第30章|貿易事務 砂見礼子の困惑 <2>派遣社員の飛石さん
<2>
次の日の昼休み、私は新しく来た派遣社員の飛石さんに一緒にランチでもどう、と声をかけた。
飛石さんは先日のストレスチェックも受けていないし、会社に馴染めているかさりげなく聞き出そうと思ったのだ。
一緒に外に出て、お弁当を持参している飛石さんに合わせて私もコンビニでお昼ごはんを買って場所を探した。ところがこの辺は会社が多くて、昼のコンビニレジは大行列で、それだけで飛石さんをしばらく待たせてしまったのに、東京のど真ん中には大人が自由に座ってご飯を食べられるような場所もなく、結局二人でオフィスに戻ってくることになってしまった。
さりげなく腕時計を確認した飛石さんを見て、要領の悪いデートに付き合わせてしまった男の子のような気分になり、ばつの悪さで胃がキリキリした。
周囲に人がいない場所を選んで座る。
やっと落ち着けたと、お互い食事を始めた。
飛石さんは地味なカジュアル服とマッチした、唐草文様のランチョンマットを開いて、茶色で彩られたお弁当を食べている。
「うちの会社のお仕事、どう? 何かわからないことがあれば聞いてね」私は野菜ジュースの紙パックを吸った。
「あ。はい。まだまだ、私は分からないことばかりで・・・・・・」
「飛石さんは前、商社で働いていたんでしょう? 貿易事務は一通り経験しているっていうから是非活躍してほしいって、みんなすごく期待してるの」
「それは違くて・・・・・・。私、普通の一般事務しかやっていなかったんです。正社員の人から言われた封筒をポストに入れるとか、届いた郵便物の仕分けとか、電話の取り次ぎとか」
「えっ・・・・・・・・・・・・? でも、貿易実務検定の資格があるって聞いてるよ・・・・・・」
「それは・・・・・・はい。貿易実務検定、ビジネス文書検定、秘書検定、医療事務・・・・・・他にも色々持ってます・・・・・・。事務系の派遣でやっていくのに、資格取らないと差別化できないじゃないですか。国の補助制度もありましたし、とにかく取れる資格は取りたいって、手当たり次第に講座受けて、何回か受験したら合格したんですよ。私、直前の詰め込み暗記はわりと得意みたいなんです。でも実際の貿易事務の経験は全くないんです。ぶっちゃけちゃうと」
「それ、面接でも言ったの? 」思わず語気が強くなった。
先日から社員が社内ツールの使い方などを説明しているときに、飛石さんがうなずきながら話を聞いているものの、どこかボーッとしているので不思議な感じがしていた。ITが苦手なのかなと思っていたが、そもそも社員が説明している内容が分かっていなかった可能性が高い。
「はい、何度も言いましたよ。私は貿易関連の実務については、まだまだ分からないことばかりです、だから勉強させてくださいって・・・・・・」
「そ、そうなの・・・・・・。そういえば、飛石さんは結婚してるの? 」
もしかするとご主人や子供がいて、生活費には困っていないけれど、片手間で仕事をしてみたいというタイプかなと思って訊いた。
「いいえ。独身です。でも我が子と同じくらい可愛がっている犬がいて。この子です。見てください、可愛いですよね」
飛石さんがスマホの待ち受け画面を見せてくれた。そこには黒白模様で耳の大きな子犬が写っている。
「うん。可愛い。なんていう犬種? 」
「『チワックス』です! チワワとダックスフントのミックスなんです! もう毎日、帰るのが楽しみで楽しみで・・・・・・この子に新しいリードを買ってあげたいとか、おやつを買ってあげたいっていうのが私の働くモチベーションなんですよ。他にも、ほら! 」
飛石さんは興奮して、どアップの姿、服を着せられている姿、飛石さんに抱っこされている姿など、何枚も飼い犬の写真を見せてくれた。確かにチワックスは愛らしい見た目をしている。
「それで、できるだけこの子と離れたくないので、私、残業は一切できないのでよろしくお願いします。この子、すごく寂しがり屋さんなんです。人間の子供と違ってワンちゃんには保育所もないし・・・・・・私がいない間のことを思うと胸が締め付けられます! お子さんをお持ちの砂見さんなら、この気持ち、わかりますよね? 」
飛石さんの突然の主張に、私は思わずハ、ハィ。と低い声でうなずいたけれども、内心では火山が爆発する寸前のような怒りを感じていた。
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「部長! どういうことですか。飛石さんが貿易事務の実務未経験だなんて知りませんでした」
できるだけ平静を装ったけれども、少し声に怒気が混じってしまった。
「そうなの? でも僕は派遣会社から、謙虚な人柄だからそう言ってるけど、真面目だし実際の仕事はよくできるから大丈夫、って聞いたんだよ」
「派遣会社にだまされているということはありませんか」
「わかんないけど・・・・・・。でもまぁ飛石さんも新人なわけだからさ。基本的なことでも一から教えてあげれば、覚えていくんじゃない? 砂見さんだって完全未経験でうちの会社に来たけど、今じゃ主力メンバーに出世したんだから」
「それは、そうですが・・・・・・」
一応私は、この人に課長にしてもらった、と思い出してシュンとなった。
でも、小澤部長は知らない。先輩であり、先日退職してしまった崎田さんが、最初の数ヶ月は完全張りつきになって私に一生懸命仕事を教えてくれていたことを。
それにあの頃はパンデミックの影響で、コンテナは常に予約でいっぱいで、一度輸送枠をキャンセルするといつ次に荷物が送れるかがわからない状況だった。お客さんよりも我々の立場が相対的に高くなっていて、会社の収益もとても多かった。だから崎田さんにも、私を育てる時間的な余裕があったのだ。今とは状況が違う。
「わかりました。しばらくは私が仕事を教えます・・・・・・」
仕方ない。
私は管理職だから、仕方がない。
でも前途多難だ。そう思った。
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