第4話

 それからほどなくして、先輩は行方不明になった。

 ある日大学へと出かけたきり、家に戻らなかったのだそうだ。

 大学の防犯カメラに先輩の姿が映っていたため、午前中はいつも通り図書室にいたのは確実だ。だが、その後の消息を追うことはできなかった。


 携帯電話、財布、家の鍵などの最低限の物しか持ち出してはいないようだった。大学へ行くにしては小さすぎる鞄しか持っていないことが、防犯カメラで確認されている。

 銀行の預金にも動きはない。

 何かしらの事件や事故に巻き込まれた可能性がある、ということしかわからなかった。

 もちろん事前に準備をして、計画的に家出をしたのかもしれない。


 僕のところには、学校経由で連絡がきた。

 高校の後輩、つまり僕が何度か家に遊びにきていたことを家族は知っていた。でも誰なのかは知らなかったようだ。


 僕はもちろん、先輩がどこにいるのか見当もつかなかったから、そう答えた。

 最後に会ったときの、あの異様な雰囲気について、僕は話すべきだったのかもしれない。けれど、どう話しても冗談のように聞こえただろう。

 先輩は大学の図書室で見かけた幻の手を捕まえて、家で飼おうとしていました、なんて話せるわけがない。


 先輩のあの状態は、当然、家族も把握しているものと思っていたからでもある。僕が話さなくても、誰かが話すはずだと。

 でも、気づいていたのは僕だけだったのかもしれない。家族からすれば、先輩は毎日大学へ通っていたのだから。


 いや、あの頃、大学の授業に出ていないことは、母校にまで話が伝わっていたのだ。それなら、家族も先輩が少し不安定だったことを知っているのだろう。


 春になっても先輩は見つからなかった。


 僕は迷って、先輩と同じ大学に入ることにした。

 先輩を見つけたいと思ってのことではない。たぶん。

 同じ大学に進学したくらいで見つかるとは思っていない。

 大学はどこでも良かったのだ。漠然と都会の大学へ行こうと考えていた僕が、最終的には地元の大学を選んだことを両親は喜んでいた。


 入学してからしばらくの間、図書室へは行かなかった。

 先輩が話してくれたことが全部嘘で、天窓も白い手も、存在しなかったとしたら、と思うと、不安で足が向かなかった。

 何が不安なのかは自分でもわからない。


 その日は、朝、目が覚めた瞬間に図書室へ行こうと思った。

 なぜだろう。

 そう、夢を見たからだ。

 内容は思い出せない。

 懐かしい人に会ったという夢の手触りだけが頭の隅に残っていた。


 たとえ嘘や冗談でも良いじゃないか、そう思えるようになっただけなのかもしれない。

 図書室に入ると、そこは先輩の話してくれたような場所ではなかった。そういったシミュレーションを何度か布団の中で試してから、起き上がる。それでも、いつも起きる時間よりも随分と早かった。

 自分の気持ちが変わらないうちに、と流れるように準備して家を出る。


 朝一番の授業が始まったタイミングで構内に入った。先輩が言ったように、人がほとんどいなかった。


 学生証を手に持って、図書室へと入る。

 カウンターにはまだ誰もいない。

 駅の改札のようなゲートがあった。

 慎重に学生証をかざして通り抜ける。


 洋書の棚、和書の棚が、それぞれドミノのように並んでいた。その向こうは閲覧スペース。そして大きな窓。


 心臓がドキドキした。

 深呼吸する。


 洋書と和書の棚の間を、わざとゆっくり歩いて日本文学の棚を探す。

 見つかったそこには、確かに、天窓があった。

 優しい光が絨毯を照らしている。その光へと進み出る。

 微かに暖かさを感じる光の中に入ると、目を閉じて、棚のほうを向いた。


 瞬きはしない。

 誰が来ても、そちらに気を取られない。

 そう決めて、目を開ける。


 最上段の左から、一冊一冊、背表紙を見ていく。

 最下段の右端まで見たけれど、何も出てこない。


 目を閉じる。

 遠くで自動ドアが開く音が聞こえた。誰かが入ってきたのだ。

 もう一度だけ。

 そう思って目を開ける。


 再び左上に視線を向けたところで、目の端に何かが現れた。


 何か白いもの。

 呼吸が浅くなる。

 一度息を止めて、細く長く吐き出す。

 そして、じわりじわりと、そちらに顔を向ける。


 手があった。

 発光しているみたいに青白く、爪の部分がわずかばかり薄紅色だ。

 誰かが向こう側から手を差し入れているわけではない。そういった生々しさはこの手にはないのだ。


 綺麗だった。

 先輩が魅了されたのは理解できた。持ち帰りたい、と思うのも無理はない。

 まだここにこの手があるということは、先輩は捕獲に失敗してしまったのだろうか。


 試してみたい。

 今なら、僕なら、できるかもしれない。


 ゆっくりと腕を持ち上げる。

 まるで小動物を捕まえるみたいに、たっぷりと時間をかけて。

 そして、右手でそっと握手する。左手はその手を逃さぬように反対側から包み込む。


 手の中で、まるで身じろぎでもしたように、微かに震えたように感じた。

 逃げられる、一瞬そう思ったが、しばらく待っても、まだ僕の手の中にあった。


 見た目とは違い、生きている感触が確かににある。

 そう、この感触には覚えがあった。

 

 

 

 

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図書室の魚 秋月カナリア @AM_KANALia

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