④ 神崎沙羅

 二限目終わりの学生食堂はいつも混み合っている。

 レジを通過してトレーを持ったままあちこちへ動き回り、席が空いた瞬間にそこへ飛び込めるように常に臨戦体勢をキープしなければならない。私は広い視野を確保しながらテーブルとテーブルの間を縫うように歩き、その途中でこちらに向かって手招きをしていた知った顔の男女5人組を見つけた。

 大学に入学したばかりの頃に開かれたアイスホッケーサークルの新歓コンパで知り合った彼らは私とは学部が違うものの大学構内ですれ違うたびに互いに挨拶を交わし合う仲で、とはいえ普段から連絡を取り合ったり遊びに行ったりすることもない、いわゆる『ヨッ友』というやつだった。基本的には広く浅い人付き合いを実践していた私は正直なところ、普段から彼らのことをエキストラも同然に見立て、それぞれの名前ではなく『通行人A』のようにアルファベットで認識していた。

「沙羅ちゃんが一人でいるなんて珍しいね」肩まで伸びたミルクベージュの髪をゆるく巻いていた女Aはこちらを見上げてそう口にし、荷物を置いていた通路席を私のために空けてくれた。「ここ座りなよ」

「ありがとっ」

 私は声を弾ませ、本当は一人で静かに食べたかったなあという胸中を相手に悟られないように遠慮なく腰を下ろした。

「ねねっ。思い切って染めてみたんだけどどうかな?」

 そう言って彼女はこれみよがしにミルクティーベージュの頭を振って髪をなびかせた。そのつぶらな瞳にはわかりやすく期待を孕ませている。「すごく似合ってるよ」と私が褒めると、予想通り彼女は安堵したような笑みを浮かべて喜んでいた。

「そういえば沙羅ちゃんは黒髪に戻したんだねっ」

 しばらく経ってから彼女ははたと気づいたようにそう言った。

「そうなの」と私は肯く。「来月から教育実習が始まるからね。一応、身だしなみは整えておかないとと思って」

「教育実習かあ。経済学部のうちらとは違って大変なんだね」

 そう言って彼女は片眉を上げ、同情するような表情を浮かべた。

 テーブルを囲んでいる私以外の男女5人組はみんな経済学部に所属していた。

 大学三年生にもなって毎日遊び呆けている彼らが知らないところで「経済の奴らってマジで学費の無駄だよな」などと周囲から軽視されていることは知っていた。だからきっと私も心のどこかでは比較的時間にゆとりのある彼らのことを妬んでいたのかもしれない。

 気付けば私は「そうでもないよ」と小首を傾げ、「でもたまに経済の人たちが羨ましく思うかも」と苦々しい顔で堂々と皮肉を口にしていた。

 すると、正面に座っていた金髪パーマの男Bは前触れもなく唐突に「思うんだけどさあ」と口を挟んだ。「大学なんて人生の夏休みだぜ? 遊べるうちに遊んでおかないと損だって」

「それよな」と今度は男Bの隣に座っていたマッシュルーム頭の男Cがそれに賛同する。「どうせ会社員になったら嫌でも働かされるもんな」

「あー、おっパブ通う暇もなくなんだろうなー」

 一番奥で吹き出物の多いその額を指で掻きむしっていた男Dは人目も憚らずに割と大きな声で嘆いた。その声に反応してか、隣のテーブルを囲んでいた他の学生たちの視線がチラチラと集まってくる。

「恥ずかしいからそういうのやめなよっ」

 女Aを挟んだ向こう側で女Eは深々と眉間にしわを寄せながら向かいの男Dを強い口調で批難していた。彼女はおそらくこのグループの中でも一番真面目で風紀員的な立ち位置なのかもしれない。その癖のない長い黒髪を後ろで結び、上下ともできるだけ露出の少ない服装をあえて選んでいそうなパンツスタイルからは男を釣ろうとしている邪な匂いが全く感じられなかった。

「別にいいだろ。おっパブ通ってることが法に触れてるわけでもねえんだし」

「だからそういうことを公衆の面前で言わないでってば」

「いちいち気にしすぎなんだよお前は」

「あんたが無神経なだけでしょう?」

「ああ、もうっ」と吐き捨てた男Dはわかりやすくイラついた素振りでさっきよりも激しく額を掻き、何を思ったのか突然「おっパブ、おっパブ、おっパブ、おっパブ、おっパブ──」と連呼し始めた。

「ねえ、まじキモいんだけど」

 女Eはいい加減我慢できなくなったのか、その顔全面に不快感を表し、テーブルの下で彼の膝を思い切り蹴った。

「痛っ」と彼は叫ぶ。

「うるさいっ」と彼女は睨んでいた。

 私はそんな二人のやりとりを素知らぬ顔で傍観しながら、だから経済の人たちは馬鹿にされちゃうのよ、と半ば呆れていた。

「いつもこうなの?」と私は女Aに聞く。

 すると彼女は苦笑いを浮かべながら肯いた。「あの二人、あれで付き合ってるっていうんだから驚きだよね」

「えっ、冗談でしょう?」

 思わず聞き返すと彼女はまた苦く笑い、今度は「ほんとなの」とかぶりを振った。私はそれでも彼女の言っていることが信じられなくて金髪男とマッシュルーム男にも同じことを聞いたが、そのどちらも同じように「ほんとだよ」と口にした。

 自然と私はもう一度男Dと女Eの方を振り向いていた。

 何度見ても、相変わらず公衆の面前で人目も憚らずにいがみ合っていた彼らがカップルだとは到底思えなかった。カップルっていうのはもっとこう、見ているこっちが恥ずかしくなるくらい互いへの愛情を惜しみなく与え合っているもので、例えばそれこそ公衆の面前で身体を隙間なく密着させたり、当たり前のように「好き」だと言い合ったり、お互いを特別なニックネームで呼び合ったり──

 私はそこでふと、昨日のバイト中に見かけた『ちーたん&まーくんカップル』のことを思い出した。そして同時に隼人くんが教えてくれたのことも脳裏によぎった。

 できればこんなところで思い出したくはなかったな……。

 気付かぬうちにそんな心の声が表情に漏れていたのかもしれない。やっぱり私は自分が思っている以上に感情を隠すのが下手だった。案の定、「どうかしたの?」と心配そうにしている女Aに顔を覗かれてしまう。

「あ、えっと、ううん。なんでもないよ」

 私は慌ててかぶりを振り、なんとかその場をやり過ごそうとした。が、そんな苦し紛れの誤魔化しが通用するはずもなく、彼女は目を細めて「なんでもないって言う時は大体なにかある時なんだよ?」と問い詰めてきた。

 それにあっさり白状するように「……実は」と口を開く気になったのは、きっと私もどこかでこの心のモヤモヤを誰かに聞いて欲しいと思っていたからに違いなかった。それはたとえ相手が大学構内で互いに挨拶し合うだけの『ヨッ友』だろうと関係なかった。

「ちょっと好きな人のことで悩んでることがあって」

 私は若干声を潜める。誰でもいいから打ち明けたいと思っていたとはいえ、目の前の男連中にはあまり聞かれたくはなかった。

「恋の悩み事?」と女Aはそれを察してくれたように小声で聞き返す。「なんか意外だね。沙羅ちゃんくらい可愛かったらそういう類の悩みなんて一切なさそうなのに」

「そんなことないよ」と私はかぶりを振る。

 正直なところ、これまで男関係で悩んだことなんて一度もなかった。それは自慢でも過信でもなんでもなく、事実として私は昔から周りから「可愛い」ともてはやされ、男子の間で密かにファンクラブが創設されるほど人気があった。でもそんなことを人前で口にしてしまえば周囲から反感を買うことになることくらいは心得ていた。だから私はわざわざ彼女に向かって「私なんてフラれることの方が多いんだから」と程々の嘘を吐く。

「でね、その好きな人につい最近彼女ができたっていう噂が流れててさ」私は何度も目だけで周囲を見渡し、盗み聞きされていないかどうかを確認しながら話を続けた。「その噂のことは確かに気になるんだけど、でもそれを直接聞く勇気もなくてね。だからこれからどうすればいいかなって悩んでるの」

「沙羅ちゃんの好きな人っていうのは同じ学部の人なの?」

 私は彼女の問いにかぶりを振る。「ううん、医学部の先輩でバイト先が一緒なの」

「そっかあ。もしウチの知り合いとかなら余裕で確かめられたんだけどねー」

 顔をしかめた彼女は困ったようにミルクティーベージュの頭を掻き、それからはしばらく腕を組んで「うーん」と唸り声を漏らしながら考える素振りをしていた。

「やっぱりここは潔く諦めたほうがいいかな?」

 私が沈黙を破ってそう言うと、彼女は強く頭を振った。

「いや、それだけは絶対やめた方がいいっ」

「でも仮に私が直接その先輩に噂の真相を確かめたとして、もしその噂が本当だったとしたらなんか、ショックが大きすぎて立ち直れなくなるような気がするんだよね……」

 私は胸の内側に抱えていた不安を吐き出す。初めて失恋で負ってしまう傷はできるだけ浅い方がよかった。

「でもなあ」と声を漏らす女Aはまたもや納得できなさそうな表情で「うーん」と唸る。

 その後、彼女はしばらく押し黙った末に「じゃあさっ」と妙案を思い付いたように声を弾ませた。

「こういうのはどう?」

「なになに?」と私は聞き耳をたてる。

「沙羅ちゃんが今からその先輩を二人きりのご飯に誘って、OKをもらえたら直接真相を確かめる」

 そう言って彼女は顔の前に人差し指を立てた。

「断られたらその時点で諦めるってこと?」

「そういうこと」と彼女は肯く。「これならまだ運のせいにできるでしょう? だからもしこれで失恋しちゃったとしても、自然と仕方ないって思えるんじゃないかなって思って」

 その提案には私もなるほどと納得した。しかし、だからといって今すぐに一歩踏み出すほどの勇気が、掘り当てた温泉のように湧いて出てくるような都合のいいものでもなかった。

 すると、彼女はその胸中を察したようにこちらに手を差し出し、スマホを寄越すように要求してきた。私はそれに素直に従い、ポケットに仕舞っていたスマホを渡す。

「ちなみに沙羅ちゃんの好きな人ってどの人?」

 当たり前のように連絡先を勝手に指でスクロールしている彼女に、私は横から指を差して「この人だよ」とすんなり名前を教えていた。

 いつしか私は彼女に対して全幅の信頼を寄せるようになっていたようだ。それは彼女が思っていた以上に『ヨッ友』でしかない私の相談に乗ってくれていたからだろう。ついさっきまで彼女のことを心のどこかで軽視していた自分が情けない。彼女がこちらに向けてくれるまっすぐで真剣なその姿勢は素直に嬉しかった。

「はいっ。沙羅ちゃんの代わりに勝手に送っといてあげたから」

 そう言って返されたスマホの画面には『今度もしよかったら二人きりでご飯でもどうですか?』という送信済みのメッセージが映っていた。

「これでもし失恋したら、私のせいにしていいからねっ」と彼女は微笑んだ。

 その言葉に私は思わず彼女を抱き締めていた。肩に顎を埋めるとミルクティーベージュの毛先からはフローラルのいい香りがした。

 あまりに突然の行動に金髪男やマッシュルーム男は目を丸め、いがみ合っていた歪なカップルDとEも喧嘩を止めてこちらを振り向いていた。

「ど、どうしたの沙羅ちゃん」と困惑したような声が耳元で聞こえる。

「ただなんとなく、こうしたくなったの」と私は耳元で囁いた。

 やがて、手に握っていたスマホからピコンっと音が鳴る。

 私は彼女の背中に回していた腕を解き、手元に目を落とした。

「どうだった?」と彼女は控え目な声で聞いてくる。

 私は顔を上げ、彼女に向けて満面の笑みを作った。

「ありがとうっ、美月みづきちゃん。これでまだ失恋せずに済みそうだよ」

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