第12話「ジェネレーションギャップ」

12話


「うーん…。」

 自室でモニターとにらめっこしていた僕は、頭を抱えていた。

 文部科学省が、『性同一性障碍に係る児童生徒に対するきめ細かな対応の実施等について』という通知を、平成27年に通達していることは少し前から知っていたのだが、だからこそ余計に分からない。

 この通達を見てみると非常に詳細に対応策などが記されていて、当事者の個人差はあるにしろ、基本的なことはこの通達を見ればある程度は理解ができるように感じる。

(これより前…、平成15年に『性同一性障碍の性別の取扱いの特例に関する法律』が議員立法で成立している。それを受けて文部科学省も、平成27年の通達より以前に独自の調査を行っている。

 だとしたら…、あの先生たちの無知っぷりは何なんだ?)

 未来が性同一性障碍とは違う枠組みにいるから、そこに差異が生じて対応策を独自に根本的に考えようとしているのだろうか、とも思ったりしたのだが…。

 仮にもこの学校に通っている生徒の保護者は、政界関係者が沢山いるわけで、その人たちから助言をもらうことは出来ないのかとも思ってしまう。

 その中で一つ分かっていることとすれば、この件に関して担任の先生が一人で抱え込んでしまっていることだ。

 文部科学省からの通達によれば、この問題は組織的に取り組むことが重要と明記されている。


 しかしここで一つだけ大きく引っかかることがある。

 この学校は私立高校だ。

 教育機関であることに変わりはないのだが、公立高校と大きく異なるのが、管轄する機関や部署の違いである。

 例えばこの学校のような都内にある私立学校は東京都が管轄していて、公立学校とは少し組織の仕組みが違う。

 恐らく事がうまく進まない要因として、管轄こそ東京都が行っているが、政界関係者が多くいるために学校の運営が混とんとしてしまっているのではないかと、勝手に思い込んでしまう。

「でもなー。国会議員との会談って言ったって、僕にどうしろっていうんだ?」

 学校運営に関することならば上の人間が徹底的に話し合って方針を決めればいいし、未来の学校生活の事だったら、転校してきたその日から今日までのことを吸い上げて、報告すればいいだけのような気がしてならない。

 しかし資料を見ていると、高校生の頃に自認をしたりカミングアウトをすることは、割合としては一番多く、データもそれに比例して蓄積されているはずである。

 それではなぜここまで手詰まりになってしまっているのか。

 これはあくまで推測だが、未来は『グレーゾーン』にいるからかもしれない。


 例えば身体・知的・精神などの障碍者手帳を申請するためには、医師からの診断書をもとに公的機関の担当部署が判断をし、交付することになっている。

 つまり病気でも障碍でもそうだが、客観的な判断がベースにあることが大前提なのだ。

 (………。)

 僕と未来は、同じ性的マイノリティの中でもまた違う。

 具体的には『性自認』と『性的指向』という分け方が存在する。

 性自認というのは、戸籍上の性別ではなく自分自身で自認している性別が異なっているということ。

 性的指向というのは、簡単に言えば自分がどういう人を好きになるのか、という認識でいいと思う。

 未来の場合は戸籍上は男性だけど女性として生活したい、しかし(あくまで今の段階では)外科的治療を望んでいないため、トランスジェンダーの枠組みに。

 僕の場合は今まで女性を好きになった経験もあることから、男性も女性も好きになるバイセクシャルの枠組みに入ると思っている。

 実は僕と先生でひそかに話し合っていることがある。

 体育祭と修学旅行だ。

 この行事がともに2学期に存在しているのだ。

 それだから、こんな大人のゴタゴタは早々に大人の間で決着をつけてほしいものだ。

 体育祭は保護者が大勢来校して、生徒数も相まってとても盛り上がる行事になるらしい。

 噂によると、この体育祭で好成績を出した生徒をスカウトする人まで来ていると聞いている。

 それを考えると、数ある学校行事の中でも重要な位置づけになっているに違いない。

 だからこそきちんと対応策を練らないと、好奇の目で見られかねなくなってしまう。

 未来が参加する種目には僕も参加させてもらえるようにお願いはしているが、まだまだ不十分だ。

 次に修学旅行だが、これは部屋割りなどの問題が生じてくる。

 これも僕が介入して何とかしようと思っているが、こういうことに関して関与することに異論は1ミリも存在しない。

 ただ、本来大人たちが解決しないといけない学校の運営に関することに巻き込まれるのは、正直に言って腹が立ってしまう。

 担任の先生からの頼まれごとだとしても、だ。

(そもそも国会議員って誰が来るんだ…?)

 本当に担任の先生は、誰が来るのかすら知らされていないのだろうか…

 少し熱くなりすぎた頭を冷やそうと席を立った時、スマートフォンに通知が来ていることに気が付いた。

(母さん…!)

 てっきりもう返事は返ってこないと思っていた。

「どうしよう…。」

 とりあえずメッセージではなく、思い切って電話をかけてみることにした。


プルルルル、プルルルル………


「…もしもし、祥太郎?」

「う、うんそうだよ。なかなか連絡できなくてごめんね。」

「いいのよ。…元気してた?」

(………。)

 今は親元を離れて生活しているとはいえ、10年以上一緒に生活していたからこそ分かる。

「母さん、大丈夫?」

「少し体調を崩していたのよ。でももう大丈夫になったわ。」

(本当かな…?)

「祥太郎は?学校生活はどう?」

「…まあ、何とかできてるよ。少なくとも1年前よりは楽しくなったよ。」

「そう…。」

(色々な意味で、だけど…。)

「一ノ瀬さんっていう人。仲良いの?」

「ああー。」

 恐らくあいつから聞いたのだろう。

 そしてそうだとしたら、嘘偽りなく言うしかない。

「自分にとって一番の理解者、かな。」

「………。」

 沈黙してしまう母。

 息子としては心が痛くなってしまうが、避けて通ることはできないし先延ばしにしすぎると余計に重苦しい空気になる。

「年末にそっちに帰るよ。その時に未来も連れて行っていい?」

「…分かったわ。ごちそう作らないとっ。」

「張り切りすぎて体調崩さないでよ?」

「…ありがとう。」

 今日これ以上話すのはよくないと判断し、やんわりと口実を付けて電話を切った。

(あー、くっそ。心が休まらない。)

 これぞ真の自己犠牲野郎である。

 学校運営に関することなど、断ってしまえばそれまでなのだ。

 しかしそうなると…。 

 これ以上は言わずもがなという感じで、それだけは自分自身が絶対に許すことができない。

「一目惚れって、凄いんだな…。」

 そう呟いて心に一区切りをつけた僕は、調べていた資料をまとめてプリントアウトしてファイルにしまった。

 何を言われるか分からないから、武器を携帯することは自衛策として悪い選択ではないと思うからだ。

「ふうっ…。」

 残っていたコーヒーを飲み干してふと時計を見ると、夜中の1時を回ろうとしていた。

(寝ないと…。)

 今日は土曜日で本来なら登校日ではないが、相手が指定したのが今日だから仕方ない。

 先生が、月曜日と火曜日を公休扱いにしてくれるらしいから、未来と相談して承諾することにした。

 とにかく落ち着きたいと思い、好きな動画配信者のASMR配信を流しながら横になる。

 するとみるみるうちに眠たくなって、調べ物が意外とカロリーを消費することを思い知らされた。

「おやすみなさい…。」

 誰が聞くこともない独り言を呟いて、スッと眠りについた。


 次の日。

 いつもより2時間ほど遅く目を覚ました僕は、短時間で支度を済ませて未来の自宅マンションへと向かった。

「こんなに軽い鞄を持ち歩く経験ってのも、なかなかないことかも。」

 鞄に入っているのは、メモ帳とボールペン、それと昨日集めた資料のみ。

 こんなことからも、今日が特別な日であることを思い知らされる。

「あ、祥太郎さん!」

「おーっす。」

 僕の姿を見つけるなり、駆け寄って腕を絡めてきた。

 緊張していないことの現れか、もしくは緊張を緩和させたいと思っている心の現れか分からなかったが、今は深く考えることは止めた。

「腕組むのご迷惑でしょうか?」

「ううん。むしろもっと強く抱きしめてもらってもいいくらい。」

「ど、どうしたんですか?」

「…何でもないよ。」

 理由を言うのは野暮なことだと思った僕は、静かに歩き出した。


「おはようございます。」

 時刻は午前9時を過ぎるころ。

 事情を知っている警備員さんに断って門を開けてもらい、職員室に来た。

「ああ、浦瀬。こんな時間に本当にありがとうな。しばらく1階の応接室で待っていてくれ。」

「分かりました。」

 鍵を受け取って応接室まで歩いている最中、未来はずっと僕の腕を掴んだままでいた。

(緊張してるんだろうな。)

 あえて何を言うわけではなく歩いている自分を客観的に見てみると、僕だって緊張しているに違いない。

「まさかここで会談とはね。」

「本当ですね。」

 ここは僕と未来が初めて対面した場所だ。

「とりあえず座ろうか。」

「は、はい。」

 とりあえず失礼のないように、座席の配置を確認してから席について待つことにした。

「前は対面でしたよね。」

「そうだね。ずっと俯いてたから話を振るのが大変だったよ。」

「す、すみません…。」

「それでも今となってはこんな関係になれたんだから、全然いいんだけどね。」

「…えへへ。」

 未来と話していると、不思議なくらい自然に緊張がほどけてくる。

 それも油断をするとかそういうことではなくて、ほどけた細い糸たちが一列に並ぶような心地よさという表現…が正確なのかは分からないが、とても暖かい気持ちになる。

「祥太郎さん。バッグの中に何が入ってるんですか?」

「え、なんで?」

「だって、先生から何も持ってこなくていいと言われていたので…。持参しないといけないものってありましたっけ?」

「あー、あれだ。議員の方も何かしら資料をもってくるかもしれないし、持って帰れるものがあったほうが便利かなって思って。だから中にはちょっとしたものしか入ってないよ。」

「…何か隠してませんか?」

「今は僕を信じてくれとしか言えない。」

「…分かりましたっ。」

 ちょっと拗ねた表情をしながらも、納得したといった様子で体を預けてきた。

 何も対決することを前提に話をしに来ているわけではないので、それよりも失礼な態度や言動をしないようにすることに注力するべきだと、気持ちを切り替えることにした。


 それから10分ほど経ったとき、応接室の扉が開いた。

「先生、こちらです。」

「ありがとう。」

 僕たちは立ち上がってその…先生と呼ばれている議員の入室を待っていた。

(………!)

 緊張感が一気に高まって手に汗が染み出ている。 

 重厚感のある足取りで入室してきたのは、この学校の影の暗躍者と言っても過言でない人物で、僕が一番会いたくないと思っていた人物でもある、政権与党の重要ポストを担っている、二堂という議員だ。

「すまない、待たせたね。」

「いえ、とんでもございません。よろしくお願いいたします。」

「よ、よろしくお願いします…。」

 二堂議員は僕たちの向かい側の席に深く腰掛け、前のめりになって話し出した。

「話は聞いてるよ。君が浦瀬君で、君が一ノ瀬…さんでいいのかな?」

「はい。よろしくお願いします。」

 すると二堂議員は鞄の中から1枚の紙を取り出した。

「これを見てくれ。」

 渡されたその紙を見てみると『学校における性同一性障碍に係る対応に関する現状』と記載されていた。

 これは僕が持参している資料の中にもある、学校の教職員に向けた文部科学省からの通達の一部分だ。

「君たちのことは仲間から聞いているから、少しだけ割愛させてもらうが、このグラフを見てほしい。」

 そう言って指し示してきたのは円グラフで、性同一性障碍に係る対応の状況調査の結果と記載されている。

 要するにいつ頃から性自認に違和感を感じて、学校や先生に報告をしたかという統計をとったものだ。

「これは私が、関係各所に指示を出してとらせた統計なのだよ。」

「はい…。」

 そこは知ることができたが、なぜ、自分がやったということをピンポイントで話してきたのかが分からない。

「私たちが現役の世代のころは、こんな世の中になるとは考えてもいなかった。昔は私たちの職場に女性用のトイレさえなかったくらいなんだ。」

「そうだったのですね。」

「私たちが子供のころは、祖父母が言っていたことは本当に正しいことばかりだった。しかし今は…、私たちが持っている知識や経験が通用しない世の中になってきている。」

「………。」

「今は部下が上司に教えたりすることもあるのだろう?すごい時代になったものだな。」

「それは、ニュース番組で拝見したことがあります。」

 これが余談なのか前置きなのか、いまいちその真意を掴むことができずに困惑してしまった。

 我々のホームグラウンドのはずの学校が、完全に二堂議員の独壇場になっている。

「さて、するべき話をしよう。浦瀬君、君のことは様々な方面から噂を聞いているよ。」

「…そんなに話題にあがっているんですか?」

「ああ。人によるというのが本音だが、君のことを肯定的に見ている議員も少なくないんだよ。」

「きょ、恐縮です。」

「しかしだな…。」

 先生が入れたお茶を一口飲んだ二堂議員は、少し声のトーンを落として口を開いた。

「私はね、この議題に関しては反対派の人間なのだよ。そこで一定数の人員を確保していたのだが、

 君の話を聞いた議員たちが賛成派の団体に寝返っていくんだ。」

(寝返る、か…。)

 どうしてくれるんだと言ったような、少し険しい表情になった二堂議員は僕の顔をじっと凝視してくる。

 この辺りは流石というか、重鎮の議員としての威厳と貫禄がある。

「僕はあくまでも、現状を出来るだけ把握したうえで自分の意見を述べただけです。あくまでも理解を促進出来たらいいなと思って会議や保護者会で出席したのであって、強制的な表現は極力用いないように心がけました。」

「つまりは、議員たちは自分の心の中での解釈が変わって、賛成派に転じた者もいるということか。」

「おそらく二堂様を含め、国を運営している国会議員の皆様の方が、知識も経験も圧倒的に多いはずです。ほんの短期間で得た知識を用いただけの私の意見は、稚出なものにすぎません。ですので、申し訳ございませんがその点に関しては明確な回答が思いつきません。」

「ふむ…。」

 納得したようなそうでないような表情になった二堂議員は、とある疑問を僕に投げかけてきた。

「小学生から高校生までの年齢層が混同している統計になるが、およそ6割の児童生徒がクローズ状態で学校生活を送っている。これは暗に、ほかの人に知られたくないという意識か働いているように私は感じてしまうのだが、君はどう思う?」

「そうですね…。カミングアウトするベースが弱いことが問題なのではないかと思っています。」

「なんだそれは。」

「例えば、体調を崩したときに病院へ行きますよね。体調を崩すのは意図するものと意図しないものが存在しますが、その病院という存在がベースとしてあるからこそ、我々は日々の生活を頑張ることができるのだと思っています。もっと言うと、憲法や法律もこれにあてはめて考えることができると思っています。基礎基盤がしっかりしているからこそ、私たちは安心して暮らせているのだと思っています。」

「それは当然そうだな。」

 何を言っているのか分からないといった表情になった二堂議員。

 この表情は先の会議に出席した時の理事長の表情に似ている気がした。

「性的マイノリティの人たちにとって、一番必要なのは暮らしを支えるベースとなるものだと思うんです。その一つとして、カミングアウトをした時に不利益を被るようなことを防止する取り組みを促進する必要があるんです。」

「具体的には?」

「そうですね…。」

 少し考えてしまった。

 それはなぜかというと、提示された書類に事細かに記載されているからなのだ。


・最初に相談を受けたものが一人で考え込むのではなく、サポートチームを作って対応する。

・服装や髪形、授業に関する個別対応の一例

・(必要に応じて)医療機関との連携


 等、具体例の一部分を抜粋しただけでもここまで挙げることができる。

(ということは…、試されているな。)

 そう直感で感じ取った僕は、慎重に言葉を選んだ。

「スクールカウンセラーではなく医療のカウンセラーを常駐させるのはどうでしょうか。」

「メリットを教えてくれ。」

「スクールカウンセラーでは、この問題に関してはできることが限定されてしまうように感じています。ですので、医学知識を持っているカウンセラーに常駐してもらうことによって、生徒の相談窓口の幅が広がると思います。」

「現時点でも外部の医療機関との連携をしている学校はいくつもある。それではいけないということか。」

「欲深いことを言ってしまえば、双方を取り入れる方が最善だとは思っています。産業医のような立ち位置になってしまうと効果が薄れてしまうので。」

 実際に産業医の面談を受けたことがないから、この意見は博打打ちに近い。

 しかし、企業に直接雇われている産業医は、相談者の相談内容が企業に対することだった場合、それを強く上申できる立場にあるとは思えない。

「つまりは…。」

「もし可能であれば、私立学校を管轄している地方の機関から派遣する形が理想かと。」

「なるほど。その予算面で我々がフォローすればいいということか。」

「…可能であれば、ですが。」

「ふむ…。」

 少し考える仕草を見せた二堂議員は、ふと未来のほうを向いて口を開いた。

「一ノ瀬さんといったかな?君はなぜ女の格好をするようになったんだ?「

「え、それは…。」

 なんとも配慮に欠けたことを言われ、未来が完全に困惑してしまっている。

「男は男らしく、女は女らしく。そう私たちは教わった。君はこの教えに反したことをしている。この教えに対して異議を唱えられる根拠というものは持っているのか?」

「えっと…。」

 本性を現したなと、直感的に感じた。

「浦瀬君、君も災難だね。」

「…と言いますと?」

「こんな人の相手を任されては、君のせっかくの青春が台無しではないのか?」

 さすがにここまで偏見を持っている人だとは思わなかったので、怒りのパラメーターが今にも喉仏を通り越しそうになったが、それをぐっと飲み込んだ。

「今の生活は、とても充実していますよ。」

「どういうことだ?」

「隣にいるのが一ノ瀬さんで、よかったと思っています。」

「…詳しく聞かせなさい。」

「それ以前に、平成27年でしたっけ?その時に話し合ったうえで現場の先生向けに通達をしていますよね?それに対してご納得頂いていないということでしょうか。」

 そうだと言わんばかりの表情で、深々と頷いた。

「議会ではどのような内容の話がされているんですか?」

「LGBTに関することは、首相も慎重派の立場をとっている。私はそれに追従しているだけだ。」

「否定的な立場ではなく、先ほどの言葉はあくまでも慎重的な立場からのご意見という認識でいいのでしょうか。」

「そうとらえてもらって構わないよ。」

「そうですか…。承知しました。」

「君の意見としては、どんなものがあるか聞きたい。」

 そう問われると先ほどの未来に対する発言を即時撤回するように要求したいところだが、ここは客観的な部分で意見をすることにした。

「例えば性同一性障碍という疾患…最近では性別違和などと呼ばれることが多くなりましたが、WHOが定めているものなので、当然医師の診断が必要となります。それも一人ではなく、二人以上の医師の客観的な判断が必要なくらい判断が難しいと同時に、日本の精神医療の進展の遅さを問題視すべきなんです。」

 トランスジェンダーは精神医療とは直接的な関係性はない。

 しかしそれでも、どうしても伝えたいことがあった。

「日本の精神医療は、他の先進国と比較して50年ほど遅れをとっているというデータがあります。数年ではありません。半世紀です。」

「…初耳だな。」

「日本人は特にそうだと思うのですが、普通であることを求める傾向にある気がします。協調性や親和性を大切にする、日本人独特の感性や考え方が影響しているのだと、私は解釈をしています。これは双方に誤解を生んでしまう言い方になるのですが、今色々な方面で取り上げられていることは、以前からのこの考えが起因する副産物のようなものであるともいうことができます。」

「人は集団の中で人生を全うする生き物だ。その雰囲気を乱す人間は、特に私たちの世代は排除してきた。」


(排除か…。)


 この言葉遣い自体は間違っているのだが、この考え方を頭ごなしに否定することはできない。

 有名なテレビのコメンテーターが言っていたが、時代によって必要とされる人間は変わってくる。

 悲しいことだが、この人はまさにそれに当てはまる人のような気がしてならない。

「精神医療と今回の話題の、共通点をもう少し詳しく教えてほしい。」

「特に日本社会において、根本的な問題を支えているのが精神医療だと思っています。よく「最近はうつ病患者が増えている」と報道されていますが、それはただ単に増えているわけではなく、認知されてきているのも大きな要因だと思います。」

「ふむ。」

「これは限定的な調査の結果で、これを根拠として取り扱うには少し乏しい部分があるのですが、赤ちゃんがまだお母さんのお腹の中にいるころに、その時すでに男性の脳になるか女性の脳になるかが決まってくるみたいなんです。それを左右するのは、お母さんの健康状態だと記されていました。」

 これは以前にも言った記憶があるが、非常に興味深いデータなので記憶に鮮明に残っている。

 それから僕は、トランスジェンダーは生まれ持ったもので、後天的な疾患ではないことも伝えた。

「そしてその人たちを陰で支えている分野の一つが、精神医療なんです。よく精神医療と聞くと、若い人の中でも「怖いところなんでしょ?」などと言う人がいますが、実際そのようなことはございません。様々な悩みを抱えている人たちを孤立しないように支えている、文系的な分野が織り交ざっている医療なのです。最近では投薬治療だけでなく、認知行動療法や光トポグラフィー検査など、新しい試みもどんどん取り入れて、可視化ができるようになっています。」

「それによって今のLGBTが明るみになってきたと言いたいのか?」

「その一端を担っているのかなと思っています。あとはSNSの普及や各種団体の存在が非常に大きな存在になっていることは確かだと思っていただいていいと思います。ベースが出来つつあるんですよ。」

「先ほども言っていたやつか。」

「そうですね。」

 そう言うと二堂議員は、未来の姿をじっと見つめていた。

「文部科学省が行っている一連の取り組みは、主に若い議員が中心となって活動をしていることなんだ。私たちは反対したんだがな…。なぜならお互いにいい結果が訪れるとは思えないからだ。私たちは、そういう人向けの学級を作ってはどうかと提案してみたのだが…。」

「LGBTQというのは障碍ではないですから…、恐らくそこを考慮して今回のような結論に至ったのでしょうか?」

 恐らくなといった表情でお茶を口にする二堂議員は、最近の世の中はよくわからないと言った。

「昔は男は男、女は女。子供は子供、大人は大人。などとある程度をパッケージで管理することが容易に可能だった。それが男女平等や教育環境の変化、グローバル化社会や多様性社会などという新しいことが次々に登場して、私たち年配者はどんどん取り残されてしまう。」

 現状を維持したり、既存のものを昇華させることに関しては、日本は得意としている分野だ。

 しかし新しいものやことに関してはとりわけ懐疑的になり、議論のスピードが極端に遅くなるという特性がある。

「取り残されている、というのは少し違うと思いますし、そう言われるととても悲しくなります。私たちが今議論していることは、そのすべてが二堂様を初め、長い時間を生きてきた方々の経験が合ってこそのことなんです。」

「そうなのか?」

「型破りという言葉があります。私たちが今していることは、昔の型を否定しているのではなくて、過去の経験や実績を元に、少しだけ型を変化させようとしているんです。その型が無ければ、私たちは今の議論を進めることがさらに困難になっていたかもしれません。」

「言い訳になってしまうが、私たちが若かったころは本当に何もなかった。気が付かなかったというよりも、余計なこととして見ようとしてこなかったのかもしれないな。」

「それでも今私たちがここで生きていることができるのは、とても大変だった時代を生き抜いてこられた方々のおかげです。本当にありがとうございます。」

 そう言って僕は、座ったままであるが深々と頭を下げた。

 この感謝の気持ちだけは、絶対に持っていないといけないことだからだ。

「一番聞きたかったことを聞いてもいいか?」

「はい。」

「君はここの理事長や保護者会会長とも対談したのだろう?君がそこまで頑張ることができる原動力

 は、いったいどこから来ているんだ。」

「それは…、大切な存在であるからというのが大部分を占めますが、それ以外は特に理由ってないんです。困っている人がいたら助けるという、基本的な道徳心に則って行動をしているだけです

「なるほどな…。いやあ参ったな。」

 ニュース中継でも見たことのない表情をした二堂議員は、「最後に一つお願いを聞いてほしい。」と僕に言ってきた。

「君のそのかばんの中には、きっと今日のための資料があるのではないか?」

「そうですね…。失礼のないように結構調べました。」

「その知識が披露できない会談で申し訳なかったな。」

「とんでもございません。お話しすることができて光栄でした。」

「派閥会議で君のことを話してみてもいいか?」

「いいですけど…呼び出されたりはしないですよね?」

「それはない。そんなことはさせない。私が責任を持って断言する。」

「それでしたら…。分かりました、いいですよ。」

「また色々話を聞かせてくれ。何か進展があったら都度話にくるよ。」


 そんな感じで、会談は終了した。

「緊張しました、疲れました。」

「本当に助かったよ、ありがとう浦瀬。それに一ノ瀬さんも。」

「未来に火の粉が降りかかったときは、正直に言って手が出そうになりました。」

「気持ちは分かる。大人な対応をしてくれてありがとう。約束通り、来週の二日間は休んでくれ。」

「ありがとうございます。」


「祥太郎さん、以前の会議や説明会でもこんな感じだったんですか?」

 帰り道のバスを待つ間、今まで一言も喋らなかった未来が口を開いた。

 今までの一連の出来事では、自分の意見を述べすぎて客観的な事実が乏しかった。

 今回はそこを気をつけて発言をしたつもりだったが、果たしてどうだっただろうか…。

「怖くて何も言えなかったです。ごめんなさい…。」

「いや、いいんだよ。未来がいてくれてたから、程よいところでセーブできてた気がする。」

「傍にいてくれるのが祥太郎さんで、本当に幸せです。」

「僕のほうこそ。転校してきてくれてありがとう。」

「そ、そんなこと…。初めて言われた………。」

 一生懸命に声を押し殺して泣いているが、時間の問題だろう。

 優しく抱きしめたその胸の中で、声を上げて泣いていた。

 あの会談で全てを話すことはできなかったとも言えないくらい、僕の中では不完全燃焼で終わってしまった感がある。

 肝心の外部との連携などの話をすることができなかったし、分かりやすいことだと思って精神科の話をしたが、あれは正直に言って余計なことを口走ってしまったと後悔している。

 あのような誤解を生みやすい話題は出すべきではなかった。

 あれが無ければ外部機関との連携を話す時間を確保できたことは、振り返れば容易に気が付く。

まだまだやらないといけないことは沢山ある。

(その時は、もう少しお手柔らかに頼みたいものだ…。)

 

 自ら足を踏み入れた大人の世界。

 繋がりが繋がりを生んでいるこの状況に、緊張感を募らせざるをえない状況が続いている。


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性の正と未来のミライ 柏季せんり @SenriKashiwagi

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