第8章|右肩上がりの市場価値 <9>メンタル不調社員はめずらしくない?

<9>



――――『株式会社E・M・A』の事務所に戻った。



「鈴木先生……、メンタル不調になる方って、想像以上に多いんですね。“心の病気”で通院や入院をしている人たちが、日本人のおよそ『30人に1人』もいて、生涯を通じて『5人に1人』が心の病気にかかる、なんて……知りませんでした」



「そうですね。働きながら、仕事のストレスや心の病気に悩んでいる人は、実はとても多いのです。

2021年の厚生労働省『労働安全衛生調査』では、労働者の半数以上が“仕事や職業生活に強いストレスがある”と回答しています。

また、メンタル不調による休職者発生状況について、企業対象に調査した結果は、このようになっています」


鈴木先生が表を見せてくれた。


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~過去1年間にメンタルヘルス不調により

連続1カ月以上休業した労働者がいた事業所の割合~


全体: “8.8%”

事業規模1,000人以上:“92.5%”

事業規模500~999人: “77.0%”…

事業規模50~99人: “22.1%”…


(2021年 厚生労働省『労働安全衛生調査』)

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「けっこう多いですね……」



「はい。体感としても、産業医の業務のうち、メンタル不調者への対応が年々増えていると感じます。この厚労省調査では、事業所規模が小さくなるごとに発生率が低くなってはいますが、この理由については色々な推測ができます。

事業所規模が小さくなると、単純に人数比での発生確率が低くなることもあるでしょうが、社員数が少ない中で自分のメンタル不調について相談しにくい、メンタル不調者へのケア体制が未整備である、といった理由も考えられます」



「もし契約先企業でメンタル不調者が発生したら、産業医や保健師は何ができるのでしょうか」



「ひとつには、中立な立場でのヒアリング、でしょうか。会社側と従業員は、対等な関係にはありません。特に仕事のストレスが原因で心の調子を崩している場合、不調者が上司に正直な気持ちを話せるとは限りませんので、産業医や保健師が緩衝材となる役割があります。また医学的な知識と、職場状況を前提に話を聞くことができるので、その人にとって必要なケアを、提案しやすいメリットがあります」



「えっと……でも、話を聞く、というと、友達や患者さんのつらさや、愚痴を聞いてあげるような経験しかないんですが……」



「確かにそういった意味での“話を聞く”も有用です。誰かに話すことは、それだけで癒し効果がありますからね。ただし、漫然と話を聞いているのでは素人と同じです。既に看護師として学んでおられると思いますが、『傾聴』のスキルが必要です。それに」

鈴木先生がPC画面に図を出して見せた。

「産業保健の業界では、このような『NIナイOSHオッシュの職業性ストレスモデル』という有名なモデルが用いられています。

産業医や保健師は、相手の気持ちを聞き受け止めること、信頼を得ること、それと同時に、不調者が話している内容が、このモデルに当てはめるとどのような構造にあるのかを分析すること。そして最終的に、解決策をご提案できるところまでいって一人前です」



「NIOSHの職業性ストレスモデル……勉強します」



――――このモデル自体はそれほど複雑なものに見えない。


『仕事上の要因』(仕事量や質、人間関係など)をうけて、ストレスがかかると人体に『急性ストレス反応』(心理面、体調面、行動面の変化)がおきて、やがて『ストレスに関連した病気や作業能率低下』が生じる、……という一連の流れが書いてある。

この流れに影響を及ぼすものとして、仕事以外の要因や年齢・性別・性格といった『個人要因』、上司・同僚・家族からの支援などの『緩衝要因』がある、と……。


このモデルが示している内容は、しごく当たり前のことに思える。


ただ、面談ってライブセッションだ。相手からどんな反応が来るかわからない中で、このモデルを頭の中で参照しながら、自然に会話を勧めるのって……技術がいりそうだ。



「もっとも、今日の江鳩さんは、まだまだ本心を話してくださっているように思えませんでしたけどねぇ……」鈴木先生が、アゴに手を当てて思案顔をした。



「私は……江鳩さんが、『ジュリー・マリー・キャピタル』と言うときに、手が震えるのが気になりました。『X社』の話をしているときは、そんなことなかったのに……」



「いい視点ですね。僕も“『ジュリー・マリー・キャピタル』が入っているこのビルに近づくと、吐き気が起きてしまう”……という、江鳩さんの言葉が気になりましたよ」



せっかく頂いたご縁。



少しでも江鳩さんが元気になれるよう、私もお役に立ちたい。




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