第35話 風の向くまま(21)
村上市に入り、市街地を車でぐるぐると回ると、マタザブローは「ここだと思う」と言った。市街地にはイヨボヤと呼ばれる乾燥された塩鮭が何匹も路地にぶら下がっており、ミケも人間も思わず目を奪われてしまったが、マタザブローはさほど意に介さず、イヨボヤ会館という観光施設の駐車場まで道案内をした。
内水面漁業資料館、通称イヨボヤ会館は、村上市の誇る鮭の塩引きの文化を観光客に伝えるために建造された、日本最初の鮭の博物館である。年月を経た建築物はそれなりの古さを感じさせるものの、近くを流れる三面川の堤を貫いた地下施設を持ち、三面川を泳ぐ天然の鮭の姿を見ることができる大掛かりな展示で人気を博している。
駐車場に着くなり車を降りたマタザブローは、しばし風の匂いを確認した後、三面川の堤の上を通る散歩道を歩き出した。ミケたちは少し後ろからマタザブローの姿を見守っていたが、マタザブローが突然、ひときわ大きな声で鳴き声を上げた。堤のそばの公園で遊んでいた親子が振り返るほどの大きさだった。
少しして、堤の近くの集合住宅の陰から、数匹の猫たちが姿を現した。
毛色や大きさなどの特徴は、マタザブローにほど近いものに見えた。だがよく見ると、足を引きずっているものや、目が開いていないものもいた。
「よう、帰ったぞ」
マタザブローが言うと、猫たちはマタザブローのもとに駆け寄ってきて、再会のあいさつを交わした。
「紹介するよ。僕の子供たちだ」
「今回は運がよかったよ。5回ぶりくらいか?たどり着いたの」
マタザブローがそういうと、彼の子供たちが一斉に笑った。
「おとうさん、今度はいつまでいられるの?」
「その猫は誰?どうしてヒトを連れてるの?」
矢継ぎ早に質問してくる猫たちと頬を寄せ合いながら、マタザブローは「母ちゃんは?」と尋ねた。
すると、一番しっかりしてそうな猫が答えた。
「母ちゃんは、人間に連れられて行っちゃった…」
マタザブローはそれを聞いて少し黙ったが、すぐに「そうか」と答えた。
「ツシマヤマネコの家族が住んでいたのか、この寒い町に」
忘木は誰ともなく呟いたつもりだったが、相馬が気を回してマタザブローに伝えると、彼は黙ってうなづいた。
「僕はあちこち旅をしているけれど、本当の同類に会えるのは、ここだけだ。正真正銘、僕の家族だよ」
相馬も、改めて自分の言葉で質問した。
「どうしてまた、こんな寒い土地に。ツシマヤマネコと言えば長崎の対馬だろう」
「ナガサキ」
聞いたことないな、とマタザブローは流した。
「猫ってのは人間みたいに遠くまで行かないんだ。一度住んだら、たいていそこから出ないものさ」
猫は家につく、というやつか、と忘木はひとりごちた。
「そんなんだから、俺たちは近親相姦と言われてもよくわからない。家族しか見たことがないし、どこかで同族に出会ったとしても、なんて話しかければいいのかもわからない」
人間社会なら、マタザブローのしていることは重罪だ。子供たちの中に、いくつか遺伝性疾患や先天性異常がみられるのを、人間社会は黙って見過ごしはしないだろう。だが、種が滅ぶという状況に、人間は立たされたことがない。
「だったら、どうしてお前は旅に出るんだ」
ミケが尋ねた。
「さあね。確かに、ずっとここで家族と暮らしていればいいのかもしれない。あるいは、みんなでもっと温かいところに行けばいいのかも。だけど、ダメなんだ。僕が」
マタザブローは寂しげに聞き返した。
「どうしてなんだろう…どうしてだと思う?」
その問いへの答えを、ミケは持っていなかった。
もう少しここに残る、というマタザブローを置いて、忘木たちは新潟市に引き返した。帰りの車の中は静かなものだった。忘木と相馬は押し黙って考え事をし、ナナはスマートフォンをいじり、将暉は寝ていた。
ミケは、マタザブローに言われたことを思い出していた。
『まともに生まれなかったら、死ぬだけだ。悲しくはあるけど、仕方ない。もっとたくさん産むだけだ』
マタザブローは、これからも自分の家族と子を成し続けるだろう。そして相手が妊娠したら、旅に出る。
自分の仕込んだ子が、生まれてすぐに死ぬ姿を見ずに済むように。
ふと、スマートフォンを見ていたナナが顔をほころばせた。
「どうした」
「いや、いまスマホでツシマヤマネコのニュースを検索してたんだけどさ。村上市で保護されたツシマヤマネコ、動物園に引き取られて、元気な赤ちゃんを6匹も生んだってさ」
なに、と相馬が叫んでナナのスマホを奪う。
「ほんとだ」
写真には、幸せそうなツシマヤマネコの親子が映っていた。
「…それは、複雑だな」
忘木が漏らし、相馬も頷いた。
「ツシマヤマネコの繁殖がうまくいった一方で、奇形や障害を残したマタザブローのの子供たちは、保護もされずに、村上で野良生活を送っているわけだ」
二人の渋い顔を後部座席から覗き込みながら、ナナがうんざりした顔でいう。
「刑事ってさ、そういう皮肉でも言わなきゃ死ぬわけ?」
忘木と相馬は思わず顔を見合わせた。
「いいじゃない。近親婚を運命づけられていた娘が、王子様を見つけて幸せになったんだから」
「そうかぁ?」と忘木。
「そうよ」とナナ。
「じゃあ、いっか!」と相馬が締めて、三人は笑い飛ばした。
ミケは、このことをマタザブローには伏せておこうと思った。
もしマタザブローが知ったら、今生きている残りの家族を殺してしまうかもしれない。まっとうな血筋を残すことを彼が自らの責務だと考えているとすれば、それは十分にあり得ることだった。
日が傾き始めたころ、一行は新潟警察署に戻ってきた。
前日の事件の生き残りである二人を長時間連れまわしたことで、捜査本部はピリピリしていたが、無事に連れ帰ったことでそれ以上の追及はなかった。
「おとなしくしているんだぞ。答えたくないことには答えなくていい」
忘木が釘をさすと、ナナははーい、と明るく答えた。
「それと将暉、お前は余計なことを話すな。刑事だったころの記憶がない、とでも言っとけ。もとはネコでした、と言ったところで誰も聞いてはくれんぞ」
将暉は小さく頷いた。
忘木は、ミケから聞いたバス内での将暉の行動について半信半疑のままだったが、最大限の警戒をしていた。もし本当なら、将暉は犯人二人を殺害している。もし何らかの物証が出てきたりした場合、行方不明となっていた将暉の行為が職務上の行動か、もしくは正当防衛か、といったことを論じる余地はないだろう。
実際、今日一日連れまわしてみても、いまの将暉の人格はとらえどころがなかった。いまの将暉の中身は、野良猫のミケなのだから、当然ではある。だが問題は、普通の猫のもつモラルというものが、人間社会でどの程度通用するものなのか、見当もつかないということにある。取調室の中で、忘木たちとは管轄の異なる取調官に対して、猫の常識で喋ってしまったら、話の進展によっては近日中どころか、一生かかっても将暉の妹の静香に会わせられない、ということにもなりかねない。
一抹の不安を感じつつ、ナナと将暉を捜査本部の連中に引き渡した忘木は、警察署のロビーの長椅子に座り、今度こそ忘れずに新潟刑務所に電話をかけた。
「千葉県警の忘木です。昨晩の件は一段落ついたので、これからそちらに」
言い終わらないうちに、電話口の向こうから声が聞こえてきた。
『ああ、忘木さん。いやあ、ご迷惑おかけしました』
「え?」
『新潟県警のほうから、彼女が出頭したと連絡がありました。ほっとしてますよ。まったく、何を考えているのやら…』
困惑しながら忘木が電話口に耳を傾けていると、ロビーの奥の廊下を、手錠をかけられた女が二人の警察官を伴って歩いていくのが見えた。
「失礼、かけなおします」
忘木は通話を切って、女の後を追った。
女と警察官たちは、廊下の奥の取調室に入るところだった。
忘木が追いついて、
「紗栄子さん!」
と声をかけると、周りの警察官が一斉に振り返ったが、紗栄子は無反応だった。
警察官たちの視線で、やっと忘木に気付いたのか、振り向いて微笑した。だがそのまま、忘木に返事をすることもなく、取調室に入っていった。
残った忘木に、新潟県警の警察官が「お知合いですか」と声をかけた。
「はい、たぶん…いえ、でも…」
忘木はそれだけ絞り出して、ロビーに向かって歩き出した。
「あれは…誰だ…?」
◇◇◇
相馬と合流し、忘木が新潟警察署を出るころには、午後6時を回っていた。
ひどい疲れが忘木を襲っていた。帰りの運転は相馬に任せて助手席に座り、ミケを膝の上に乗せると、足に伝わるぬくもりが余計に眠気を誘った。
「寝てていいぞ」
と相馬に促されたが、まだ一仕事残っている。忘木は気を取り直して、携帯電話で派出所の姫川に連絡を入れた。
「すまん、将暉はまだ捜査本部に身柄を拘束されたままだ。俺たちは一度引き上げるよ」
電話の向こうで、大きなため息が聞こえた。
「…何それ、どういうこと?」
「近くに将暉の妹さんはいるか」
「いないけど」
忘木は少し安堵して、話をつづけた。
「将暉には、バスジャックの実行犯二人を殺害した疑いがかかっている」
電話の向こうで、姫川が沈黙した。
「…正確には、目撃証言はない。ミケを除いてな」
「事情を聞かせて」
忘木は、ミケから受けた報告をそのまま姫川に聞かせた。
「だいぶまずいわね。将暉、そんな状況で釈放されるの?」
「わからん。何しろ、中に入っているのはただの猫だ。会話も交わしてみたが、正直何を考えているのかよくわからなくて…」
「忘木」
相馬が会話を遮った。
ちょっと待て、と姫川に伝え、忘木は電話のマイクをふさいだ。
運転していた相馬が、隣の車線を走る高速バスを指差した。忘木がバスを見ると、新潟県警に置いてきたはずのナナと将暉が後部座席に座っている。
「…すまん、将暉に逃げられたようだ」
忘木は、電話口の向こうの姫川に詫びを入れた。
ちょ、という姫川の慌てた声が聞こえたが、忘木はそのまま通話を切った。
「追わなくていいのか…?」
運転席の相馬が忘木に声をかけたが、忘木はそのまま助手席のリクライニングを倒した。
「ナナの住所は押さえてある。どうせ、アパートに帰るつもりだろう。将暉も、すぐに居場所を変えなきゃいけないと思うほどの頭の良さはない。いったん保留だ。俺は寝る」
忘木のうんざりした口調に、相馬も同意した。
東京まで150キロ。相馬は速度を上げた。
◇◇◇
帰宅後、ミケは姫川に散々怒られた。そして静香には、例の「ニャニャニャイニャ」の動画を見せられて、死ぬほどいじられた。
チャコの発情期は、とっくに収まっていた。
心なしか、以前よりもチャコがミケに体を寄せてくることが多くなった気がするが、生殖的なアプローチの意味合いがあるわけではなさそうだった。
自然に寝息を立て始めたチャコを見て、少しだけ暖かい気分になったミケは、改めてマタザブローのことを考えた。彼は帰ってくるのだろうか。もしこのまま彼が帰ってこなかったら、ボスを置き去りにしたとアイや群れの連中に責められるかもしれない。
だが、マタザブローは思ったよりずっと早く、野田に帰ってきた。
マタザブローは不機嫌だった。
ミケが理由を尋ねると、マタザブローはただ一言、一発やりそこなった、と呟いた。冗談なのか、そうでないのか。今のミケには少々わかりにくい返事だった。
三毛猫のモラル こやま智 @KoyamaSatoshi
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