第36章|砂見礼子の奮闘 <4>帰宅後のモヤモヤ
<4>
「ただいまァ・・・・・・・・・・・・」
すっかり夜も更けた22時半。営業報告書を作ったり貿易事務チームの仕事状況を確認したりしていたら、結局、帰宅はけっこう遅くなってしまった。
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AM 0時。
娘のみちるの寝息を確認してから、リビングでビールの缶を開けた。
ボーッとスマホを見ている佑介に話しかける。
「今日、みちるの塾のお迎え、ありがとう! すごく助かったよぉ」
『夫婦は日頃から感謝を伝えるのが大事』というどこかで聞いた必勝マニュアルを思い出して、すっぴんで冴えない顔だと思いつつも笑顔を作って夫を称える。
「・・・・・・・・・・・・」
私の感謝に、返事はなかった。
「どしたの? 」
佑介の不機嫌な顔を見て、心の中の警戒灯が点る。
ソファに座っている彼の隣に腰掛けた。
「佑介、何か仕事で嫌なことあった? 」
夫の首に手を回して、頬にチュッとキスをした。
「・・・・・・。あ、そういえば最近、してなかったよね? 今日あたり、久しぶりに軽くやっとく? 」
わざと明るく言った唇には目もくれず。
太ももに置いた私の手は、彼に静かに振り払われた。
「・・・・・・・・・ごめん。疲れてるからそういうの、無理」
「あ・・・・・・そ、そっか」
いつか、通勤電車の中で見たインターネットのニュース記事が頭をよぎる。確か、日本にはレス夫婦がすごく多い、って書いてあった。
(・・・・・・・・・あれ。私が課長になってから、夜の回数が、明らかに減ってない?? )
「礼子ちゃん、あのさ」佑介が重い口を開く。
「えっ・・・・・・何? 」
「俺、礼子ちゃんが課長になることは賛成したし、応援もしてるよ。でもこんなに毎日帰りが遅いっていうのは、ちょっと違うんじゃないの。課長になったって、礼子ちゃんはママだろ? それに俺、定時に帰るためには同僚や上司に頭下げないといけないの知ってるだろ。こっちもそろそろ会社で気まずくなってきてるんだよ。礼子ちゃんが働いてくれたら家計はすごく助かるけど、家庭もおろそかにはしないでほしい。今までみたいに夫婦で役割分担して、ちゃんと育児もやっていこうよ」
「え・・・・・・・・・・・・・・・」
――――――あなたの給料、私より少ないじゃない。家計が助かる、じゃなくて、
――――――ねぇ、『名もなき家事』って知ってる? 佑介は気付いてないかもしれないけど、お迎えをやったくらいじゃ、全然私から見たら半分じゃないし、満点じゃないんだよ。今日だって帰宅したあとみちるにずっとタブレット見せて時間稼いでたよね?
――――――ていうか、育児をまったく
浮かび上がった疑問と反論は、どの言葉も鋭く彼を傷つける要素が満載すぎて、口には出せず私はビールを飲んだ。ここで強く言っちゃダメだ。そう思った。
「う。うん・・・・・・ごめんね。実は私も最近、家庭のことが後回しになってて本当に申し訳なく思ってる。でも、もうちょっとで仕事も一段落するから、そしたら私も定時に上がれるように、会社に交渉するよ! だからあと1ヶ月、いや、2週間くらいだけ助けてほしいのよ。お願い! 」
私は顔の前で手を合わせた。
「・・・・・・わかったよ。もうちょっとだけなら、俺も頑張る」
良かった。佑介はとりあえず納得してくれたようだ。
「うん! 」
「・・・・・・・・・じゃあ、もう寝るわ。礼子ちゃんも早く寝なよ」
「うん! おやすみ~」
・・・・・・・・・・・・。彼が立ち去ったあとのリビングで、頭の中を色んなことがぐるぐる回った。
ビールのせいか、疲れのせいか、考えがまとまらない。
会社の神棚。思わぬ出世。中間管理職の悲哀。
高ストレス者。高ストレス職場。産業医との面談。
他の会社の人事の人と知り合って、ストレスチェック後の職場改革について話したこと。
私なりに頑張って、営業チームと貿易事務チームの壁を取り払おうと提案したこと。
みちるの進路。みちるの将来。日々の家事。
秋葉原で見た若い女の子の社長としもべのオタクたち。
灰原さんの言動。夫との夫婦関係。
「ハァァ~・・・・・・・・・いろいろ、ゴチャゴチャするわぁ」
またしても私は、かつてのつらかった不妊治療のことを思い出す。
――――――タイミングを見て、排卵日の二日前くらいから集中してご主人を誘ってみてください。
体外受精をする前に、タイミング法で子供を授かろうとしていた頃、主治医にそう言われた。
――――――
実際、佑介は、排卵日が近づくと敏感にそれを感じ取ってしまい、ぎくしゃくしてうまくいかないことが多かった。
それを思い出すと、なんかムカついてくる。
オンナの人生は、前提条件がある日突然、変わるから難しい。
一本道じゃない。ゲームチェンジがやってくる。
女子高生くらいまでは、男は狼、身体を気軽に許すな、妊娠したら困るぞ。とか、男女は平等だ頑張れ、とか言われてきたのに。
20代にもなると、経済力と将来性のある男の人に
そして適齢期に結婚したら、案外すぐに妊娠の限界年齢が近づいてくる。
そうなるとさも当然のように「繊細なご主人のプライドを傷つけずにうまく
それで子供が生まれると今度は、「職場に迷惑をかけないで」「家庭をおろそかにしないように」とメッセージを送られる。ん? 私、出産と乳飲み子の世話で満身創痍なんだけど、男女平等の社会参加、どこいった?
同時に『男は同じ女の身体にはいずれ飽きてしまう生き物でぇ~』『子供を産んだ妻を、もう女としては見れなくて~』とかいう、謎の言い訳も聞かされるようになる。オイオイ、ずいぶん都合のいい話だな?
教えられる『頑張れ』の方向性、『女ってこうあるべき』が、しょっちゅう変わる。
変わりすぎて時々、ついていけない気持ちになる。
というか、そもそもこの社会は最初から女に対して二枚舌なのだ。
古くは『処女懐胎』とか、ちょっと前は『昼は淑女で夜は娼婦』とか、最近だと『職場では男に負けず活躍して社会貢献、家庭では安定した精神で家族を支える、癒やしの良妻賢母』とか?
そういう、キメラの二重人格者みたいな、ケンタウロスみたいな生き物を演じるのは、よっぽど体力があって器用な女じゃないと務まらないので、できる限りは応えたいけど、無茶な期待はやめてほしい、と思っている。
(あ~・・・・・・もう、どうでもいいや。考えるのやめよう・・・・・・)
・・・・・・・・・・・・私の悪い癖で、また考えすぎてしまった。
どうせ私は、喧嘩しても佑介を愛しているし、娘のみちるのことだって自分の命より大切に思っているのだ。それに、典型的な女のジェンダーに従ってここまで生きてきて、平凡なりにそこそこ幸せに暮らしているのは間違いない。
だから佑介が耐えられないと言うのなら、会社のほうに譲歩してもらうしかないだろう。
いざとなったら課長職を降りて、また非管理職の一担当に戻らせてもらうとか。給料が少し下がっても、残業のないホワイトな会社に転職しちゃうとか・・・・・・。
(そうなったら、ますます節約かぁ・・・・・・。ヴァンクリのピアスなんて、夢のまた夢になっちゃうな)
(私がガッツリ働いたほうが、稼げる気がするけど。それは佑介のプライドが許さないんだろうな)
「惚れた弱みは、つらいねぇ~・・・・・・」
ソファに寝転がって、スマホの中にあるボーイズラブのマンガを開いた。
私は完全なる異性愛者だけれど、ボーイズラブ、通称BLのマンガをたまに読んでいる。
女の大半は男が好きで、でも事実としてゲイの恋愛を描いたBLものは、主に女性の読者によく売れている。
BLの世界には、恋愛対象となる女が登場しない。せいぜいいても、恋の当て馬役の女とか、サバサバした姉御系の女とかが多い。
もしここに主役級の女の登場人物が出てくると、リアルの自分と主人公の女の差分が雑音になって入ってくる。愛される女の条件ってやっぱりこういうのなんだ? みたいな邪念が生まれると、没頭して恋愛話を楽しめない。男しかいない世界のおとぎ話なら、女の苦しさや社会通念は、蚊帳の外に置いて読める。
それにBL作品の中の『攻め側男子』は、大抵、10代並みに精力旺盛だ。
恋愛の一番楽しいときを過ごしているBLの王子様は、(そもそも恋愛対象が女じゃないけど)排卵日に迫られて怖じ気づいてしまったり、年老いたマンネリの妻に対して『妻だけED』を発症してしまったりすることがないし、夫より早く出世した妻に内心コンプレックスを抱いてしまうおそれもない。
私にとってBLは、韓流ドラマよりも恋愛リアリティショーよりもさらにお気楽で、自分を空っぽにして楽しめるポルノなんだと思っている。
(あーあ。『オタ・オタ商事』の女社長がセクハラっぽくからかわれてるのを聞けば不愉快だし、気乗りしないときに夫を立ててヤってこい、って言われてもムカつくんだけど、好いた夫に女として見られないのは、それはそれで嫌だ、っていう・・・・・・我ながら女心は複雑なんだわ・・・・・・)
明日もまた仕事だ。色んな面倒はさっさと忘れて寝よう。
ビールの缶を台所に置いて先に歯磨きしちゃおう、それから布団の中でBLマンガ読んですっきりしよう。
フーッ、と溜息をついて、ソファから立ち上がった。
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