図書室の魚

秋月カナリア

第1話

 先輩の家は高いブロック塀に囲まれていた。

 鮮やかな赤紫の躑躅つつじが、その塀の上から溢れるように咲いている。花のあいだを蜂が飛び回っていて、その羽音がはっきりと聞こえた。

 躑躅は低木だから、家の敷地はこの道よりも高い位置にあるのだろうと予想した。


 入り口を見つけ、表札を確認する。たしかに先輩の苗字だった。

 予想通り門の内側には短い階段があって、その先に庭があった。荒れた芝生の上の敷石が、緩やかにカーブして玄関に続いている。

 インターホンが見当たらないので、門扉をあけて庭に入った。


 塀に沿って躑躅の木が並んでいた。他にも、椿や金木犀らしき木が植わっているけれど、熱心に手入れをしているようには見えない。このまま放っておけば、すぐにでも森の一部になってしまいそうだった。


 呼び鈴を鳴らす。

 耳を澄ますと、その音が家の中から聞こえた。

 しばらく待ってみたが、誰からの応答もなかった。

 もう一度呼び鈴を押そうと指を伸ばしたところで、案外近くから声が聞こえてきた。


 玄関が奥まったところにあったため、庭に出て左右を見回し、建物の上方を見たところで、二階の窓から白い手がひらひらと動いているのがようやくわかった。


 先輩の手だ。


 白魚の指、という表現があるけれど、先輩の手はまさに白魚だと密かに思っている。


「先輩」


 そう呼びかけると、「勝手に入ってきて」という返事が降ってきた。

 玄関ポーチへと戻ると、そっと扉を開ける。

 背後にある太陽が、暗い廊下にまっすぐ光を伸ばした。

 誰もいない、と思ったら廊下の奥から灰色の猫が顔を出した。

 怯える様子もなくとてとてと玄関までやってくると、扉をすり抜けて、僕の足に体を擦り寄せてから、外を歩き始めた。


 咄嗟に抱き上げる。

 ずしりとした重さだった。そして温かい。

 猫は不満げな声で鳴き始めたので、ぶら下げながら家の中に入ると、扉が閉まったタイミングで下におろした。


 猫はこちらを見上げて何度も鳴く。

 話しかけられていることはわかるけれど、内容は全くわからなかった。

 ごめんね、と猫に囁いて、靴を脱ぐ。

 恐る恐る廊下を歩くと猫もついてきた。


 奥にあった階段を上がる。

 二階には右手に一つ、左手に二つのドアがあった。

 一番広いであろうと右手の部屋はドアが開いていて、ベランダに通じているのが見えた。窓際にキャットタワーが置いてある。

 残りの二部屋のうち南側のドアをノックする。くぐもった声が中から聞こえてきたのでドアを開けた。


 足元にいた猫が真っ先に部屋に入ると、ベッドに横になっている先輩の元へ走り寄り、先輩に対して鳴き始める。

 先輩はうん、うん、と相槌を打って猫の首を撫でた。

 立ったままその光景を眺めていたけれど、一分も経たないうちに猫はまた唐突に部屋から出ていった。

 階段の手前でこちらを向く。僕を誘うかのように鳴いた。

 僕はまた、ごめんねと言って、ドアを閉めようとした。けれど迷って、少しだけ開けておくことにした。


 先輩のほうを向く。

 先輩はさっきと同じ体勢のまま、動いていなかった。

 裾の長いワンピースが綺麗にベッドに広がっている。

 目を瞑っているようだ。


 僕は雑誌がタワーのように乱立している隙間に腰を下ろす。

 東と南に窓があって室内はとても明るかった。

 置いてあるのは音楽雑誌が多い。壁にもギターが置いてある。ネジが集まった部分にある小さな月のマークが、僕の視力でもかろうじて見えた。


「先輩、大丈夫ですか?」


 そう声をかけてみる。


 最近大学で姿を見ない。

 そんな話を高校の先生から聞いたのだ。

 四月に入学したばかりだから、大学で何かあったのではと心配になった。けれど、大学での生活や心配事を気軽に聞けるほど、僕と先輩は親しくない。先輩という括りの中では、彼女が一番親しくはあるけれど、何でもかんでも話す仲ではないという意味だ。


 理由をつけて家にお邪魔するのも、実はとても勇気が必要だった。


「なにが?」

「体調が良くなさそうなので」


 心配しているのだと、正直に話すべきなのだろうか。

 顔を見にきてみたら、思いのほか元気だった、というストーリーを期待していたのだ。


「ああ、うん。体調は大丈夫。少し眠たいだけ……ねえ、手を貸して」


 僕は膝立ちになって手を差し出した。

 ベッドから起き上がるのだと思ったけれど、先輩はそのまま僕と握手をする。


 冷たい手だった。

 細くて、小さい。

 ぎゅっと握れば簡単に骨が折れそうで怖かった。


「違うな」


 先輩はそう言って手を放した。

 少しショックだった。何が違うのか。


「何がです?」


 そう尋ねると、先輩はゆっくりと深呼吸した。


「あのね」

 

 

 

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