第36章|砂見礼子の奮闘 <9>英験ドリルの攻防

<9>


 その日の帰宅後、私は娘のみちるの手つかずの英験用ドリルに取りかかることにした。灰原さんの息子が有名大学の附属中学校に通っている話に触発されたのもあるし、結局女が社会進出するのは簡単なことではないと感じてしまったせいもあるかもしれない。とにかく、共働きを言い訳にしていないで娘の教育に力を入れなければならない、と思い立った。


「みちる。まだ試験日まで少し時間あるから、これ、毎日5ページずつやろう」


「え~。やだよ」


パラパラと問題集を見ながら誘った私に対し、娘から返ってきたのは予想通りの反応だった。


みちるは小学生。夏休みの自由研究だって親が手伝わないといつまでも完成しないのだから、英験取得についてなんて、もちろんなんの必要性も感じていない。


ここは母親の私が粘らないといけない。普段は娘が相手だとつい感情的になってしまうけれど、今日は1on1面談をやるつもりで話をしてみることにした。


「でもね、みちる。せっかく受けるんだから合格を目指さないと、もったいないと思うよ」


「別にいいし。勝手に申し込んだのママでしょ」


「じゃあ聞くけど。みちるは将来、何になるつもりなの? 」


「決めてない。この前の農業体験は面白かったから、農家とか? 」


「・・・・・・そう。確かにお米を収穫したりするのは楽しいよね。それに1日きりだったら、嫌になってしまうこともない」


「うん。そうだね。楽しかったよ」


「けど、もし本当に仕事として農家をやるなら、稲刈り以外の日も忍耐強く、毎日、農作業しなきゃらならない。雨や嵐も来るし、虫も出る。農作業は重労働だから腰が痛くなるかもよ。それにみちるは親戚に農家の人が誰もいないんだけど、どうやって田んぼや農耕機を手に入れるの? 」


「えっ・・・・・・知らない・・・・・・」


「そうでしょう? みちるは将来、自分がどうなるか、何をしたいか、はっきり心に描けていないんだよね。だったら今は、どこに行っても通用する資格を早めに、たくさん取っておいたほうがいいんじゃない?

ねぇ、ママ働いていて思うんだけど。やっぱり女の子は、国家資格で手に職をつけたほうが安泰だよ。将来結婚して赤ちゃんが欲しいんだったら、育休や産休がちゃんと取れる職場にしたほうがいいし、あ、そうだ、絶対にクビにならない公務員もいいし、大企業の事務職なんかも・・・・・・」


「・・・・・・別にそんなの、私はやりたくないよ」


「へぇ~。じゃあ、みちるは、コメ農家の平均年収って、どのくらいか知ってる? 」


「知らない」


「小規模零細のコメ農家の収入は、決して高くないの。みちるみたいに一個も田んぼや農耕機を持っていないところからスタートするならなおさら大変。しばらくは赤字を覚悟で頑張ることになると思うよ。

農家になってお米を作るより、ちゃんと勉強をして、安定した組織に就職して、快適なオフィスで働いているほうがお給料が貰えるんだから、そっちのほうがお得だと思わない? 」


ところが、つまらなさそうに私の話を聞いていた娘は反論してきた。


「けど、お米は食事の基本じゃん。みんなが食べるものでしょ? なのに、どうしてそれを作る人が儲からないの? 」


「詳しいことはママにはわかんない。もしかしたら、お米がそこらじゅうにあふれてるからかもね。みちる、今度スーパーに行ったら、お米コーナーを見てごらん。棚にはいつも、米袋がびっしり並んでるよ。お米の数が足りなくて、買えずに大騒ぎになることなんかないでしょう。

今、余ってるくらいたくさんある物に対して、人は高いお金を支払わないし、お店も高い値段をつけられないの」


「そんなのおかしいよ! それじゃどんどん、お米作る人がいなくなるよ!? いつか何かが起きて、日本で食べるお米が足りなくなったらどうするの」


「さぁね。ああ、そういえばママが子供のころ『平成の米騒動』って言われる出来事があった。その年はお米が不作で、例年の7割くらいしか収穫できなかったの。でも結局、日本人は飢えたりしなかった。日本の農家が大金持ちにもならなかった。なぜだと思う? 

お金で外国からお米を買ったのよ。足りないものは海を越えて運んでくることができるの。それにパンや麺を食べてもいいわけだし。だから結局、なんとかなった」



――――――たしかあれは1993年のことだった。その年はちょうど「1993」という歌詞をサビにしたJ-POPの曲が流行っていた。混乱した庶民が国産米を求めて行列に並ぶ郊外の大型スーパーで、私は分厚い週刊漫画誌を立ち読みしながら親の戻りを待った。その長い待機時間のあいだ、BGMとして延々とかかっていた流行曲のサビを覚えているから、米騒動の年号も自然に記憶に残っている。



「けど、食の基本を作ってくれる人、作りたい人を大事にしないなんて、そんな国、いつかは少しずつみんなで貧乏になっていくんじゃないの!? そしたら次の米不足のときは、また都合よく、お金の力で外国から好きなようにお米を買わせてもらえるかなんて、わからないよね!? 」


「そうね。先のことはママにはわからない。ただ、とにかく言いたいのは、みちるがコメ農家を目指しても、おそらく大したお金は稼げないし、人生設計が難しくなるだろうってことなんだよ。でも、英語なら色んなことに使える。将来のためになる。だからママはあなたのためを思って、仕事終わりで疲れてるのに英験ドリルに付き合ってあげるって言ってるんだよ? 

一緒にやってあげるから、勉強しようよ。ほら、ドリルの最初のページやってみよう? 」



「・・・・・・ママの手伝い、いらない!! 英験ドリルも、やらないから!! 」




できるだけ冷静に説得したつもりだったのに。


娘は私の気持ちも知らず、そう言って別の部屋に逃げてしまった。


 

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