第23章|人生ゲーム <17>帰省(折口勉の視点)

<17>


 俺は今、和歌山の実家に帰省している。一時期は仕事をクビになって実家に引っ込むことまで想定していたが、幸い(?)、まだ『シューシンハウス』で働き続けているため、有給休暇をとってきた。



実家では、母が毎日の食事を作ってくれる。父が、静かに無言で味噌汁を飲む。 

父はけっこうな大酒家だったはずだが、実家にはビールの一本すら置かれていなかった。


「あなたがひどい状態になったって聞いて、お父さんも願掛けで、お酒やめたのよ」と母は言った。



俺が子供の頃、大きく堂々としていた父の背中は、丸く、小さくなった。

「こっちでやるから休んでて」と言いながら母は、以前よりゆっくりと動いて、その日の家事をなんとか済ましている。



俺の実家は大したことがない。きわめて地味な田舎の一軒家だ。

俺はいつも貧乏くさい親父や、この実家や、閉鎖的で遅れた田舎町が嫌いだった。

  

それでも最近は、家族との楽しかった出来事を次々と思い出す。

何十年も思い出すことがなかった記憶なのに、である。


(スイカ割り。運動会のかけっこ。初めて買ってもらった自転車。)

(カブト虫を取りに行って、超特大サイズのやつを見つけたこと………。)


 

両親は俺と姉をしっかり育て上げてくれた。

学歴など高くなくても、特別な金持ちではなくても、両親は普通の人生を、まっとうに一生懸命、生きていた。

今はそれだけで、十分にすごいことだったんだと分かった。

そう思えるようになっただけ、俺は本当の意味で大人になったのかもしれない。

  


 俺が精神科病棟に緊急入院した日は、ちょうど父方の祖母の七回忌だった。入院のしらせを聞いた母と姉は、年忌法要の参加をキャンセルして、揃って東京まで駆け付けてくれた。母に誘われ、ばあちゃんにまで迷惑をかけてしまった事のお詫びがてら、裏山に墓参りに行くことにした。



墓石には祖母の名が刻まれている。『富子』と。



「そういえばさ、ばあちゃんって、なんで“富子”って名前なんだろうな……うちのご先祖様が貧乏だったんやろか?」


「違うわよ。おばあちゃんの名前は、あなたのひいおじいちゃんがつけたの。

“富とは命、命は富だ……”っていうひいおじいちゃんの座右の銘が、名前の由来だそうよ。ひいおじいちゃん、あなたは会ったことないよねぇ。ずいぶん子煩悩な人だったらしいわよ」母が穏やかに笑った。



「……『富とは命』……? 」脳裏にを感じた。



「ひいおじいちゃんは戦争も経験した世代だからねぇ。命の大切さも身にしみてたのかもしれないわね。でも確かにそうよね。だってあの世にお金なんて持っていけないし。命がなければ、そもそもお金も財産も何も、ありゃしないもの。ほんと、健康と命が一番大切よ」


「なぁ…………。俺のひいじいちゃんって、なんの仕事してた? 」


思わず、身を乗り出して訊いた。まさか………。


若洲エリアをさまよっていた時、幻覚の中で見たものを思い出す。

あの日、出会った老人が持っていた、ボロの、分厚い布製のテント。垢抜けないリュック。

そして、軍靴。


「なんだっけねぇ……。ああそうだ」母がぽんと手を叩いた。

よ。修験道で大峰山に登るお客さんの手伝いをしてたんよ。今は奈良県から登るルートのほうが人気あるらしいんやけど、昔は和歌山側から山頂に登る道のほうが人気で。ひっきりなしに登山客が来てたから、けっこう盛況だったらしいよ」



「富とは命……、命は富………」



俺は、若洲での出来事を鮮明に思い出した。

 

一瞬、オレオレ詐欺的な感じで、老人をカモにしてやろうかと思ったこと。

そして、老人が隣にいる間、どこか心が穏やかだったこと。



―――――「富をやる」老人には、そう言われた。


ところが老人の言う通りにしたあとも、俺の銀行口座に金は振り込まれていなかった。

仕事で大型契約がいくつも取れたわけでもなかった。


だけど、もしもあの時、あの老人に出会わなかったら?

若洲でのビラ配りをあきらめて、自分の部屋に帰っていたら?

精神病院に、緊急入院していなかったら…………?


俺は今日も朝から酒を飲んで、

気付かないうちに、自分の一番大切な『富』である命を、

いたずらに溶かして過ごしていたかもしれない。



****************************


 俺の子供部屋は、田舎の一軒家の中で、時が止まったように、何十年もそのままの状態で残されていた。小学校入学の時に買ってもらった勉強机も、時おり母に掃除の手を入れられて、まだまだ使える状態だ。


その部屋の本棚の横に、古びたボードゲームが置いてあった。『人生ゲーム』。

何回も遊ばれて千切れそうにボロボロになっている箱をそっと開けた。


厚紙製のすごろくの台紙にはカラフルなルーレットが装着されている。一般的なすごろくのサイコロの代わりになるものだ。


プレイヤーが使う、プラスチック製の色褪せた自動車……

プレイヤー自身の代わりとなる、棒人間……。自動車に刺してにする。


皺くちゃになった、おもちゃのドル紙幣……。子供の頃は、このおもちゃのお金が妙にかっこよく見えたものだ。



部屋に窓から、赤い西日が射しかかっている。

背中に日光があたり、寒さの中にぽっと小さな温かさが灯る。


今、俺は、他のプレイヤーに見せびらかすことができる分厚い札束など、持っていない。

大きく立派な持ち家もない。

子供も持たない。隣に座る配偶者もいない。


典型的な、資本主義人生の負け組のようである。



………でも、俺の手の中には、まだ富がある。


この世に生まれて最初に与えられた富。

この世を去る最後の瞬間まで手放さずに持っていられる富。


この富がある限り、俺は、もう一回、もう一回。何度でもルーレットを回すことができる。

自分の道を探し、迷いながら、進むことができる。



窓の外を見た。

緩やかに描かれた稜線のカーブを、去りゆく太陽が強く照らしている。

落日の時刻にだけ見える、透明感あるオレンジ色のベールをかけたような故郷の山々と、夕日に輝く雲。

ただ当たり前のように日々そこにあった風景さえ、見方を変えればなんと美しいものだったのだろう。



「ひいじいちゃん………。あの時、俺のこと守ってくれたんやな。助けてくれて、ありがとう……」


押し寄せる感情に胸ぐらを掴まれたように喉がつかえる。鼻先がツンと痛み、両目にじんと熱いものがせり上がってきた。



子供部屋でひとり、天に向かって震える両手を合わせていた。


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