② 神崎沙羅

「いらっしゃいませっ」

「いらっしゃいませっ」

「お待たせいたしましたっ」

「お待たせいたしましたっ」

「ありがとうございましたっ」

「ありがとうございましたっ」

「またのご利用をお待ちしておりますっ」

「またのご利用をお待ちしておりますっ」

「はい、じゃあ今日も元気よくよろしくお願いします」

「よろしくお願いしまーす」

 毎回恒例の店長との発声練習が終わると私はポケットにしまっていたハンカチでじんわりと額に浮き出てきた汗を拭った。

 時刻はたった今19時を回る。

 薄型のディスプレイが設置されたワークですくと二人掛けのソファーしかないこの狭い控え室の中はこの日もやっぱり蒸し暑かった。カーテンで仕切られた更衣スペースなんて閉め切ってしまえば冷気がほとんど入ってこない灼熱地獄と化した。

 その原因はおそらく社内を通じて過度に節電対策を推進しているからだろう。控え室の冷房の設定温度はいつも決まって28度だった。とはいえ、厨房とホールに関しては熱中症などのリスクも鑑みて24度で管理されている。だったら控え室だけ節電を実施したところでほとんど意味がないのでは? と文句の一つでも言ってやりたい気持ちは山々だが、アルバイトで雇われている私には到底そんな口答えができるはずもなく、やたらに「暑すぎて倒れそう」とか「このままじゃ熱中症なっちゃうよ」などと愚痴をこぼして遠回しにアピールする他なかった。

 制服は季節を問わず全員が七分袖でストライプ柄のベルカラーシャツで統一されており、厨房スタッフが黄緑と白、ホールスタッフはオレンジと白、と色でそれぞれの役職が分類されている。

 黄緑と白の制服の上から茶色のエプロンを身につけていた隼人はやとくんとはバックヤードの途中で分かれ、私はデシャップで日勤のホールスタッフから注文状況を引き継いだのちに早速14番卓にデミグラスハンバーグのライスセットを運んだ。

 この日は平日だったからか夕食の時間帯にもかかわらず、埋まっている席もまばらで店内は比較的に空いていた。その客層のほとんどが学校帰りの制服姿の高校生か大学生っぽい派手な格好をした若者だった。

「お待たせいたしましたっ。こちらデミグラスハンバーグのライスセットでございます」

 14番卓には男女二人組が向かい合って座っていた。私は熱々の鉄板の上に載ったデミグラスハンバーグと湯気の立ったライスを控えめに手を挙げていた男性の前に滑らせる。

「あ、そのまま注文いいですか?」と女性客は言った。

「少々お待ちください」私はそう断りを入れて腰元のハンディに手を回した。「ご注文をお伺いします」

「このイチゴパフェを一つお願いします」

 そう言って女性客はメニュー表を指差した。

 まるで子供みたいな笑みを浮かべている彼女のことを男性客は向かい側から微笑ましそうに眺めている。おそらく夫婦か恋人同士なのだろう。彼らは互いのことを「ちーたん」「まーくん」と甘い声色で呼び合っていたのだ。ただの友人にしてはあまりに親密すぎる空気が二人の間には流れている気がした。

 そんなことを考えながら私は先程の追加注文をハンディに入力し、デシャップに戻った。

「今日はずいぶんと空いてるみたいだな」

 冷蔵庫内の解凍した食材の賞味期限をチェックをしていた隼人くんは戻ってきた私に気付くとそう言った。この日の厨房には彼以外にも日勤のスタッフがもう一人いたようで、その人は食器洗いをしていたのか洗い場の方からはディッシュウォッシャーの聞き慣れた騒音がこちらまで届いていた。

「今日の厨房のシフトって誰ですか?」

 私は作業台の上でイチゴパフェを作りながらそう聞いた。

 これまでに何十、何百回とデザートを盛り付けてきたこの手は何も考えなくとも勝手に適切な位置に適切な順序で動いてくれる。いつの間にかこのファミリーレストランで働き始めてもう一年半が経っていた。

 ということはつまり、私の片想いが始まったのも一年半前ということになる。

「お前の大好きなライムさんが入ってるよ」

 隼人くんがそう言うとやっぱり今日も胸が弾んでいた。そして私は自分が思っている以上にその感情を隠せていないらしい。「顔っ!」と彼に指摘されるまで私は自分が口元を緩めていたことにすら気付いていなかった。

 さらに、その時ちょうど隣で伝票の整理をしていたパートの三橋みつはしさんには鋭い目つきで睨みつけられ、「神崎さん、お客さんの前でその顔はみっともないから絶対にやめてね?」と注意されてしまう始末。40を過ぎても未だ独り身でアルバイト生活の彼女はどこか自分よりも年下の同性を嫌っている節があり、普段から私への当たりが強かった。

「……すみませんでした」

 私はそう謝って誰にも聞こえないように落胆のため息を吐く。せっかく心の中でパッと満開に咲いた花も一瞬のうちに萎れてしまった。

 やがてクスクスという小馬鹿にしたような潜めた笑い声が微かに聞こえ、厨房の方を振り返ってみると隼人くんは声に出さずに口の動きだけで「お・こ・ら・れ・て・や・ん・の」と煽ってきていた。その行為が癪に障った私は一旦作業している手を止め、隣からは覗かれないよう半身になって手を隠しながら彼に向かって中指を立てる。それは半分三橋さんに向けたものでもあった。それを知ってか知らずか、彼はいつものようにどこか嬉しそうに笑っていた。

 隼人くんは同じS大学の一つ上の先輩で、学部もサークルも同じだった。普段から私のことを気にかけてくれる彼は、お節介焼きでたまに面倒くさいと思うこともあるけど、困ったことがあればいつでも助けてくれるし、どんなに小さい悩み事でも気軽に相談ができる頼れるお兄ちゃん的存在だった。

 来年からは上京して食品メーカーの営業マンとして働き始めるらしい。卒業してからも定期的に連絡し合う仲は続いていくのかな、なんてことをふと考えることもあったけど、いずれは彼も仕事が忙しくなって後輩の私なんかに構っている暇もなくなってしまうんだろうなと思うと、少しだけ寂しくて、でも心のどこかではそんな未来をもうすでに割り切ろうとしている自分がいた。


「俺が卒業するまでには絶対告白しろよ?」

 完成したイチゴパフェをさっきの「ちーたん」と「まーくん」のテーブルへ届けたのちに私がアルコールドリンクの補充作業をしていると、いきなり隼人くんはそう言った。厨房の奥の方からは未だにディッシュウォッシャーの騒音が聞こえている。幸い、三橋さんもレジで大学生らしき若者たちの会計業務を行っていた。

「余計なお世話ですよ」と私は口を尖らせる。「そうやって急かす人が結局は失敗した時に一番笑うんだから」

「笑わねえって。ちゃんと美味い焼肉屋でお前の慰安会を開いてやるから」

「なんで失敗する前提で話を進めてるんですか」

 そう言って私が目を細めると、隼人くんは白い歯をこぼしながら「わりいわりい」と心の込もっていない謝罪を口にした。そして彼はやがて心なしか普段よりも重たい表情を浮かべてこう言った。

「でもな、噂によるとライムさん、女できたらしいぞ」

 私は思わず大きな声が出た。

「え、うそだっ!」

 その声はレジにいた三橋さんの耳にも届いていたらしく、しばらく経ってようやく我に返った私が恐る恐るレジの方を振り返ってみると、殺気立つ殺し屋のような彼女の目としっかりかち合ってしまった。私は慌ててすぐさま隼人くんに助けを求めるが、いつの間にか彼は知らん顔で呑気に鼻歌まで歌っていた。

「神崎さん」

 すかさず三橋さんの怒気が集約した鉛のような重たい声が飛んでくる。

「……すみません」と私はレジに向かって頭を下げて謝り、横目に厨房でニヤつく隼人くんを睨みながらゆっくりと後ずさりするように身体を反転させ、三橋さんの視界から逃げるように空いた席のバッシングに向かった。

 店内で微かに流れているBGMはよく耳を澄まして聞いていればそれが最近巷で流行っている邦ロックのオルゴールバージョンであることがわかる。しかし、そのことに気付いているのはきっとごくわずかな常連客かホールスタッフくらいだろう。隼人くんですら私が教えてあげるまでは全く知らなかったという。

 ライブハウスやクラブのように大音量で音楽が流れていれば余計なことを考える隙もなくなるのに、ただでさえガラガラの店内で落ち着いた空間の中にいると私はどうしてもさっきの隼人くんに聞いた噂話を思い出して心に余裕がなくなってしまう。せめて仕事に集中しようと無心で空いたお皿やコップを下げていくものの、やることが済んでしまえばすぐに落ち着かなくなった。

 私は無駄にドリンクバーを補充しながら逃げ場を探すように意識をあちこちに飛ばした。

 すると、不意にピントが合わさったように「ちーたん」と「まーくん」のやりとりが次第にはっきりと聞こえ始めた。

「ねえ、ちーたん。昨日のニュース観た?」

「なになにー?」とちーたんの甘ったるい声が店内で弾む。

 私はすがるように彼らの会話に耳を傾けた。

「N山でバラバラの白骨遺体がたくさん見つかったんだって」

 まーくんは周囲を気にしたのかわずかにトーンを落とした声でそう言った。

「えー、なにそれ怖ーいっ」

 やたらと語尾を伸ばすその喋り口調からは全くと言っていいほど恐怖心が伝わってこなかった。ふと、ちーたんがどんな顔でその話を聞いているのかが気になって彼らの方を振り返ってみると、さっき私が作ったイチゴパフェを呑気にちびちびと食べている彼女の姿が目に入った。

「大丈夫だよ。ちーたんは俺が守ってあげるから」とまーくんは恥ずかしげもなくクサイ台詞を口にする。「それに発見された白骨遺体は昔の失踪事件で行方不明になってた人たちのものだったらしいから多分心配する必要はもうないよ」

「まーくんってば、頼りがいあるーっ」

「俺はちーたんを守るために生まれてきたんだから当然だよ」

 そのやりとりにようやく胃もたれを起こし始めた私は彼らから目を切り、再びドリンクバーの補充に戻った。

「もー、まーくん大好きっ」

 その甘ったるい声が今更になって耳障りに聞こえた。

 きっと彼らはどんな内容の会話でも結局は互いの愛を再確認し合うためだけの出汁としてしか利用しないのだろう。そんなことを知る由もないN山で見つかったという白骨遺体を私は気の毒に思った。

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