第30章|貿易事務 砂見礼子の困惑 <6>管理職のサービス残業 その4
<6>
そろそろ帰ろうかと会社の自販機コーナーに行くと、普段のデスクと違う場所で同僚の営業課長、灰原さんがまだ仕事をしているのが見えた。周囲に小澤部長の姿はない。
「お疲れさまです」声をかけた。
「おう」灰原さんが顔を上げた。節電で一部照明が落とされたオフィスで、PC画面の明かりに照らされた灰原さんの顔が青白く見えた。「砂見さんこんな時間まで残業? 子供大丈夫? 」
「はい、今日は夫がみてくれてるので。灰原さんこそこんな遅くまで? 」
「俺はずーっとこうだからね。家族も慣れてるよ」彼はPC画面に視線を戻した。
「あ、そうだ。あんまり残業が多くなるようなら、組合でストライキとかして、人を増やして欲しいとか、給料増やして欲しいとか、会社に交渉ってできないんですか? 灰原さんってこの前まで従業員組合の代表してましたよね? 」
先日早乙女さんとの1on1で言われた話や、残業時間を減らすようにと上層部からお達しが出ていたことを思い出して聞いてみた。
「へへっ。馬鹿言うなよ」灰原さんが辺りを見回した。「組合なんて、名ばかりだよ」
「港湾関係の労働組合とか、待遇改善求めてしょっちゅうストライキやってるじゃないですか」
特に海外で、港湾労働者のストライキは珍しくない。
彼らが一斉にストをすると、コンテナ船の運航スケジュールにも大きく影響する。
私たちの仕事はそういうことにもよく振り回されている。
「あのなぁ・・・・・・。ストっつーのは、組織の一致団結や強力なバックが無いのにやったって、なーんの意味もないんだよ。俺は会社から指名されて組合長になって、サブロク協定の書類にサインしただけ。交渉権なんてあるわけないだろ。
そんで今は課長になって、特に追加された権限もないまま、こうして毎日サービス残業してる。哀愁漂う下級管理職ってやつだな」
「サービス残業してるんですか? それ、よくないですよ」
「あー。そっか。砂見さんは知らないのね」
灰原さんが両手を頭の後ろに当ててこちらを見た。
ネクタイが風に吹かれたように斜めに張り付いている。
「俺たち管理職は、残業代って出ないのよ。だからいくら残業してもサービス残業と一緒なんだよ。俺、課長になってからもらえる給料が下がったんだ。砂見さんもそうなるかもよ」
「えっ・・・・・・・・・!!? 」
課長になってからの給料はまだ支給されていないけど少し期待はしていた。
管理職手当と、残業代・・・・・・・・・。
出世して給料が増える分、思い切って買おうかなと思っていたヴァンクリのピアスが、手の届きそうな場所からすうっと遠のいていくように感じた。
「ま、砂見さんはあんまり無理すんな。課長になったからって母親が仕事に没頭しすぎたら、家庭が崩壊する。いざそうなった時、会社は責任なんか取ってくれねーのよ? さァ、喋ってないで早く帰れ! 」
灰原さんはシッシッ、と追い払うようなジェスチャーをして、私の返事も待たず、再びPC画面に視線を戻した。
―――――母親が仕事に没頭しすぎたら、家庭が崩壊する・・・・・・
―――――会社は責任なんか取ってくれない・・・・・・・・・
灰原さんの言葉が、私を蹴落としてやろうという悪意から出たものには思えなかった。
むしろ私自身の不安を見透かされたように思えて、何も言えず会釈してその場を立ち去った。
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