第29章|誰も知らないふたりの話 <5>川瀬花蓮と海へ行った朝(鈴木風寿の回想)

<5>



 風の強い日だった。



もう消えてしまいたい、という気持ちが高まるにつれて、俺はどうやったら人に迷惑をかけずに死ねるかを毎日、具体的に考えるようになっていた。飛び降りは死体の処理で人の手を煩わせる。死ぬとしても飛び降り自殺はしないつもりだった。ところがその日は、精神科外来の帰りに病院の屋上に行ってみたら、衝動的にフェンスを登りたくなってしまった。


どんな景色が見えるのだろうか。


落ちたらひと思いに死ねる高さなのか。


ちょっと見てやろうと足をかけると、フェンスの金網が、俺の体重で儚くたわんだ。それまで、死にたいという気持ちは誰にも話していなかった。いざとなったら本気で実行するつもりだったから、完遂するためにこそ、誰にも希死念慮は悟られてはいけないと思っていた。


しかし足をかけて登りかけたところで、逆に、誰かに止めて欲しいと思っている自分に気づいた。あと一歩。あと一歩。今日はまだ、死ぬ予定ではなかったはずが、順調にフェンスを乗り越えてしまえば、そのまま地面に吸い込まれてしまいそうで怖くなった。



「君! 何しているの」

後ろから女性の声がして、振り向くと医師らしき白衣姿の女性が立っていた。

「ここ、たまに自殺者が出る場所なんだよね。飛び降りて死んじゃう人もいるし、死に損ねて大学病院の整形外科に入院する人もいる」



「……死のうと思ってないです」反射的に嘘が口をついて出たが、彼女は俺の言葉など、意に介していない様子だった。



「あたしね、ここから見る景色が好きでさ。時々診療とかサボって、ここに来るんだ。君、教授の患者さんだよね? たしか医学部の学生さん……。教授診察の陪席で見たことあるよ。あたし精神科で修行中の医者なの、川瀬花蓮って言います」彼女は胸の名札を軽く見せた。



「はぁ……そうでしたか」


確かに大学病院では、教授診察の際に後ろに若い医師が同席していることがあった。彼らは神妙な面持ちで教授と一緒に患者の話しを聞き、カルテを書いたり、うなずいたりするのだ。その中に彼女がいたのかもしれない。


川瀬花蓮はフェンスにもたれかかった。顔立ちの綺麗な女性だった。風が彼女の柔らかそうな髪の先を揺らした。


「君、心の病気になって長いの?」


「大学に入ったあとに精神の調子を崩して………、もう4年くらい………」



同級生には言えなかった身の上話もさらりと話せてしまったのは、彼女が精神科医だからか、それとも俺はもうすぐ死ぬつもりだったからか。



「ふーん。そっか………」


大変だったねぇ、と言いながらも彼女は呑気な様子だった。しょせん他人事なのだろう。しばらく話した後で時計を見て、「あ、もうカンファレンスの時間、行かなきゃ」と呟いた。


「どうぞ。行ってください」


薄っぺらい口先だけの同情は聞き飽きていた。これまで皆、そうだった。哀れな、様子がおかしい俺を見つけて、声をかけてくれる人は沢山いた。話を聞いてくれるクラスメイトや先輩もいた。だがそれはいつも表面的で、好奇心と隣り合わせだった。俺の話をひとしきり聞いたら、彼ら彼女らは立ち去っていく。“大変だね。じゃあ頑張って”と言い残して。



「そうね……」川瀬花蓮もそう言って、屋上のドアに向かって歩いていった。だがそのあと振り返って彼女は言った。


「ねぇ、あなたどうせよく眠れないんでしょう? 明日の早朝、君の家まで車で迎えにいくから、ちょっとあたしに付き合ってよ。名前と電話番号教えて。どこに住んでるの? 」



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 翌日の午前4時すぎ、本当に川瀬花蓮は俺のアパートにやってきた。


「あ、おはよう。今アパートの下に来ているんだけど、降りてこられるかな? あたしさ、サーフィンするのよ。これから一緒に行こう!」


「はぁ……」


携帯電話から聞こえる声に、この人はいきなり何なんだという不可解な気持ちと、一応は目上に当たるであろう人に約束通り家まで来てもらったのに無下に断るのは申し訳ない、という義理のような感情が混じり、仕方なく顔を洗って部屋を出た。


彼女が乗って来たフォルクスワーゲンには、でかいサーフボードが載っていた。促されておずおずと助手席に乗り込んだところ、車中は潮の匂いがし、座席は汚れていて、足元のゴムシートは砂だらけでジャリジャリした。



 空腹だからコンビニエンスストアへ行こうという彼女の提案でコンビニに寄り、それから海へ向かった。俺は財布を忘れていて何も買わなかったが、車の中で「あげるよ」と川瀬花蓮が三角にビニールで包まれたおにぎりと野菜ジュースをくれた。


車を30分ほど走らせると、海岸近くに到着した。薄暗い海辺の駐車場に車を停めて「今日は良い波、来そうだね~」と浮かれている彼女を見て、俺はどうリアクションしていいかわからなかった。サーフィンなんてしないし、川瀬花蓮のこともよく知らないし。



 不意にボツボツと途切れるFMラジオの音をBGMに、車のフロントガラスの向うにある、まだ夜明けになりきらない空を眺めながら、コンビニで仕入れた朝食を摂り、静かに二人で話をした。出身地とか、部活とか、好きな科目とか。川瀬花蓮は大学の先輩だったらしい。卒業後そのまま、大学病院の精神科で働いていると言った。「風寿くん、今朝もう死んでたらどうしようと思ったけど、まだ生きててよかった」と笑われて、俺は黙った。



「さて、そろそろ行こう。すぐそこ浜辺だから」


サーフボードを抱えた彼女に強引に連れられて、足元の悪い道を、海岸まで下りた。


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