③ 鶴城奈帆

「で、お前は今更になって雷夢の連絡先を聞いておけばよかったって後悔してるわけか」と健介は言った。

 週が明けた月曜日の午前中は他の日に比べてわかりやすく大学構内をうろついている学生の姿は少なかった。私たちはほとんど人のいない学生食堂の窓際の四人席を無駄に陣取っていた。

 きっとみんな意図的に週明けの講義をとっていないのだろう。大学生にもなると祝日がなくとも三連休や四連休を作ることは造作でもなかった。それなのにわざわざスーツを身につけ、すでに90分の就活セミナーを受講し終えていた私たちはいよいよ社会に出て行く準備を始めているのだと改めて実感が湧く。

「でもさ、実際のところどうだったと思う? 私ってワンチャンいけたかな?」

 いつも決まって豚の生姜焼き定食のライス抜きを頼む私は付け合わせの千切りキャベツと一緒に甘辛いタレにまみれた豚肉を口に運ぶ。向かいで肉うどんを食べていた健介はこちらを一瞥して「よくそれで食えるよな」と鼻を鳴らした。

「ねえ、どうだったかなって聞いてるんだけどー」

 そう言って私は目を細める。

「知らねえよ、そんなの」と彼は煙たがるように顔を歪めた。

「もうちょっと真剣に相談に乗ってくれてもいいじゃん。健介は私と天野くんを引き合わせた張本人でもあるんだよ?」

「別に引き合わせたつもりはないんだけどな」健介はそう言ってテーブルに肘をつき、手に持った箸の先をこちらに向けた。「ってか、奈帆が勝手に一目惚れしただけだろ?」

 そう言われてしまうとぐうの音も出ない。私は口をすぼめ、箸を置いて就活用の黒いブリーフケースからスマホを取り出した。テーブルの上で電源を入れ、私が合コンに参加するに至るまでの健介とのトーク履歴を見返す。

 確かにそこにはこんなやりとりが残っていた。


『今週の水曜日に合コンあるんだけど、どう?』14:56 既読

『行くわけないじゃん』14:58 既読

『そこをなんとか頼むって。女子が一人来れなくなったんだよ』14:59 既読

『元カノを人数合わせに使わないでもらってもいいかな?』15:00 既読

『いつの話だよ。まさかまだ俺に未練でもあるとか?(笑)』15:00 既読

『はい、まじぶっころ案件。誰がデート中にお漏らしする男なんかに未練が残るのよ(笑)』15:01 既読

『おいっ!! それまじで合コンで言うなよ(笑)』15:02 既読

『いやいや、勝手に参加させないで』15:03 既読

『なあ頼むって』15:03 既読

『嫌よ。こっちだって就活で忙しいんだから』15:05 既読

『それは俺も同じだっつの。エントリシートの締め切り迫ってるし』15:06 既読

『やんなきゃいいじゃん(笑)』15:06 既読

『まじ頼む。一生のお願いだからさ』15:07 既読

『ぜったい無理。だってその合コンってどうせ私の知らない人しか来ないんでしょう?』15:07 既読

『そうかもしれないけどさ、今回はまじでみんなイケメンだぞ?』15:08 既読

『一応写真みせて』15:24 既読


「こんなことを元カレの俺が言うのはなんだけどさ、お前まじで面食いだよな」

 健介はそう言って麺を啜った。

「まあ、否定はできないよね」

 結果的に私は天野くんの写真に釣られてまんまと合コンに参加してしまったのだから苦々しく笑うしかなかった。私はスマホを閉じてテーブルの上に伏せる。そのあと残り二枚になった豚の生姜焼きに箸を伸ばし、玉ねぎとキャベツを豚肉で包んで口へ運んだ。咀嚼するほどにまだはっきりと食感を残したキャベツが小気味良い音を立て、生姜の香りが鼻に抜ける。

 すると、それを見ていた健介はいきなりテーブルに乗り出して最後の一枚を勝手に箸で掴み、あろうことか何の許可も取らずにそれを口に入れた。

「ちょっとお、勝手に食べないでよ」

「イケメンを紹介したんだからこれくらいの見返りがあってもいいだろ」と言って彼は咀嚼していた豚肉をあっという間に飲み込んでしまった。「やっぱ美味いな、学食の生姜焼きは。さすがは人気ナンバーワンメニューだな」

「でも、結局は金城さんに奪われちゃったわけだから見返りとか普通にあり得ないでしょ」

 私は豚の生姜焼きを失った腹いせに健介の肉うどんを奪おうと目の前の容器に手を伸ばすも、「それは奈帆の自業自得だろ」と笑う健介の手によってあっけなく防がれてしまった。

「私にも一口くらい食べさせてよ」

「お前いまダイエットしてるだろ?」

「だから肉の方を食べるのよ」と私は言い返す。

「なおさら駄目だっつの」

 健介はそう言って鼻で笑うと、まるでこちらに見せつけるかのように肉うどんを一瞬にして平らげ、「うんめーっ」とあからさまに大きな声を発して濡れた口を手で拭った。目を細める私に彼は唐突に「そういえばさ、あれから金城とは連絡してる?」と聞く。

「してるわけないじゃん」と私は吐き捨てるように答えた。「大体、あの子の連絡先すら知らないわよ」

「まあ、そりゃそうだよな」

 するとその時、なぜだか一瞬だけ健介の顔に影がさしたように見えた。私は反射的に「どうかしたの?」と聞いていた。

「別に」と健介はかぶりを振る。「ただ昨日から連絡がつかないだけだよ」

 そうはいうものの、私はほんの少しだけ沈みかけた空気を察し、あえて軽口にこう言った。「もしかして健介、あの子のこと好きだったとか?」

「ちげーわっ」

 鼻をふんっと鳴らして否定する健介の顔にはようやく普段通りの笑みが戻ったような気がした。彼はそのまま遠くを眺めるように日が差す窓の外に視線を動かす。

「あ」

 その声に釣られて私も窓の外に目を向ける。その先には一面ウッドデッキが敷き詰められた屋根のない開放的なテラス席があり、所々から伸びている植栽が柔らかな日光に映えていた。

 席はまばらに埋まっているが、そのほとんどの学生がすでに食事を終えてゆっくりと寛いでいる様子だった。きっと次の講義が始まるまでの時間を潰しているのだろう。友人同士で笑い合っていたり、両耳にイヤホンをつけてノートパソコンのキーボードをひたすら叩いていたり、背もたれ全体重を預けるような体勢で頭上にあるスマホの画面を仰いでいたり、テーブルに突っ伏して仮眠をとっていたりとその過ごし方は様々だった。

 そして、私は一通りテラス席を見渡したあたりでようやく健介が漏らした「あ」という声の意味を理解した。その姿が視界に入っただけでも虫唾が走るほどに私の身体は生理的な拒否反応を示していた。

 胸元にポケットのついた白いロンTに紺色のハーフパンツを履いているその格好だけを見れば、一見、爽やかな好青年にも見えなくもないが、襟足だけがやたらに伸びた清潔感のない髪型に手入れしていないであろう無精髭、そしてつばの広い黒い帽子で顔全体に濃い影を落としていたその姿は不気味としか言いようがなかった。

 先ほどからその視線がじっとりとこちらを見つめているような気がするのはただの思い違いだろうか。

 私はつい恐怖に怯え、窓の外から室内へと視線を戻した。

「あいつ、半田汐恩はんだしおんっていったっけ?」と健介が言った。

「うん、そうだけど」

 極力彼の話をしたくない私は皿の上に残っていたキャベツに箸を伸ばした。

「いつから付きまとわれてるんだっけ?」

「一昨年の前期頃だったと思う。たまたま教養科目の講義が一緒だったらしいの」

 正直なところ、はっきりとは覚えていなかった。

「いまどきラブレターで告白してきたんだろ?」と健介は笑う。

「そんな可愛いものじゃないよ」と私はかぶりを振った。「本当に怖かったんだから」

 それは確か大学二年の夏休みに入る直前に起こった出来事だった──

 ある日、半田汐恩、という送り主の名前だけが記載されていた封筒が家のポストに投函されており、私はつい何の警戒心もなくそれを開封していた。

 中に入っていたのは一通の手紙とプリントアウトされた一枚の写真。

 それらに目を通した途端、これまでに経験したことのない嫌悪感が全身を駆け抜けた記憶は未だにはっきりと思い出すことができる。写真には講義中にうたた寝をしていた私の姿が写っていた。その画角から考えるに、それが隣の席から撮影されていたものだということはすぐにわかった。そして手紙にはこう綴られていた。

『ずっと近くで見ていたい。寝ても覚めても僕の頭の中は君のことでいっぱいだよ。この抑えきれない思いをどうか受け止めてはくれないだろうか』

 最初は私もただの厨二病だと見過ごしていた。

 しかし、その日を境に毎日のように同じような手紙が届くようになるとさすがに私も命の危機を感じるようになり、それまでに届いていた大量の写真と手紙を持って警察署へ被害届を出しに行った。

 それ以降は彼の方にも警察から達しが届けられたのか、封筒が送られてくるようなことは一切なくなった。が、今でも時折、遠くから彼の不気味な視線を感じ取ることはあった。思えば、普段から意識的に元カレの健介と行動を共にするようになったのもそのせいかもしれない。いざという時は、健介のことを今カレだと思い込ませてでも彼の魔の手から逃れようとしていた。

「そういえばさ、あいつって農学部じゃなかったっけ?」

 健介は思い出したようにそう聞いてきた。

「……そうだけど」と私は答える。

 すると彼はしばらく考えごとをするように押し黙り、何度か小首を傾げたのちに「いや、でもさすがに関係ないか」と独り言を呟いていた。

「どうかしたの?」

「えっ、いや、ううん。なんでもない」と彼は誤魔化すようにかぶりを振った。

「嘘、なんでもないってことはないでしょ」

 私が問い詰めるようにそう言うと、彼はそれ以上言い逃れををするのが面倒になったのか案外あっさりと「別に大したことじゃないんだけどな」と続けた。「ただ、あいつも金城と同じ学部だなって思っただけ」

 その回答が腑に落ちなかった私は「なにそれ」と眉をひそめたが、「だからなんでもないって言ったじゃんか」と不満げな声で反論してくる健介が嘘をついているようには見えなかった。

 ふと、束の間の沈黙が流れる。

 先にその無言の空気に耐えられなくなったのは健介だった。

「今日って夕方からバイト入ってるんだっけ?」

「うん、そうだけど」と私は肯く。

「くれぐれもバイト帰りは気を付けないとな」

「どうして?」

 そう聞くと彼は顎をしゃくってテラス席の方を指し示した。

「またあいつに付きまとわれるかもしれないだろ?」

 健介はそう言って無神経に笑い声をあげていた。

「ねえ、そういう冗談はまじで笑えないんだけど」

 私は彼の耳にも聞こえるように舌打ちを鳴らし、窓の外を向いた。

 次の瞬間、背筋に感じたことのない悪寒が走る。

 視界の先に捉えていた半田汐恩はどう見ても無邪気に満面の笑みを浮かべているようにしか思えなかった。

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