世界の秘密

秋田健次郎

世界の秘密

 結露でぼやけた窓を横目に深呼吸をする。


 あまりに平坦な毎日をできるだけ考えないようにしていた。


 友人も恋人もろくにおらず、実家の自室でPCに向かって座っている。


 幼少期から同じこの部屋には、いまだに小学生の頃取った賞状が額縁に入れられて部屋の隅で埃をかぶっている。


 数年前に発生した例のパンデミックからずっとリモートワークが続いており、あれから出社回数は数えるほどしかなかった。


 勤務時間の半分はPCにプログラムコードを打ち込む時間。残りは、画面の向こうにいる同僚とオンライン会議や議事録作成。任される仕事は少しずつ規模の大きいものになっている気もするが、同期と比較すると明らかに出世は遅れているだろう。


 しかし、私自身それほど出世欲があるわけでもないのでそこは問題ではない。むしろ、給与は上がらないのに責任ばかり大きくなるだけだ。


 では、プライベートに問題があるのかと言われるとそれも違う気がする。休日は一人で読書や映画鑑賞で十分満足しているし、恋人も欲しいと思ったことがない。もちろん結婚も。


 本当は、きっと毎日それなりに充実している。世の中には、私より絶望的な人生を歩む人が大勢いる。彼らと比べれば私は恵まれている。実家暮らしのおかげで、貯金もたまるし。そうだとも。私は恵まれているのだ。


 私は席を立ち、息を吐いた。高校生の時に新調した勉強机の上にノートPCが置いてある。24インチのサブモニターとティッシュケース。映画の入場者特典でもらったクリアファイルには以前出社した際に受け取った書類が挟まっている。


 私はおもむろに部屋の角にある柱の前に立った。


 昔から部屋で一人の時、奇行に走る癖があった。特に意味はない。本当にただのストレス発散の一種だ。


 顔を柱の角に押し付ける。鼻の先端に角が食い込む。


 この部屋に監視カメラがあれば、恐ろしくシュールに見えるであろう光景の中に私ただ一人だけがいた。


 出来るだけ、強く押し付ける。強く。強く。


 額と鼻の痛みが最大に達した時、ふと視界全体が白くなった。


 私は驚いて、顔を引き戻す。貧血や眼球への衝撃といったものとは明確に違う感覚があった。単純に視界が白くなったのだ。キャンバスを間近で見た時のように。


 私はもう一度柱の角に強く顔を押し付ける。


 再び、視界が白くなった。しかし今度は、完全に白一色ではないことに気が付いた。視界の下半分は白いが、上半分は淡い青色だ。晴天の時の空と同じような色。


 押し付ける力をほんの少しでも緩めると、途端に視界は柱に戻る。痛みが限界ギリギリのところまで力強く押し付けている時だけ、その不思議な視界に変化する。


 今度は、その最大限の力でしばらくの間押し込み続けた。額と鼻先にはくっきりと跡がついており、感覚がなくなりつつあった。


 その不思議な視界に広がる世界は、平面というより空間と言った方が正しかった。下半分の白い部分は良く見ると、とてつもなく巨大な立方体の一面だった。白い部分と青い部分の境目は、その立方体の角ということだろう。だとすると、淡い青色をした空間の中に巨大な白い立方体が存在するという認識が正しいということになる。


 私は、柱から顔を離し額をさすりながら呆然とした。額にはくっきりと跡がついており、皮膚は少し埋没していた。鼻先も同じような感じだった。


 これは何だろうか。一切の検討がつかなかった。なぜだか、私の体の異常ではないと確信していた。


 柱は部屋の四隅にある。今見えたのは、ドアのちょうど真横にある柱だ。


 私はその向かいにある柱の前に立った。背の低い本棚を移動させて、柱の角と体を密着させる。


 力を入れて柱に顔を押し付ける。強く。強く。


 すると、再び視界が変わった。


 先程とは打って変わってとても複雑で即座には理解できない。黒い幾何学模様の中に所々見覚えのある物体が見えた。


「シャワーヘッド……?」


 少なくとも私にはそれがシャワーヘッドに見えた。すぐに理解できなかったのは、それがシャワーヘッドの裏側だったからだ。水の出口は反対側を向いている。そして、そのシャワーヘッドは空中に浮遊しているような恰好だった。ちょうど、浴室に掛けられているシャワーヘッドを裏側から見た時のような。


「裏側……」


 そうだ、今見えているこの形式はこの家の浴室をちょうど裏側から見たのと一致する。

 裏側から見たシャワーヘッド。そして、その隣に鏡のような銀色をした長方形。


 しかし、どういうことだろうか。私の部屋は家の二階であり、浴室は一階にある。かりに柱に穴が開いているとしても、このような位置関係にはならない。いや、そもそも、浴室の壁の向こう側から見てもこうはならない。水道管や機械類、建材なんかが詰まっているはずだ。


 私は顔を戻して、考えた。この光景に少し心当たりがあったのだ。


 それは、高校生の頃。当時流行っていたゲームのバグ技で通称”裏世界”と呼ばれる空間にワープするというものがあった。そこは、マップのあらゆるオブジェクトが裏から見えてしまう世界で、マップ上の障害物を気にせずに移動することが出来た。


 しかし、ここはまごうことなき現実だ。


 私は対角上にある柱に向かい、同じように顔を押し付けた。一本目は何もない空間。二本目は浴室の裏側。では三本目は?


 力を少しずつ強くする。痛みはとうに限界を迎えて、感覚はなくなっていた。


 視界一面が真っ黒になる。
















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 思わず、顔をのけぞらせる。


 しかし、視界は戻らない。


 真っ暗な空間に白い文字が浮かんでいる。


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「誰か!」


 どれだけ叫んでも誰からも返事はない。母が一階にいるはずだ。


 私は手探りで部屋から出ると、一歩ずつ階段を下りていく。


「母さん! いるよね?」


 返事はない。階段の最後の段から足を踏み出した瞬間、全身に浮遊感を感じた。


 落ちている。どこかに向かって。風は感じない。


「誰か!」


 その叫び声は、まるで反響することなく消えていく。防音室のようだ。


 どこまでも落ち続ける。音も視界もない。


 目の前に浮かぶ文字列が変わった。


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