第3章|駆け出しの産業保健師 足立里菜 <2>吉田弁護士と高根雅人の会話

<2>


 いつも我々が打合せに使っている、チェーン展開の某喫茶店に行くと、既に到着している吉田弁護士の後ろ姿が見えた。



「吉田先生」


「やあ、高根くん、こんにちは、どうも」

俺の声に気付き、振り向いた彼は穏やかに、ゆっくりとお辞儀をした。



「あー暑い。9月も終わりだってのに、この暑さには参ります。吉田先生、また窓の外をご覧になっていたんですね」

オーダーを取りに来た店員に、アイスコーヒーを頼んで、ノートパソコンを取り出す。渋谷の街は、今も昔も若者が多い。


「ええ。人間観察は、私にとって、何より楽しいからね。……しかし、なんだろうね。今の若い人は、私らが若い頃より、色んな物を持っているように見えるね。でも、いつも何かに見張られているようで 少し窮屈なんじゃないかって、心配になってしまうな。だってスマホは、万人が持っている防犯カメラみたいなものでしょう……。『チィッター』とかいう、短文で自分の気持ちを呟くアプリも、すぐに炎上騒ぎになるようだしねぇ。昔は、芸能人の不倫だの、政治家の愛人だの、そんなの、あって当たり前だったのにね。最近は、いちど週刊誌に撮られたら、公人としての生命が終わりかねない勢いで……私なら彼らを、どうやって弁護するかな……」


「さぁ。どうでしょうねぇ。……さて、では。月一回のお打合せ、始めましょうか」

この話は長いぞ。そう思って、俺は、話の腰を意図的に折ってみた。



「おっと、失礼。やだねぇ、年寄りは。時間が余っているもんだから、話しすぎてしまうんだよ。アハハ。許してくれ。……で、本題に入ろう。どうだい、最近の『事務所』は」


彼……吉田よしだ敦徳あつのりは、かつて『労務の勝訴請負人』と呼ばれた男だ。若い頃、人権派弁護士として、労働者側に立っていくつかの労務裁判で勝訴を掴み取り、名を上げてからはむしろ、大手企業の顧問弁護士として評判になっていった。


初めて吉田と出会った日の姿を、今でもありありと思い出す。オールバックの撫でつけられた髪と、手首に嵌めたグランドセイコーの腕時計。あの日も暑さが厳しく、吉田は半袖のワイシャツを着ていた。汗と土埃の匂いがしそうな、いかにも「昭和の男」というタイプ。でもどこかアニキ風というか、思わず従わずにはいられない気迫があった。


そんな吉田も、今は高齢者となり、仕事のほとんどを引退している。『株式会社E・M・A』の顧問弁護士としての仕事は、彼の請負い続けている、数少ない案件と聞いている。


「……そうですね。今月も、計画は、おおむね順調に進んでいます。、ですが」


「なんだい。高根くん、君がそうやって不機嫌に話す時は、絶対に何かあるだろ。どうしたんだ?」


「わかります? まぁ……。緒方社長が、勝手に1人、ド素人シロウトの保健師を、新たに雇い入れたい、と拾ってきまして。契約条件諸々を私に一任して頂くことを条件に、引き受けましたが」


「ふうん。で、契約社員にしたの?」


「ええ。期間限定で、3か月だけの雇い入れです。契約書はきちんとお渡ししましたが、その保健師、一読すらもせずにサインしていましたよ。あれは、騙されるタイプです」


「そう……。下手な労務トラブルにならないといいがねぇ」


「まぁ、大丈夫でしょう。あの様子では、3か月持たずに早々に辞めると思いますし、辞めなかったとしても、こちらは必要な手順はキチンと踏んでいますから。それに、年が明けたら、『事務所』の全てが変わるのですしね」


「そうだねぇ。もうすぐ、10年だから。やっと……、だね」吉田弁護士が、目を細めた。



10年前に比べると、彼の頭髪はすっかり薄くなり、目尻の皺が深くなった。

 この男が、弁護士として最前線に立っていた時の、あの野生動物のような切れ味の鋭さは、ずいぶんと鳴りを潜めたな、と感じる。


そして、自分も多分、彼と同じだけ年を取ったはずだ。今回の件が片付いたら、さっさと仕事は引退して、のんびりと、海外ででも暮らしたい。ビーチがあって、オッパイのデカい美女たちと存分に遊べるところがいいな、と思っている。その日まで、あと少し。もうすぐだ。



「色々と、慎重にやりたいですね。油断は禁物だと感じます。その新しい保健師、足立さんと言いますが、年齢が『26歳』だそうですから」


「あぁ……そうか。『26歳』。それで、緒方先生、頭に血がのぼってしまったのか、合点がいったよ」


「おそらく、そうでしょうね。緒方社長、、忘れてはいないんですよ。忘れるわけは、ないでしょうけどね」


「うん。我々はますます、慎重にやらねばらないね。この仕事の最終仕上げ、集大成だから」


おっしゃる通りですね。引き続きウチの顧問弁護士として、諸々、よろしく頼みます」



「ええ、わかりました。高根くんも、どうぞ、よろしく頼みますよ」


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