【7】ふたりきりの生活

「痛いか。苦しいなら無理には動かさない。つらければ、すぐ言ってくれ」

「……………………痛くは、ありません」

彼の真っすぐな瞳に見つめられ、そう答えるのがやっとだった。



レナウ卿は私をベッドに座らせて、私の右足首を握っている。捻挫の具合を、確かめてくれているのだ。壊れ物でも扱うような慎重な手つきで、彼は私の右足首を動かして「痛いか?」と尋ねてきた。


メライ大森林からザクセンフォード辺境伯領へ連れてきてもらってから、はや1週間。安静にさせてくれたおかげで、足首の痛みも腫れもすっかり退いていた。


「問題なさそうに見えるな。……しかし苦しそうだ、クローヴィア嬢。顔が赤いが?」


彼の美しい顔はほとんど無表情だったけれど。わずかに気遣うような色を乗せて、私を見上げてきた。

「熱があるのか?」

「違います……………………」


男性に脚を触れられて、恥ずかしくないわけがない。私は真っ赤な顔で、目をそらしながら呟いた。

「……恥ずかしいのです」

レナウ卿は息を詰まらせると、私の脚をそっと離した。


「……失礼した、配慮に欠けていたようだ」

「いえ……」

私も彼も口数が少ないためか、ふたりきりでいるとすぐ沈黙が流れてしまう。すごく、気まずい。


私はまっすぐにレナウ卿を見つめて、ベッドに腰かけたまま礼をした。

「私を救ってくださった上に、こんなに良くしてくださって――本当にありがとうございます」


私は、きちんと微笑めているだろうか? 心からの感謝を笑顔に込めたいと思ったけれど、「君の笑顔は造り物めいて気持ち悪い」と非難されてばかりいたから……自信がない。

不安になって、レナウ卿の顔をちらりと見た。彼は穏やかな眼差しで、見つめ返してくれていた。


――レナウ卿、笑っている?


精悍な顔立ちに、微かな笑顔が浮かんでいた。感情表現が希薄な人だと思っていたけれど……見慣れてきたら、決して無表情ではないのだと分かった。


「クローヴィア嬢の笑顔を見て、安心した。鳥かごのような生活に苦痛を感じているのではと、気掛かりだったが」

ふっと息を吐き出しながら、安堵した様子で彼は言った。


「狭い屋敷で恐縮だ。ここは俺の私邸なんだが――滅多に使わないから、使用人もほとんどいない。不便だろう?」

「いいえ」


私はこの1週間、レナウ卿の所有するお屋敷に匿われて生活していた。彼はザクセンフォード辺境騎士団の団長という職務があるから、普段は騎士団の寄宿舎で暮らしているそうだ。レナウ卿は仕事の合間を縫って、何度も私の様子を見に来てくれていた。


「レナウ卿。傷が癒えたので、なにか恩返しをさせてください。あなたのお役に立ちたいのですが……」

「必要ない。君に見返りを求めようとは思っていない」

「でも……」

「本当に必要ないんだ。ただここに居ればいい」


ただ居ればいい? そんなことが許される訳がない。

迷惑を掛けっぱなしで、何の役にも立たない私が、お邪魔していて良い理由がないのだから。


私が戸惑っていると、レナウ卿が覗き込んできた。

「だが、もしかすると居るだけのほうが苦痛か? 囲われるだけの生活は、たしかに気がふさぐかもしれないな」

「レナウ卿のご厚意を悪用しているようで、心苦しいんです」

「……と、言うと?」


「あなたは、私に「恩返しをするために」助けると言ってくれましたが……私は本当に、過去にあなたと会ったことはありません。誤解で助けていただくのは、やはり申し訳ないです」

「そんなことか」

彼は、小さく笑っていた。


「気に病むことはない、俺の自己満足だ。君が俺の恩人とは別人物であったとしても……別にどうでもいい。どのみち、二度と会えない人だったんだ」


レナウ卿の笑顔は、どこか寂しそうだった。


「……その方の代わりになれない分、私は何か、あなたのお役に立てないでしょうか? 居させていただくからには、どうしても何かで貢献しなければと」

「そうか……クローヴィア嬢に仕事を任せる、か。考えておこう。とはいえ、人目を避けなければならないから、外には出してやれないが」


眉を寄せて思案しているレナウ卿に、私はひとつお願いすることに決めた。

「あの……レナウ卿」

「ん?」

「ワガママを言っても良いですか? 出来れば、『クローヴィア嬢』とは呼ばないでほしいです。……実家の公爵家のことを、あまり思い出したくありません」

私がそう言うと、レナウ卿は察したようにうなずいた。


「そうだな、改めよう。ではエリィと呼ばせてもらう」

「……エリィ?」

「不快か?」

「いいえ。――その名前で呼ばれたのは、子供のとき以来です。母がよく呼んでくれました」


エリィ。そうだ……私は小さいころ、エリィと呼ばれていた。


「とても懐かしいです」

お母さまが生きていた頃のことを思い出したら、頬が勝手に緩んでしまった。そんな私を、レナウ卿は遠い昔を懐かしむような瞳で見つめていた。


「……それなら俺のことも、名で呼んでくれ。ギルだ」

「え?」

「親しい者たちは、俺をそう呼ぶ」

口元を少し綻ばせて彼がそう言ってきたけれど……私は、困ってしまった。

「あなたを、お名前で……? そんな失礼なこと……」


まさか呼び方を改めるよう命じられるとは、思わなかった。婚約者だったアルヴィン殿下にさえ、愛称で呼ぶような真似はしたことがなかったのに……


「俺を呼ぶのは嫌か」

「嫌というわけでは。でも、男性からそのようなご命令を受けるのは初めてなので……」


私が真っ赤になって躊躇っていると、レナウ卿は少し困ったような顔をした。


「命令というわけではない。……無理強いしたつもりはなかった」

「いえ」

愛称で呼んでくれと言われたのだから、レナウ卿のご希望に沿うようにしたい。彼は命の恩人だし、こんなに良くしてくれているんだから。


「それでは。し、失礼します。ギ、ギル…………」

名を呼ぶくらいで、どうして私はこんなに手間取ってしまうのかしら。不器用な自分が、恥ずかしくて情けなかった。


「ギル…………ベル、トさま」

呼び捨てなんて、やっぱり恥ずかしくてムリだ。

「……せめて敬称くらいは、つけさせてください。なんだか申し訳なくて、息が苦しいです」


困り果ててうなだれる私を見て、ギルベルト様は小さく笑った。

「ありがとう」

「え……?」

私の頭を一度だけふわりと撫でてから、ギルベルト様は立ち上がった。


「俺はそろそろ仕事だ。夜にはまた来る」

「……行ってらっしゃいませ。お気をつけて」

部屋から出ていく彼に、私は深い礼をして送り出した。


自分の心臓の音が、身体のなかで大きく響いている。


――私。どうしてしまったのかしら。

ギルベルト様に救われてから、心が乱れることばかりだ。18年も生きてきて、他人からこんなに優しくしてもらったのは初めてで……胸が苦しい。


やっぱり、どうあっても彼の役に立たなければならない。私は、改めてそう思った。


彼に撫でられた髪に、自分でも触れてみる。……大きな手の温もりが蘇ってきて、もっと胸が苦しくなった。


「ギルベルト、様……」

乱れた息を整えながら、彼の名をそっと呟いていた。

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