第3話

 次に先輩の家に行ったのは梅雨に入ってからだった。

 前に行ったときに、僕は本を一冊借りていた。それを返すためだ。

 借りたのは、もう一度先輩の家に行くのに、手軽な理由が欲しかったからだ。


 玄関前でレインコートを脱ぎ、鞄にしまう。濡れたまま他人の家にお邪魔するのは抵抗があったから、自分としては結構な重装備で来ていた。


 前と同じように呼び鈴を押す。

 今回は雨の音にかき消えされて、家の中からは何も聞こえない。

 先輩の声もしなかった。


 そっと玄関の扉を開けると、前回同様、鍵はかかっていない。

 今日この時間に来ることは、先輩も承知しているはずだから、開けておいてくれたのだろうか。それとも、田舎の常で、鍵はかけないのだろうか。


 家の中は薄暗かった。


「ごめんください」


 そうかけた僕の声が、暗がりに吸い込まれて消える。

 今日は猫も来ない。

 動かずに待っていると、ゆっくりとした足音が、かすかに階上から聞こえてきた。


 先輩だろうか。

 気づいていないのか。


「あがりますよ」


 聞こえていないだろうけれど、一応そう呼びかけて家にあがった。

 階段をのぼると、先輩が南側の部屋から顔を出す。


「ああ、来てたんだ」

「はい。あの、これ、返しに」


 要件は伝えてあるけれど、改めてそう言って、本を渡した。

 先輩は本を受け取ると南側の部屋には戻らずに、北側の部屋の扉を開けた。

 前回は中を覗けなかった一室だ。


 そこには、大きな本棚並んでいた。


「どう? 図書室みたいでしょう?」


 先輩は嬉しそうだ。


 広さは六畳ほどだった。隣の先輩の部屋と同じくらいだと思う。そうは見えないけれど。

 あまり広いとはいえない空間に、二メートルほどの高さのある本棚がいくつも並んでいた。棚と棚との間は、人が一人通れるくらいのスペースしかない。地震が起きても、本棚が倒れる余裕はないのではないだろうか。


「よくこんな大きな本棚が入りましたね」

「中で組み立てたんだよ」


 一人で作業できたとは思えないから、家族が手伝ったのだろうか。部屋の一つを図書室にしたいと先輩が言い出して、家族も協力したのなら、まだ微笑ましく思える。先輩一人だけでやったのだとしたら、少し怖い気がした。部屋が薄暗いせいかもしれない。


 先輩を見ると頷いたので、僕はゆっくりと中に入る。

 圧迫感がすごい。それに息苦しい気さえした。


「こんなに本を持ってたんですね」

「家中を探して集めたの。あと、買い足したり」


 家にたくさんある本を収納するために作った部屋ではないのだ。


 僕は部屋の奥へと進む。東向きの窓は棚で塞がれてあった。もう一つ、北向きの窓が天井近くにあって、それは無事だったが、雨が降っているため、あまり光は入ってこない。

 先輩はなんで明かりをつけないのだろう。


「実はね、あれから何回も手を繋ぐことができたの」


 前に聞いた大学の図書室に現れる手のことだ。

 ちょうど本棚に隠れて先輩の姿は見えない。声の調子だけだと、まるで好きな人について話しているように聞こえた。


「それで……わかったの。手を掴んだまま、自分のほうに引き寄せることができそうだって」


 ゆっくりと部屋をひと回りして先輩のところに戻ってくる。

 先輩は照れたように笑っていた。

 そして、僕に手招きすると、棚と棚との間に導く。


「ここに立って」


 先輩はそこで入り口に戻った。


 パチン。


 軽い小さな音がして、頭上の照明が灯る。

 それはスポットライトのように僕を照らした。


「たぶん、捕まえられると思うんだ」


 先輩は本棚を挟んだ向こう側に立った。


「そうしたら、ここに放すつもり」


 本と本の隙間からこちらを覗く先輩と目が合う。

 やけに黒くつやつやとした目が、うっとりと細められた。

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