第30章|貿易事務 砂見礼子の困惑 <4>管理職のサービス残業 その2

<4>


 体外受精に何度チャレンジしても妊娠という成果が出なかったとき、医師からはさらに高額な費用がかかる追加検査を勧められた。


アメリカなどでは当たり前に行われている検査で、そもそも赤ちゃんにはなれない異常な受精卵をあらかじめのぞくことができるため、女性の時間的・肉体的負担を減らして妊娠率を上げることができ、医学的にも有用な検査と説明された。


ただ、それをやるとひと月の支払いが80万円にも達する計算だった。

既に何回も体外受精を行って数百万円を使い果たしていた私は、その話を聞いたとき、金銭的にだけでなく、精神的にも破綻寸前まで追い込まれていた。


そんなオプションがあるならなぜまだ資金に余裕がある時に教えてくれなかったのか、と泣いた。



体外受精では、女性の身体から卵子を取り出して、文字通り体外で受精卵を作る。

普通は女性の卵子は約一ヶ月にひとつしか成熟しない。

弱いホルモン剤を使うと、育つ卵子が2-3個に増える。

強いホルモン剤を使うと、育つ卵子が8-10個くらいまで増える。

育った卵子は、女性の身体に針を刺して取り出す。


取り出した卵子に精子を混ぜるか注入するかして受精卵を作り、さらに体外で培養する。

その時点で、受精しないもの、受精しても5日目ほど経過するうちに育たなくなるものが出てくる。

育たない卵は廃棄される。


体外で受精5日目まで順調に培養できる卵は、よくても採ってきた卵の半分くらい。

夫婦どちらか、または両方が高齢化していると、採れる卵、育つ卵の確率はもっと下がる。


作った受精卵は、体外ではあまり長く育てられないので、最大で5日間ほどまで培養したらいったん凍結して保存することが多い。そして性周期に合わせたタイミングをみて女性の子宮に戻す。無事に子宮に定着して発育すれば、受精卵は育って赤ちゃんになる。



日本は、不妊治療大国と言われている。


なんらかの理由で不妊を心配したことがある夫婦は39.2%で、夫婦全体の約2.6組に1組の割合。

実際に不妊の検査や治療を受けたことがある夫婦は22.7% で、夫婦全体の約4.4組に1組の割合。

既婚者同士で話をしていると、実はうちも・・・・・・という話題になることは全然珍しくない。


そんなに患者が多いのに、日本の不妊治療の成功率は世界的に見ても、非常に『低い』。


インターネットなどを見ると、、という説明がよくされている。

ただ、それだけではないと思う。たぶん、日本の不妊治療の特殊性も背景にあるはずだ。



たとえば日本で一番有名な体外受精クリニックは、基本的にホルモン剤を少量しか使わない。

薬量が少なく自然に近い環境での採卵というメリットはあるけれど、一ヶ月に採れる卵がせいぜい2-3個、そこから子宮に戻せる受精卵まで育つのが0-1個以下ということになると、回数と治療費がかさんで妊娠という結果が出ない人も増える。


それに私が医師から薦められた受精卵検査も、日本では規制があり、何度も体外受精に失敗した患者が厳しい条件を乗り越えないとやらせてもらえない。この検査は、子宮に戻す前に、受精卵が染色体正常か異常かをを調べる検査だ。


実は順調に5日目まで育った受精卵も、すべてが赤ちゃんになれるものではない。

顕微鏡を使った目視では正常に見える受精卵にも、かなりの確率で、発育途中で死んでしまう染色体異常の卵が含まれている。


つくられる過程で染色体の本数が多くなりすぎたり一本抜け落ちてしまったりした受精卵は、健康な赤ちゃんに育たない。

個人差はあるけれど、女性が40代になると、体外受精で作られた5日目受精卵のなかで正常な染色体を持つ卵はおよそ20%以下しかないことがわかっている。


アメリカなら、患者が希望すれば、一回目の体外受精から正常な受精卵を選んで女性の子宮に戻すことができる。でも日本ではいきなり受精卵の検査をすることが許されていないため、受精卵の見た目で判断するしかない。見た目の綺麗さと中身(染色体)の正常さは必ずしも一致しない。最初に選んだ受精卵は、見た目だけいいハズレ卵かもしれない。


染色体異常の卵の大半は、子宮に戻しても着床しないか、または妊娠初期に流産する。

週数が進んでから流産すれば追加処置が必要だ。

流産が女性の心身に与えるダメージは凄く大きい。

そして流産すると、次の不妊治療開始まで一定時間を空ける必要がある。

ただでさえ時間との戦いになる不妊治療で、休止期間は大きな痛手になる。



こういう背景も、日本の不妊治療が成績不良な一因ではないかと思う。



不妊治療では不自然な方法で子供を作ろうとしているのだから、治療の各段階で行う医療操作に未知のリスクがあるのは当然のことだ。できるだけ自然に近い形で保守的に治療をするべきという意見もわかる。


ただ、アタリかハズレかわからない受精卵を1個ずつブラインドで子宮に戻すようなやり方は、主に女性患者にとって負担になりうる。女性が働いていれば、治療期間の長期化で職場との軋轢もかさんでいく。

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