無垢なるもの

 千尋と秀明がパンドラに捕まってから、三十分は経っただろうか。

 パンドラは、人間である千尋達をかなり丁寧に扱っていた。歩き方はゆっくりであるし、出来るだけ身体が上下しないよう意識している事は、ちょっとぎこちない動きから察せられる。ちらちらと千尋達の姿を見てくるのも、うっかり落としたり弱ったりしてないか確かめるためだろう。

 丁寧に扱おう、という『気持ち』は勿論人間達にとってありがたい。体長差六十倍以上、体重差が推定二百万倍の相手が雑に扱ってこようものなら、人間の四肢など簡単に千切れてしまう。今こうして生きているのは、間違いなくパンドラの配慮のお陰だ。

 ただ、十分かどうかは別の話。


「おろろろろろろろ……」


 歩きに伴う上下運動により、千尋はすっかり気持ち悪くなっていた。口からは涎が垂れ流しになっているが、これは胃の中身が既に空っぽで、他に出すものがないが故の惨事である。パンドラは吐瀉物で手が汚れた事など気にしていないようだが、もしも気にしたら(問答無用で攫っておいて理不尽な話だが)今頃肉塊に変えられていたかも知れない。

 パンドラは確かに、身体が上下しないよう頑張ってはいる。頑張っているが……数十センチ近い上下運動が、頻繁に繰り返されていた。

 パンドラからすればこんなのは『誤差』みたいなものだろう。何しろ彼女の体長は百メートル近い。例え五十センチ上下していたとしても、人間の身長である一・六メートルに換算すれば八ミリ程度の動きに過ぎないのだから。ちなみに人間は歩くだけで重心が二センチ上下するので、余程意識しなければ運んでいる物も同じく二センチは上下する。

 それを考えれば、パンドラが行っている数十センチ程度の上下運動は極めて優秀で丁寧なものだ。いや、瓦礫が積み重なって大地が平坦でない事を思えば、神業染みているとも言える。流石は人智を超えた人工知能、人間には理解が及ばない高性能マシンだと褒め称えるべきだろう。

 しかし、神業だろうが人智を超えていようが、人間からすれば乗り心地が悪い事には変わらない訳で。


「だ、大丈夫かい、深山くん……うぷ」


 秀明も気持ち悪そうにしながら、千尋の身を気遣ってきた。

 精いっぱいの青ざめた笑みを浮かべながら、千尋は「ダメポ」と答える。


「そ、そろそろ、立てなく、なりそう……」


「いやまぁ、寝ていた方が良いとは、僕も思うけどねぇ……せめて、何処に連れて行くつもりなのかが分かると良いんだが」


 弱音を吐く千尋に同意しつつ、秀明は自分達の置かれた状況について振り返る。

 そう、本当に問題なのは乗り心地の悪さなんかではない。

 パンドラが自分達を『何処』に連れていこうとしているのか、だ。


「(随分遠くまで運ばれたなぁ)」


 パンドラの指が邪魔で、周りの景色はよく見えない。手の縁まで乗り出せば観察出来るだろうが、(人間目線で)激しく揺れ動く中でそんな事をすればうっかり落ちてしまう可能性がある。

 扱いこそ丁寧なパンドラだが、自ら危険を冒した人間を守ってくれるとは限らない。そしてこの高さ……最低でも五十メートルはあるような位置から落ちれば、どう楽観的に考えても生きては帰れないだろう。身体を乗り出してまで周囲の様子を探るのは、やらない方が賢明だ。

 そのため詳しい状況は分からないが、しかしパンドラの歩みを考えれば、もう数十キロは移動した筈。都市一つ分を横断したと思えばかなりの距離であるし、少なくとも、もう徒歩で日帰りは出来まい。

 外泊許可を申請していないので、千尋達が帰ってこなければ自衛隊も異変に気付くだろう。千尋の仕事内容を思えば、パンドラに何かされたと考えるのが普通だが……


「(これといって成果が出てない私や、立場の良くない東郷くんを積極的に探す事はないかなぁ)」


 現時点で、人類にはパンドラを止めるだけの力はない。千尋達を救助するために自衛隊を派遣しても、返り討ちに遭うのが関の山だ。

 いや、自衛隊が壊滅するだけならまだ良い。しかし奪還作戦によりパンドラが怒り狂ったとしたら? 全盛期の自衛隊日本なら足止め作戦や避難誘導も出来ただろうが、十年前の戦いで壊滅し、以降の作戦でも負け続けた自衛隊に力は残っていない。暴れるパンドラにされるがまま、とんでもない被害が出るだろう。

 天才とはいえ一人の科学者と、何千万もの人が暮らす日本という国家。どちらを守るべきかは言うまでもない。


「(このまま大人しく連れられて、飽きられたところで逃げるしかないかな)」


 果たしてそんな機会が訪れるのか、それまで生きていられるのか。根本的かつ致命的な問題から逃げるように、千尋は目を瞑る。

 途端、身体に大きな慣性が掛かった。

 油断していたところにきた力に、また千尋は吐き気を覚える。閉じていた目も開き、涎が口から溢れ出す。

 しかしそんな体調云々よりも、パンドラの行動に意識が向く。

 身体に強い慣性が掛かったのは、パンドラが急停止したからだろう。その止まっているパンドラは、何かをじっと見つめていた。機械であるパンドラから表情など読み取れないが、不思議と穏やかな顔立ちだと千尋は感じる。

 やがてパンドラはゆっくり膝を曲げ、千尋達を地面近くまで運ぶ。そこで少しずつ両手を傾け、中身である千尋達を地面に落とした。

 ちょっとばかり雑な扱いにも思えるが、人間がダンゴムシやアリを地面に戻す時の動きと思えばそれなりには丁寧な方かも知れない。実際千尋達もちょっと尻餅を撞いたぐらいで、怪我と呼べるほどの傷は負わなかった。


「いてて……此処は……」


「何処かの工場、のようだな」


 先に周囲を把握したのは、臀部の痛みを気にしなかった秀明。

 彼が言うように、此処は何処かの工場のようだった。壁は大半が壊れていて外も丸見えだが、僅かに残った天井や壁を走るパイプの数々がかつての役割を物語る。

 そして千尋達が置かれたのは、雑多に段ボールなどの箱が積まれた場所だ。箱はどれもボロボロで、潰れているものも少なくない。箱には文字が掛かれていたが、掠れてしまって読めず、中身が何かは不明。ただ大きく丈夫な作りをしているため、部品など重みのある物が入っていると予想出来る。

 この箱が十メートル近い高さまで積み上がり、しかも千尋達を包囲するような並び方をしていた。恐らく、パンドラが積み上げたのだろう。目的は、明らかに千尋達を逃さないための檻……というより虫かごか。

 逃がすつもりはない、という事なのは分かる。しかし何故そうまでして自分達を逃さないのか?


「(研究者である私が邪魔なら、叩き潰して殺せば良い訳で)」


 人の命は地球より重い、と昔の政治家は言ったらしいが、そんな事はない。少なくとも人間以外の存在からすれば、より自分の方が大事だろう。

 パンドラは機械であるが、ロボット三原則や禁則事項を持たない彼女には人も虫も大差ない。よって特定の人間が邪魔だと言うのであれば、殺してしまうのが合理的だ。

 千尋達を殺せない、或いは殺したくない理由がパンドラにはあるのだろう。

 だが、一体どんな理由があるのだろうか? 千尋は十年以上前に『ロボット工学の天才児』等と言われ、二十歳の時点で(千尋自身はまだまだの身だと思っているが)世界最高峰のロボット開発者とも称されたが……パンドラからすれば踏み潰せば終わる虫けらAに過ぎない。退治方法を思い描けないという点では、知能もパンドラからすれば見劣りしている。一応生みの親の一人であるが、自己を改良し続けてきたパンドラにとって、最早人間が親と言えるか怪しいものだ。

 そもそも千尋とパンドラが出会うのは、これが初めてではない。もう何年も続けている観察で、千尋は幾度となくパンドラに見付かっている。その度に無視されており、捕獲を試みてきた事など一度もない。

 なら、秀明を攫おうとしたのか? 千尋よりは可能性は高いだろうが、やはり攫うような理由があるとは思えない。経営者としては優秀な人間だが、その能力をパンドラが求めている事は考え難い――――


「な、なぁ、深山くん。深山くんっ」


 様々な可能性を考えるもしっくりこず、そのまま悩んでいた千尋だったが……不意に秀明が肩を叩いてきた。それもかなり強めに。

 不愉快というほどではないが、考え事を中断させられて嬉しくはない。無意識に睨むような目付きになりつつ、秀明の方を振り向く。

 そして説明されずとも、千尋は彼の言おうとしていた事が察せられた。

 パンドラがこちらを見ていた。

 ただし。頭の位置や大きさからして、恐らく自分達が知るパンドラよりも半分ほどの大きさだろうか。加えてそのパンドラの傍に、巨大なパンドラの姿もある。こちらはちゃんと百メートルぐらいある。

 頬を引っ張ってみれば痛い。つまりこれが幻覚の類でない事は間違いない。後は現実を受け入れるだけ。

 パンドラが量産されていたという、人類にとって最悪の現実を。


「う、嘘……まさか、もう一体の……!?」


「そうらしい……いやはや、有力でないと言われていた説が正しいと分かると、中々衝撃的だね」


 秀明は軽口気味に現状をぼやくが、声が微かに震えている。パンドラ二体に見られているという状況に、不安や恐怖が抑えられないのか。

 そうなるのも無理ない。

 たった一体でも人類の手には負えなかったパンドラ。それが、小さいとはいえ二体になってしまった。身体は小さいとはいえ、恐らく基本的な能力は五十メートル級だった頃のパンドラと同等……いや、これまでの経験がフィードバックされているのなら、数段階上と見た方が良い。

 加えて新たな個体を一体でも作ったのなら、もう一体作り出さないとも限らない。三体目四体目五体目についても同じ事が言える。パンドラが五体もいれば、世界に同時攻撃を仕掛け、今度こそ人類文明を根絶やしに出来るだろう。

 創作物よろしく一発逆転の効果的な作戦で一網打尽に出来れば、多数のパンドラも相手に出来るかも知れない。だが、そんな『ご都合主義』が許されるのは物語の世界だけ。

 最早人類に打つ手なし。勝ち目などないと分かっていたが、こうも絶望的な光景を見ると却って冷静になる――――


「……………あれ?」


 そう、千尋は冷静だった。落ち着いたように振る舞いつつも、千尋とパンドラ達の前に立っている秀明よりもずっと。

 故に気付く。

 小さなパンドラの動きが妙にそわそわしていて、落ち着きがないと。五十メートルもある巨体を揺れ動かしながら、千尋達を見ている。

 最初は色んな角度から観察しているのかとも思ったが、『観察』というには些か落ち着きが足りない。というより全体像が見えないので気付くのに遅れたが……よく見れば小さなパンドラは腰が引けているような気がした。動きも千尋達を見ようとして身体を出し、けれどもある程度近付くと素早く縮み込んでしまうというもの。これを延々繰り返す。

 まるで、怖いもの見たさで襖から覗き見ている子供のよう。

 つまりこのパンドラは、人間に怯えているのだろうか?


「(いや、いくらなんでも……あり得ない)」


 パンドラは強い。

 体長五十メートルの時点で、ミサイルも爆撃も戦車砲も最初しか効果がなかった。地雷も通じていない。ならば必然、人間が持ち運び出来る程度の武器など効く訳がない。

 これに怯えるというのは、人間で例えれば蚊や蝿に本気で恐怖するようなもの。そもそもパンドラはこれまで散々人間を殺戮してきた。恐怖による虐殺は人間もよくやっているので『あり得ない』とは言わないが、見た目の印象からして、十年前のパンドラは楽しんでやっていたように思う。そして過去に経験したならデータがある訳で、小さなパンドラにこのデータを渡せば、人間を怖がらなくて良いと分かる筈だ。

 一体、このちび助は何を怖がっている?


「……なぁ、深山くん。素人考えを一つ、話してもいいかな?」


 考えが纏まらずにいると、秀明がそう尋ねてくる。勿論、拒む理由なんてない。新たなアイディアを出すには、新たなインプットをするのが一番手っ取り早い。


「うん。どんな考え?」


「見たところ、この小さいパンドラは……怖がっているような、気がする」


「うん、私もそう思う」


 秀明の意見に千尋は頷く。

 自分の印象が正しいという『確信』が得られたのは大きい。しかし、やはりどうして怖がっているのか理解出来ない。

 人間を怖がる必要なんてないのに。


「ひょっとすると、このパンドラは人間を見た事がないんじゃないか?」


 確かに秀明が言うように、人間を見た事ないなら分からなくもない。幼児が生まれて初めて目の当たりにする、小さな虫にビビるようなものだろう。だが、百メートル級のパンドラからのフィードバックがある筈だから――――


「(え、あれ……?)」


 そこまで考えて、自分の思い込みに気付く。

 パンドラの人工知能からのフィードバック。彼女はコンピューターであるがために、自らの『記録』を新たに作った機体へとコピーする事は可能だ。パンドラより数段劣るコンピューター、例えば家庭用パソコンやスマホでも出来る事なのだから当然である。

 そう、当然なのだが……当然である事と

 パンドラが意図的に記録のコピーをしないのであれば、出来上がるのは何も知らない『幼子』のような存在だ。幼子というのは、大人では考えもしないような行動を見せるものである。それこそ、地面のアリを怖がって逃げ回るような事もする。

 五十メートル級パンドラの行動はこの幼児のものと似ていた。類似点があるのだから、似たような存在だと考えるのが自然。

 即ち、


「……お子さん?」


 

 そう呼ぶとしっくりくる巨大ロボットは、子供のような好奇心を纏って千尋達をじっと見つめてくるのだった。

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