2-3 Distance Of Lamentation

 午前中の出会いから4時間、流雫はセットしたアラームがバイブレーションとして作動するのに気付いた。すぐに止めると、図書館の外に出るなり、サバトラ柄の猫のアイコンをタップした。

 レンヌは昼過ぎ。つまり、東京は夜。それも、普段遣り取りをしている時間帯だ。

「今話せる?」

とだけメッセージを送って数秒後、その手に収まるスマートフォンが鳴った。

 通話ボタンを押した流雫が最初に聞いた澪の声は

「あたしの声、聞きたかったの?」

と戯けたものだった。しかし、その主は一瞬後に墓穴を掘ったと思った。そして、流雫は

「最愛の澪の声だから」

と然り気無く答え、やはり沈没した。

 「っ……」

……もう戯けない。澪はそう誓ったが、明日には同じことを繰り返す、間違い無く。最早ここまでがワンセットだった。

 「……今日、血の旅団の信者に会ったんだ」

と切り出した流雫の声に、澪は

「……え……?」

と声を出す。最も予想外の言葉だった。

 「レンヌの太陽騎士団の教会前で、偶然」

と答えた流雫は、ふとその時のことを思い出す。

「それって……」

「……でも、自分たちを害悪と言ってた」

と澪に続いた流雫は

「その時に言ってたんだ。今は血の旅団は太陽騎士団に対して、少しながら懐柔している、と。あのパンデミックがターニングポイントだったらしい」

と、数時間前の話を短くまとめ、続けた。

 「そして、旭鷲教会のことを知ってた。ニュースで聞いた話レベルとは言ってたけど。血の旅団より過激だと言って、驚いてた」

その言葉に、澪は

「……流雫は、どう思うの?」

と問う。それに対して

「……レンヌの図書館で見た本にそのことが書いてたから、間違ってないと思う」

と流雫は答えた。

 昨夏に発売されたノンフィクションだが、調べたところ電子書籍としての販売はされていなかった。だから気になる箇所をひたすら書き写していた。

 そして、強調すべく赤と青のインクだけで書いた部分を思い出した少年は、一呼吸置いて言った。

 「旭鷲教会に、血の旅団が協力してる」

「協力って……!?」

と返した澪の声が、微かに裏返っているのが流雫には判った。


 旭鷲教会の創設は14年前、2011年の2月。その半年前、血の旅団はノエル・ド・アンフェルを機に危険団体として日本での活動を禁じられた。

 その幹部が秘密裏に、関東の宗教学者に接触した。その後、その学者を通じて政治団体の旭鷲会関係者と接触を果たす。そして、この関係者が渡仏して修行、帰国と同時に旭鷲教会を創設し、今に至る。

 当時の血の旅団の過激思想を引き継ぐ形の、謂わば日本版血の旅団。それは太陽騎士団の経典上の悪魔、ゲーエイグルをドイツ語読みしたクレイガドルアとして崇め奉っていることで判るだろう。

この項をまとめた2024年1月時点では目立った動きはしていないが、太陽騎士団を敵視している可能性は高い。

 ……書物には、旭鷲教会に関してはそこまでしか書かれていなかった。他の宗教団体よりも書かれている項目が少ないことは、それだけ情報が少ないと云うことだ。それでも、レンヌの図書館で初めて知ったことは多い。


 「……そう云う経緯だったの……!?」

流雫が一通り語った後、澪はそう言葉にするのが精一杯だった。恋人が祖国で手に入れた情報は、恐らく日本にいては手に入らなかっただろう。

 「夜、ノートに書いてるやつ写真で送るね。日本語に書き直すけど」

と言った流雫に、澪は

「……一つ気になることが有るの……」

と切り出した。

「何?」

「……その宗教学者って、誰なの……?」

そう澪が問うと、流雫は

「ノート、見返す。すぐ折り返すよ」

と返し、一度通話を切る。走り書きだったから、所々忘れていた。

 ショルダーバッグからノートを取り出し、一息にページをめくる流雫。その最後に書かれていた名前に目が止める。

 ……センジュ・ケヤキダイラ。

「欅平……?」

自分で連ねたスペルを声でトレースしたシルバーヘアの少年は、心臓が一際大きく跳ねるのを感じた。

 ……一見珍しい名字だが、流雫にとっては全くの無関係ではない。とは云え、探せば他にも同じ名字の人はいるハズだ。欅平だけじゃなく、宇奈月もそうだ。

 しかし、胸騒ぎがする。……ただ、このままじゃ先に進めない。流雫は深く溜め息をついて覚悟を決め、検索ボックスにその名前を入れ、虫眼鏡ボタンを押した。

 数秒後、アンバーとライトブルーのオッドアイが、大きく見開かれる。流雫は

「あ……」

と声を上げた。

 欅平千寿。山梨県在住の宗教学者。大学在学中、カルト教団による東京の地下鉄サリン事件に遭遇したことを機に、宗教学の道に進む。宗教と政治思想の関連や、宗教と武力に関する研究を専門とする。

「山梨……」

と呟いた流雫が見つめる百科事典サイトには、そう記事が載っていた。そして、欅平研究室と云う名前のサイトのURLが貼られていて、そこにアクセスする。気になったのは、そのブログ欄だった。

 更新は不定期。流雫は特定の投稿年月を僅かに震える指で押した。……2023年8月。


 27日。娘が死んだ。渋谷で即死。

 日本でテロが起きるとは。政治か?はたまた宗教か?

 ……死にたいほど辛いとは、まさにこの事か。ただ、今は無になりたい。


 「……っ!!」

数行の短文に、反射的に歯を軋ませる流雫。……死んだ娘とは、美桜のこと。

 ……美桜の父が、血の旅団と旭鷲会と云う組織を結びつけ、旭鷲教会の創設に少なからず関与した……?

 澪のアイコンに触れ、通話ボタンを押す。

「流雫?」

と恋人が自分の名を呼ぶまでの数秒が、やけに長く感じた。

 「……美桜の父親」

と切り出した、流雫の声は震えていた。

 「え……?」

と返すのが精一杯だった澪に、流雫は

「……欅平千寿って人。そのブログに、トーキョーアタックのことが……」

とだけ答える。……動揺していることは、自分でも判っている。

 「……流雫……」

と再度名を呼んだ澪は、今流雫が何を思っているか声で判った。

 ……かつての恋人の父親が、まさかの……そして流雫にとって或る意味最悪の形で……今日本を震撼させている脅威に少なからず関与していたとは……。

「……澪、また……連絡する……」

とだけ言って一方的に終話ボタンを押した流雫は、その動揺を抑えようと必死だった。

 ……初めて知った、美桜の家族のこと。しかし、知らなければよかった。そう思っても遅過ぎる。

 美桜の死とこの件は、あくまで別物。偶然に過ぎない。そう判っているし、この数分で何度もそう言い聞かせている。しかし、そのことが頭から離れる気配は無い。恐らく、今ロードバイクに乗ると事故を起こす。

 流雫は父の白いロードバイクを押し、そろそろ母が帰ってくるハズの家に向かって歩く。どうやって気を紛らわせるか、混乱が燻る脳に新たなタスクを押し付けた。尤も、悪足掻きにしかならないことは判っていたが。


 現実は残酷、昔から何度も使い回されてきた言葉。しかしそれは、今の流雫に突き付ける……否、突き刺すために生まれてきたと、東京に住む少女には思える。

 ……一度通話を切った後、ノートを開いた流雫が再び澪のスマートフォンを鳴らすまで、そして話している間、何を思っていたのか。想像に難くない。

 動揺や混乱と戦いながらも、流雫は澪に全てを伝えようとしていた。その最後に聞こえた

「……澪、また……連絡する……」

は、今はそれ以上何も言えないと云う意味を持っていた……と澪には思える。

 机から離れた澪は、スマートフォンをベッドに置いてその隣に寝そべった。澪もその記事に目を通してみたいが、今は怖い。

 ……少しの気晴らしに、先刻までやっていたゲームをする気にもならない。そして、机に並べたグッズを愛でて、気を紛らわせることすらできない。

 同級生の父親の会社が開発したパズルRPGゲーム、ロスト・スターライト。巷ではロススタと略されている。配信初日からハマっているこのゲームのヒロインが流雫にそっくりで、しかも名前をエディットできるからと、澪は彼女にルナと名付けた。

 それが裏目に出た。今再ログインしても、グッズを見ても……流雫を思い出す。そして、居たたまれなくなる。

 ……少しだけ、距離を置きたい。澪はそう思った。


 流雫を好き……ではなく愛しているし、それは今この瞬間も変わらない。何時だって、流雫の力になりたい。

 ……ただ、今だけは、決して弱くない流雫自身が決着を付けるのを、見守るしかない。力になってやれない無力さに苛まれる。しかし今できることは、彼の手を引くことではなく、隣で見守っていること。

 ……あたしは流雫じゃないし、流雫はあたしじゃない。だから、彼の代わりにその苦しみを背負うことはできない。立ち上がった時に、隣に立つことしかできない。

 澪は、自分から流雫に連絡しないことを決めた。自分自身がそれに耐えられるのか、その問題も抱えていたが。

 澪は、ふと部屋の照明を消して身体を起こし、窓のカーテンを開けた。東京の端、その住宅街の真上……晴れているが星は見えない。

 ……星無き夜に紡ぐ、愛と未来の行方。ロススタのキャッチコピーが、ふと頭に浮かんだ。

 流雫とあたしの愛は変わらない、何時だってそう思っている。しかし、だから2人の未来がどうなるのか、時々怖くもなる。……答えなんて判りきっているし、それも何時だって変わらない。それでも。

 ……流雫。その名前を、今にも消えそうなほどの声で言葉にする。不意に滲んだ視界が、少しだけ冷たく感じた。

 世界一大好きな名前が、これほどに切なく儚く感じたことは無かった。


 家の前に辿り着いたのは、母アスタナが帰宅して5分後のことだった。

「……ルナ?顔色、悪いわよ?」

母は一人息子に顔を向けるなり、そう言った。

「……やっぱり……?」

とだけ返した流雫に、母は

「風邪でも引いたんじゃ……」

と言ったが、そうじゃないことはこの少年自身が誰より判っている。

 「……心が風邪引いた……なんてね」

と少しだけ風流に言って戯けてみた流雫の微笑は、完全に取り繕っている。そのことは、大きな三つ編みのシルバーヘアの淑女にはバレていた。

「……何か有ったの?」

と問うた母に、流雫は

「……うん」

と頷き、ゆっくりと洩らし始めた。


 「その人だって、多分こんなことになるとは思ってなかったわよ」

リビングのソファで、隣に座る息子の話を一通り聞いたアスタナは、そう答えるのが精一杯だった。そもそも、数ヶ月だけ美桜と云う名の恋人がいたこと自体、初耳だった。

「……ルナ」

と我が子の名を呼んだ母に、流雫は

「……まさか、今になって日本で……」

と言った。

 ……血の旅団の脅威から逃れるために、日本に移住した。それと同時に帰化することになったから、戸籍上は両親がいないことになり、鐘釣夫妻が保護者となっている。そうまでして逃れた脅威、否それよりももっと悪質なものに遭遇し、そして生き延びるために銃を握る……。

 何故こうなったのか。あのトーキョーアタックから1年半、何度そう自分に問うただろう?

「……気になるのは判るわ。でも、今だけは忘れないと」

と言ったアスタナは、流雫の肩を抱き寄せた。

 ……毎年会う度に、少しずつ大きくなっていくのが判る。その成長を傍らで見届けてやれなかったことを、幾度となく嘆いた。

 流雫が足を撃たれ、日本に駆け付けた4ヶ月前と比べても、少しだけ大きくなった気がする。……しかし、弱くなっていた。

 ただ、両親の前では弱くあるべきだと、アスタナは思っていた。未だ未成年だし、1年のうち殆どを離れて過ごしているから、甘えさせることすらできなかった。だから、1週間後にレンヌを離れる時まで、愛しいルナを過保護なぐらいに甘やかしてもバチは当たらない……。

 あの日、甘えると云う感情を知った流雫は、今までより弱くなっていた。しかし同時に、少しだけ強くなっていた。その理由は、言わずもがな。

「……忘れられない……どうしても……」

そう言った流雫の頭を、アスタナは撫で回す。

 ……あとどれだけ、こうやって甘やかしてやれるだろう?そう思う母に抱かれ、流雫は少しだけ頬を濡らした。優しい故に弱い少年が、少しだけ安寧を取り戻した瞬間だった。


 一家3人のディナー。母の手料理は、何時も美味だ。しかし今日は、少しだけ格別な気がした。

 そして明日は両親と、140キロ離れた都市ル・マンへ向かう。自動車の24時間耐久レースで世界的に知られるが、それ以前から、現存するものとしては最古のステンドグラスや巨大なパイプオルガンで有名なサン・ジュリアン大聖堂で知られ、フランスの伝統的な街並みを楽しむには最適だ。

 その南部、ユノディエールと云うコミューンに建つペンションが、母の実家だ。今は母の兄夫婦が中心になって経営している。流雫が帰郷した時の恒例行事だが、顔を出す度に手厚い歓迎を受けている。1泊2日だが楽しみだ。

 少し早めに寝ようとした流雫は、殺風景な自分の部屋に戻る。1年に2週間から1ヶ月ほどしかいない部屋故に殺風景だが、何か落ち着く。

 小さな机に向かった流雫は、昼間図書館で開いたノートを手にする。あの強調すべくインクの色を変えた部分を開き、日本語に書き直す。

 15分後、流雫はそのページにスマートフォンのカメラを向けた。澪に送るためだ。……少しでも、何らかの情報として役立つなら。

 それが今、宇奈月流雫と云う少年を動かしていた。


 普段通りの時間に目を覚ました澪は、1時間前にスマートフォンにメッセージの通知が入っていたことに気付いた。流雫からだった。確かに、夜にノートを書き写したものを送るとは言っていた。……フランスの夜は日本では朝方、間違ってはいない。

 ……昨日、自分からは流雫と距離を置きたいと思った。その彼からの写真を、後で父に見せようと思った澪は早速保存すると、

「ありがと、ルナ」

と打った。

 ……距離を置きたい。それは早くも挫折しそうになる。しかし、それじゃダメだと思い直し、澪はベッドから起き上がった。今日は、同級生と遊ぶ日だ。

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