新たな希望
十年後の世界
かつて、東京と呼ばれていた地域がある。
十年前までそこは、数多の人間達が暮らす土地だった。コンクリートで作られたビルが所狭しと並び、朝も昼も夜も、大勢の人間が行き交う。大きな道路は途絶える事なく車が通り、あちこちに張り巡らされた線路を無数の電車が走っていく。
東京は、決して『世界の中心』ではないし、日本の全てでもない。しかし世界有数の大都市であり、日本経済の少なくない部分を担う場所だった。東京の繁栄は、日本や世界の繁栄と近しいものがある。
その東京が瓦礫の山と化している事。それは、今の日本と世界がどれだけ悲惨な状況であるかを如実に物語っていた。
ビルの全てが崩れた訳ではない。だが大部分……かつてあったものの九割は倒壊している状態だ。残る一割も、あちこちの壁や窓ガラスが砕けており、強度の著しい劣化が素人目にも分かる。そう遠からぬうちに、全てのビルが自然と倒れるだろう。
そして倒れたビルの残骸からは、無数の植物が生えていた。
多く見られるのは蔓植物の仲間や、細長い葉の雑草などの草本性植物。コンクリートジャングルとも呼ばれていた大都会でも、絶える事なく生えていた雑草が、今までの鬱憤を晴らすように繁茂していた。また瓦礫の隙間からは小さくて細い、けれども間違いなく木本性の……つまり木の苗も生えている。
人間がいなくなった都市に戻ってきた鳥達が、何処かの山から種子を運んできたのだろうか。建物が砕けて『土』となれば、そこはライバルのいない新天地だ。栄養も水も僅かだが、小さな草や木が生きていくには十分。降り注ぐ六月の太陽を燦々と浴び、植物達は悠々と育つ。
これら植物の繁殖に伴い、虫などの小動物の数も爆発的に増えた。大きめの野生動物であるタヌキやハクビシン、シカなどの姿もよく見られる。勿論動物はいずれ死ぬ。それら死肉を目当てにしてか、個体数は少ないがクマも徘徊していた。鳥も多く、下手な自然公園より余程生き物が多い。かつて世界有数の『人工物』だった場所は、徐々に自然に還ろうとしている。
あの事故が起きてから、僅か十年の間に。
「こういうのも、皮肉、と言うのかな」
そんな『自然』の中を、一人の女性が歩いていた。
年齢は今や三十代。立派な成人女性なのだが、愛らしい顔立ちは少女を思わせ、ひょっとすると十代なのではと見る者を混乱させるだろう。髪は長く伸ばしているが、後ろで束ねてポニーテールにしている。前髪も長いが掻き上げているため、顔は隠れていない。少し顔の血色は悪いが、太陽の下では目立たないぐらいだ。
背筋はやや曲がり気味。元々さして高くない身長が、お陰で更に一回り小さく見えてしまう。これでも『昔』と比べれば大分姿勢は良くなったのだが、二十年近い年月で培われた悪姿勢は十年かそこらで治るものでない。
けれども十年前と大きく雰囲気が変わったのも確かで。
彼女が深山千尋であると一目で分かる者は、十年間彼女との交流を保ってきた僅かな面子だけだ。
「私も、随分と、逞しく、なった……!」
独りごちながら千尋は植物だらけになっている瓦礫の山を、力強く踏み締めて歩く。十年前の、引きこもり系技術者をしていた頃なら数歩進むだけでへろへろになっていたかも知れない。
しかし今の彼女は違う。明らかに筋肉の付いた足で、一歩一歩、着実に前へと進んでいく。俯いてばかりの顔は前を向き、やや曲がっているものの背筋は揺るがない。
十年。彼女にとっては人生の三分の一に近い、けれども存外瞬く間に過ぎていく歲月の間に、千尋はかつてとは比べようもないほどに力強くなっていた。
尤も、いくら強くなったと言っても十年前の自分が比較対象である。十年以上身体を鍛えている生粋のスポーツマンどころか、十代男子のように何もせずともそこそこ筋肉が付く年頃と性別相手には勝ち目などない。あくまでも『貧弱女』より逞しくなっただけ。
ましてや瓦礫の上に陣取っていた野生のイノシシとどちらが強いかは、言うまでもないだろう。
「……………あら」
「……………」
互いに油断していた所為か。いくら瓦礫の山を登っている最中だったとはいえ、ろくな遮蔽物もない中で至近距離に近付くまで互いの存在を認識していなかった一人と一頭は、不意に目を合わせてしまう。
千尋の方は、敵意などない。彼女は猟師ではなく、この暢気な野生動物を傷付けるつもりなどないのだ。
イノシシの方も、千尋に敵意はないだろう。『彼女』はそこらにある植物や、そこに群がる虫を食べているだけ。イノシシは肉も食べるが、オオカミのような捕食者と違いあくまでも雑食性だ。死肉なら兎も角、積極的に大きな動物を狩るような生き物ではない。
ただ、ウリ坊を連れた親となると、そんな悠長な事は言っていられない訳で。
「(あ、これはヤバい)」
ぶわっと、千尋の額から脂汗が吹き出す。
それでも咄嗟に走り出さなかったのは、この十年のフィールドワークで培った度胸のお陰だ。いきなり走り出すのは、野生動物を刺激するのも同然。イノシシは子供を守るため苛立っている。迂闊な行動をすれば、無防備な背中に強烈な衝撃が走る事になるだろう。
このような状況だからこそ冷静に。穏便に、相手も落ち着いて考えられるような振る舞いをしなければならない。
そんな千尋の気持ちをイノシシが汲んでくれれば良いのだが、脳の小さな野生動物にこれを期待するのは酷というもの。結局は相手のご機嫌次第でしかなく、
「ピグゥイイイイッ!」
イノシシが恐れ慄いたような悲鳴を上げた時、千尋は死を覚悟した。
が、事態は予想外の方に転ぶ。
悲鳴を上げたイノシシは、千尋から逃げるように走り出したのだ。ウリ坊達も母親の後を一生懸命追い駆け、あっという間に遠くまで行ってしまう。
命拾いした千尋であるが、いまいち釈然としない。確かにイノシシは残虐非道な生物ではなく、危険だと思えば逃げ出す事もあるだろう。先程考えたように獰猛な捕食者でもないため、積極的な攻撃も好まない。しかしあそこまで肉薄したら、身を翻すよりも突進し、こちらを突き飛ばしてきそうなものである。
まるで何か、もっと恐ろしいものに出会ったような――――
「あー……そっか、来ていたんだ」
そこまで考えて、何故助かったのか千尋は理解する。そして自分の後ろを、くるりと振り返った。
顔を向けた先に、『彼女』はいた。
全長百メートルを優に超える身体。あらゆる自然物を凌駕する巨体は、鋼のような金属で出来ていた。表面には小さな傷もなく、まるで新品のように煌めく。
見た目は一言で言えば直立歩行をする肉食恐竜。しかし大型肉食恐竜にしては頭部が小さく、腕は長く太いなど、全体的な特徴は大昔に出てくる特撮映画の怪獣のようと表現するのが的確か。背中からは鋭い背ビレを幾つも生やし、体長よりも長い尾を地面に引きずっている。
胴体も足腰も太く、体格は鍛え上げた格闘家のような見た目。勿論機械の身体に筋肉などないが、『巨大さ』以上の圧を感じるのは体躯の立派さが影響しているのだろう。
或いは、これが東京をこんな状態にした張本人だからか。
パンドラ。
十年前にそう名付けられた巨大ロボットが、千尋のすぐ後ろ……ざっと三十メートルほど近くまで来ていた。
「………………」
ごくりと、千尋は息を飲む。
千尋は今戦えるようなもの、銃などの武器は持ち合わせていない。持っていたところで、ミサイルや戦車砲が直撃しても耐えられるのがパンドラだ。個人が携帯出来る兵器を顔面に撃ち込んだところで、「なんなんだ今のは?」とでも言わんばかりに叩き潰されるのがオチである。
だからといって、逃げたところでこの体格差相手では無駄であろう。人間がアリを踏み潰すのに苦労などしないように、パンドラにとって人間を叩き潰す事は容易い。無論、防御したところでパンドラは手応えの変化すら感じまい。
そしてパンドラは、十年前に数多の人間を殺戮してきた存在だ。逃げ惑う市民にミサイルを撃ち込み、遠くから撮影していたマスコミをエネルギー攻撃で虐殺した事もある。
どう足掻いても、逃げるどころか隷属さえも出来ない相手。最早死を覚悟するしかない。
パンドラが人間殺しに飽きていなければの話だが。
【……ギギガガガガ】
頭にある目のように並ぶ左右三対のライト(恐らく光学カメラ)で千尋を見つめた後、パンドラは鳴き声のような音を鳴らす。口を半開きにする様は、まるで笑うよう。
千尋から視線を逸らすと、パンドラは再び歩き出す。ひっそりと、足音を立てないような歩き方で。一体どんな構造であればそれが可能なのかは不明だが、実際殆ど足音は聞こえない。
こっそりと、今し方逃げていったイノシシ親子を、パンドラは追い駆けていった。
「……目的はあっちかぁ」
命拾いしたと、千尋は安堵の息を吐く。
今のパンドラは積極的に人間を攻撃しない。千尋はその事実を知っている。知っていても、結局それはパンドラの気分次第であり、何時彼女の手が自分の頭上に落ちてくるか分からない。例え向こうに殺す気がなくとも、適当に振り回した尾が当たればそれだけで人間は血糊へと変貌するだろう。
それでも千尋は、この場から離れず。むしろパンドラの後を追うように歩き出す。
命は惜しいし、怖いものは怖い。だけどそれ以上に、知りたい。
人間が生み出した不自然の極み。人類の手から離れたそれが、大自然でどんな『暮らし』をしているのか。
自分の雇い主たちもそれを知りたがっている。
湧き立つ好奇心を満たし、尚且つ今や希少な『仕事』を手放さないために、千尋は止まる訳にはいかないのだから。
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