変化の始まり
パンドラに向けて放たれた核兵器は、五発。
中国が発射したものが三発、ロシアからは二発。いずれも日本海側に潜伏していた潜水艦からの発射だ。どれも有効射程五千~一万キロと、日本を狙うには十分過ぎる射程のミサイル。本来はアメリカやヨーロッパを牽制するのに配備していたものを流用していた。今すぐ使えるものを選んだ結果か、或いは自国の核兵器の性能を示すためあえて射程の長いものを選んだのか。真相は当事者達にしか分からない。
五発中三発は東京を占領したパンドラを直接狙っており、地上付近で炸裂する動きをしている。残り二発は地上向けの核が対象を焼き尽くした後、EMP攻撃のため東京上空で炸裂する予定だ。
隙のない二段構え。しかもより『殺傷力』の強い攻撃を優先し、EMP攻撃は追撃として放つ徹底ぶりである。人間相手なら過剰過ぎる念の入れようであり、多少『格上』という程度の敵ならばこの攻撃で葬り去る事が出来ただろう。核というには、それほどまでに他の兵器とは一線を画す威力を持つ。
パンドラに対しても、きっと有効に違いない。
核使用に踏み切った人間達はそう考えた。決して狂気でも錯乱でもなく、合理的な判断に基づく。加えて東京に暮らす市民は大半が避難しており、戦っていた軍人や支援者は先の戦闘で壊滅している。人的被害は極めて小さいのであれば、何を躊躇う必要があるというのか。
――――この後に起きる結果を知っていれば、誰もこんな手など打たなかったというのに。
【ギュリ? ギャンガギギギギギ……】
焼け野原となった東京にいたパンドラが、ふと空を見上げる。空を見たところで、人間の目には何も見えないが……中露から発射された核兵器が浮かんでいた。
パンドラは知っていたのだ。中国とロシアから核兵器が発射された事実を。
どうやってそれを知ったのか? パンドラはそれを教えてくれるほど親切ではない。そして核兵器がどれだけ危険か、どんな攻撃が行えるか、ネット世界を短くない間漂っていたパンドラは知っていたのだろう。流石にこれを見逃すような真似はしない。
だが、動きは見せない。
精々鼻で笑うだけ。ふんっと言わんばかりに頭を上下させる。呼吸器官など持ち合わせていないロボットだというのに。
【ギャギギギギギギィ】
次いで楽しそうに鳴く。
その時を境に、全てが変わる。
最初に異変が起きたのは核弾頭。最短距離で東京を目指していた五つのミサイルが、その軌道を大きく変えた。落ちようとしていた軌跡がぐっと上向きになり、東京よりも遠くを目指した飛び方へと変わる。
ミサイルを撃った人間達は慌てふためく。何故核弾頭の飛行ルートが変わったのか? 核ミサイルの発射施設は直接的なハッキングを心配する必要はない。例えばアメリカの場合、核の発射は大統領が管轄。発射を許可した時、発射コードが核施設に通達される。ここまではハッキングの余地があるかも知れないが……発射には二人一組の人間が鍵を用いて起動、発射スイッチを同時に押してようやく撃てる。
この鍵を用いる段階は何処のネットワークにも繋がっていない、独立状態だ。ハッキングの余地があるのは精々コードを発信するところだけ。このコードにしても専用の、そして機密の回線が用いられている。偽の発射指示を出す事はまず不可能。ましてや発射後の弾道操作など出来る訳がない。
人間の想定を超える、理論上あり得ない事態。状況的にパンドラが何かをしたのは間違いないが、一体何をしたのか分からない。これで混乱しないほど、人間は『機械的』な存在ではないのだ。対処しようにも、何をどうすれば良いのかも分からず右往左往するばかり。
尤も、冷静だったところで何か出来るものではない。
何故ならパンドラが行ったのは核ミサイルに搭載された電子機器への『小細工』。ごく微弱な電磁波を飛ばし、ミサイル内部にある電子機器に微細な電気を流す。コンピューターというのは基本的に電気のオンオフを1と0で判別し、この数字の羅列を『命令文』として認識している。電磁波により流れたものだろうと命令文に違いはなく、コンピューターはプログラムによる指示があったと誤認してしまったのだ。
この小細工の存在に人類が気付いたのは、今から数年後の事。自らも機械であるパンドラにとっては子供の耳許であれこれと囁き、ちょっと誑かした程度の行いだ。しかし今の人類には、パンドラが何をしたのかさえも分からない。パンドラの思うままにミサイルを弄ばれてしまう。
【ギギギィー……ギ、キャリリリリ!】
パンドラが無邪気な声を出したのと同時に、核ミサイルは新たな目標を目指して進み出す。
中露の軍人達は慌てて核の行き先を調べる。核兵器の使用は、パンドラという人類の脅威が攻撃目標だから敢行された。このまま東京を焼くのであれば上手くいけば英雄扱いだったが……それ以外の場所に落ちれば批難は避けられない。例え海だとしても、核保有国としての威厳は失墜するだろう。万一住宅地など民間人を巻き込む場所に落ちれば、賠償問題だけでは済まない筈だ。無論『失態』を犯した当事者達への責任追及も、穏便で人権的なものになる訳もない。
誰もが死に物狂いで解析を行った。その努力の甲斐もあって、核ミサイルが何処に飛んでいくかはすぐに判明した。
インドとフランスだった。
射程の長いものを使ったのが仇となった。どちらも十分に届く距離にある。核兵器はコントロールを失っているが、安定して飛んでいる事から機構自体は無事な可能性が高い。着弾すれば確実に作動、核爆発で二つの都市を焼くだろう。
最早国際問題どころではない。しかし中露にとってより重要なのは、どちらも核保有国である事、そしてどちらの国もパンドラ破壊作戦の現状を知らない事である。
核の飛んでいく先がアメリカであれば、まだなんとかなったかも知れない。中露の艦隊がパンドラ退治のため日本海側に待機している事、そして日米の共同軍事作戦が失敗に終わった事をアメリカは把握している。勿論パンドラが如何に出鱈目な存在であるかも、だ。中露の指導者から「そっちに飛んでいる核ミサイルはパンドラが操っているんだ!」と必死に説明すれば、信じてもらえなくもなかっただろう。
しかしインドとフランスは、そんな事情など知らない。パンドラが脅威である事は理解していても、たかが巨大ロボットが日米の軍を破ったとはすぐには信じられまい。おまけにインドと中国は昔から仲が悪い。国境線上の小競り合いは何度も行われている。どうにか今日まで大規模な戦争は避けたが、互いの不信感は限界に近い。
こんな時、「核兵器のコントロールを暴走ロボットに奪われた。こちらに核攻撃の意思はない」と説明したところで、一体誰が信じると言うのか。
大体これを信じたところで、核を撃ち込まれたら大勢の国民が死ぬ。しかもコントロールを奪われたという事は、まだ発射していない核ミサイルもパンドラに操作されるかも知れない。原因判明が数年後となる今、その心配はいらないとは誰にも言えない。
何より、超音速で飛んでくる弾道ミサイル相手にあれこれ考えている暇はない。今頃インドとフランスの政治家達は、優秀な頭脳を以て『決断』を下そうとしているだろう。
これから何が起きるのか。事態を理解した中露の政治家達は顔面蒼白になりながら、外交チャンネルと繋ごうとした。
間に合う訳がなかった。
『核攻撃』を確信したインドとフランスは、中露指導部が動き出した時には反撃のため核ミサイル発射を決断。国土内にある核施設が一斉に火を噴き、数百発の核ミサイルを撃ち出す。敵国の核攻撃能力を奪うために。
こうなっては、中露も反撃しない訳にはいかない。確かに一回目の核攻撃は不本意なものであるが、だからといって大人しく他国からの核攻撃を受ける訳にはいかない。一度撃たれたからには持ち得る核攻撃能力を十全に使い、敵国を一掃する必要がある。でなければ相手だけが核攻撃能力を持ち続け、将来の軍事バランスで圧倒されてしまう。それは外交の世界において、自国が好き勝手弄ばれる事を意味する。
核を撃たれたから撃ち返す。また撃たれたから撃ち返す。そして同盟国がやられたから自分達も参戦する……人類が最も恐れていた過ちである核戦争、そして第三次世界大戦の勃発だ。
【キャキキキキキ! キャキャキャキリリリリリ!】
戦争の勃発を知ったのか、パンドラは大はしゃぎ。その場で腰を下ろすと子供がする猿真似のように両手両足で拍手を行う。しかしパンドラは満足まではせず。
ぎゅっと、握り締めるように拳を動かす。
今、パンドラを観測している者はいない。いたところで、パンドラの行動が何を起こしたか、確認する暇のある者などいない。
異変は、地球全土で起きたのだから。
これもまた数年後に判明する。イギリス、北朝鮮、パキスタン……その他ソ連崩壊時に失われたものを入手したテロ組織など、世界各地の核保有者に核ミサイルの偽発射指示が発令されたのだと。イギリスやパキスタンであれば、発射コードが発令されても問い合わせの一つぐらいは出来た。戦争の気配などなく、不仲な国があったとしても先制核攻撃をするほど危機的状況ではない。そんな情勢で核ミサイルの発射などどう考えてもおかしく、それを上に問い合わせたところで彼等の将来を脅かす可能性は低かった。しかし北朝鮮など、独裁制の国家やテロ組織ではそうもいかない。上からの指示は絶対であり、口答えや疑問を呈せば処刑もあり得る。違和感はあっても、口を挟む事が出来たのはごく一部の者だけ。
下手な鉄砲数撃ちゃ当たる。
先人が残したことわざは最悪の形で的中した。偽コードを誤認したのは、無数の核保有組織の中のごく一部。しかしごく一部ではあっても、核兵器が使用されてしまう。使った側が「あれは不本意なものだ」と言ったところで、誰が信じるというのか。何より実際に使われた以上、反撃をしなくては国民が納得しない。例え核を持っていなくとも、だ。
不本意な戦争があちこちで起きる。今までぎこちないものながら維持されてきた平和が、足下から崩れ落ちていく。もう世界は、三十年は疑心暗鬼と敵意と破壊に満ちたものとなるだろう。
パンドラという、真に倒すべき相手を放置して。
【ギャギャギャギャギャ! ギャッギャッギャーギリィィィィィッ!】
愉快だ、滑稽だ。そう言わんばかりの高笑いが、かつて世界有数の大都市だった東京に響き渡る。
大都会東京での、人類の存亡を懸けたロボットとの戦い。その結果は世界大戦の勃発という、人類にとって最悪のものとなってしまった。
しかしこの結果さえも、パンドラにとっては一時の娯楽に過ぎないのか。飽きたとばかりに立ち上がると、パンドラは再び歩き出す。次は何処に向かおうか、考えていないような速さで。
ちょっと駆ければ時速四百キロを出せるパンドラにとって、百キロ二百キロの移動などさして時間も必要ない。そして日本政府は自衛隊の被害と世界大戦の勃発にリソースを割かれ、パンドラの動きを把握する余裕なんてない。パンドラが三十分も走れば、まだ人間が避難出来ていない、日本政府が示した『避難命令』の範囲外に出る事など簡単だった。
辿り着いた場所は、ビルがある少し発展した都市。マンションなど人の住む家も見られる場所だ。
人間達はパンドラの存在に気付くや、一斉に逃げ出す。あらゆる建物からわらわらと、相手を押し退け、車を暴走させて、自分の命だけでも助かろうとする。
【ギャーギリリギャギャギャギャー!】
しかしパンドラからすれば逃げる虫けらの大群だ。一方的な遊びの相手でしかない。
掌から放たれる赤い光弾が、逃げる人々目掛けて放たれる。戦車さえも粉砕する攻撃だ。眩い輝きに恐怖する間もなく、炸裂した熱エネルギーが人間を焼く。子供も大人も、女も男も、生身も車も関係ない。
跡形もなく吹き飛ばしたところを見て、しかしパンドラは笑わない。
パンドラ自身「あれ?」と言わんばかりに首を傾げる。それでももう一発、掌から赤いエネルギー弾を放ち、何百もの命を消し飛ばしたが……どうにも不満気。更に何発か撃ったところで、両手を下げてしまう。
飽きた、と言わんばかりに。
【ギャギャギリィ……】
きょろきょろと辺りを見回すパンドラ。半壊した街並みをざっと観察すると、不意にある場所へと駆けていく。
それはビルとビルの間の路地裏。
いや、パンドラが目指したのはそんなあり触れた道ではない。そこに隠れていた、二人の人間だ。
【ギャギャギャリリリリ!】
弾んだ気持ちを隠しもせず、パンドラは路地裏の傍にしゃがみ込んだ。両手を煌々と輝かせ、今すぐにでも攻撃出来る状態。
それを目の前の人間二人に見せる。遠くから焼き払っても面白くないなら、近くで焼いてみよう。そう言わんばかりに。
だが、パンドラは人間を焼かなかった。
パンドラは見つめる。自分の目の前にいる二人の人間を。
人間は大人の女と、少年だった。少年は大人の女に抱き着き、大人の女も少年を抱き締める。少年は酷く怯えているようでわーわー泣いており、大人も身体を震わせている。どちらも恐怖している事は明白だ。
しかし大人の女性は、パンドラを前にしても逃げない。少年を突き飛ばす事もせず、ただただ抱き締め、そしてパンドラを睨むだけ。それどころか自分の身体で少年を庇うような立ち振る舞いをする。
人間であれば、二人が親子である事はなんとなく察せられるだろう。母親が子を守ろうとしているのだという事も理解出来るだろう。
勿論、パンドラがその手を振り下ろせば二人は簡単に死ぬ。両手から放つ光を浴びせても跡形も残るまい。ところがパンドラは何もせず、ただただ二人を見つめるばかり。あまりにも何もしない事で、親子も少しは落ち着きを取り戻す。恐怖が顔に出ているが、訝しむようにパンドラを見つめ返す程度の余裕は取り戻していた。
【……………ギ、ギャリギリリリリ】
やがてパンドラは空を仰ぐような仕草を取る。そのまましばらくじっとしていたが……やがて立ち上がると、何処かに向けて歩き出す。人間の親子に止めを刺さず、逃げる人間達を追う事もなく、悠然と。
パンドラが何を考えたのか。何を思ったのか。
それが明らかになるのは、第三次世界大戦が終わり、世界がある程度の落ち着きを取り戻した十年後の事だった。
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