合コンで天野くんと金城さん、いい感じの雰囲気に見えてたからさ。わ、私と二人きりでご飯行ったりしても大丈夫なのかなって心配になって……」

 しばらく彼の反応がないだけで私の不安は膨らんだ。その不安が何に対するものなのかは未だにはっきりしていなかったが、それは明らかにこれからの私を大きく左右するであろう可能性を孕んでいるように思えた。

 するとやがて、天野くんは何の前触れもなくいきなり笑い出した。

「ど、どうかしたの?」

 恐る恐るそう聞いた私に彼はこう言う。

「僕とさゆりちゃんとの間には別に何もないよ。だから気にしないで大丈夫」

 なぜかはわからないが私はその言葉に安堵していた。

「それにほら、今からさゆりちゃんに連絡したところでもう遅いよ。絶対にあの子は来ないから」

 そう言い切った彼に私は同意する。

「……それもそうだね」

 胸の中で風船のように膨らんでいた不安はどこかに小さな穴が空いてしまったようにみるみるうちに萎んでいった。

 天野くんが行きつけだというジンギスカンの店は、歓楽街を抜けて線路沿いを五分ほど歩いた場所にあった──

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