2-4 Wandering Emotion
「お前、これ……!」
流雫から送られてきたノートの写真を見せられた父、常願は朝から思わず声を上げた。少し濃いめにしたコーヒーの苦味すら掻き消すほどのインパクトを脳に与える。
「流雫、フランスの図書館に有ったのを書き写したらしいの」
と言った澪は、改めて目を通す。
日本では検索しても引っ掛からなかったらしい。これの日本語版などが特に無いからか。恐らく、流雫がフランスに帰郷していなければ、そして図書館に行かなければ、彼自身も知り得ることは無かっただろう。その収穫は、小さいようであまりにも大きい。
スマートフォンを持ち主に返しながら
「……後で俺に送れ」
と言った父は
「しかし、里帰りしても事件が頭から離れないのか……」
と、今頃レンヌの家で寝ているだろう少年を不憫に思った。
……それは、流雫の人生を大きく変えたノエル・ド・アンフェルの流れが有るから。しかし、そう言えない澪は
「……太陽騎士団も血の旅団もフランスの宗教なんだし、否応なしに目に止まるんだと思うわ」
と答えて取り繕った。
後輩刑事の弥陀ヶ原は、流雫自身が説明していたからクリスマスのテロ事件に関しては知っている。しかし、澪の父には、その話はしていなかったと思う。
恋人とは云え他人、どこまで言っていいものか……と思うと、何も言わない方が無難だと思っていた。尤も、刑事同士で伝わっているだろう、とは思うが。
父が臨海署に出勤するのを見送って、澪は最近お気に入りのネイビーの服に着替え、飲みかけのコーヒーに手を付けた。
……左手首には、流雫からの誕生日プレゼントのブレスレット。やはり、何着けていないと落ち着かない。
「澪」
と母の室堂美雪が、娘を呼び止めた。
「……流雫くんがフランスにいて、寂しいんじゃない?」
母が切り出した言葉に、澪は
「……まさか」
と返す。
「流雫は今大事な家族といるの、それがどれほど幸せか……それに比べればあたしの……」
と続けた少女に、母は
「でも、こんなに離れること、無かったんじゃない?」
と被せた。
……去年流雫がフランスに帰った時は、2人が一線を越える前だった。だから恋人同士になって初めての帰郷だった。
「……無かった」
と、澪は細い声で答える。
「……寂しい?」
再度そう問うた母に、澪は思わず頷いた。
……距離を置きたかったのは、今の流雫に何を言えば、どう接すればいいのか判らなかったから。亀裂が入ったワイングラスよりも繊細……割れないように触れて抱き抱えるほどの器用さを、あたしは持ち合わせていない。
自分勝手だと言われてもいい、弱いと嘲笑われてもいい。ただ最愛の少年があたしの言葉で壊れるのを見るのだけは、耐えられない。
……寂しくても、それが流雫のため……あたしのためなら……。そう思っても、やはり寂しいものは寂しい。流雫が日本を発った日、空港でメッセージを送り合えるだけで寂しくないと思ったが、現実はそうじゃなかった。
「あたしは……流雫を信じてる……」
俯いたままの少女は、泣きそうな声でそう絞り出すのが精一杯だった。
「……澪は優しい子だから……」
そう言った母に、澪は
「優しくない……我が侭なだけだもん……」
とだけ返し、ふと手元の時計を見た。
……そろそろ行かないと。澪は自分の両頬を軽く叩き、マグカップに残っていたコーヒーを飲み干す。何時もより強い苦味で、この靄を強制的に晴らしたかった。
今日の待ち合わせは池袋。澪の家からでも30分有れば着く。
「澪!」
先に着いた少女を呼ぶのは、黒いロングヘアを2本の三つ編みにした少女……彩花。
その数十秒後
「澪!彩花!」
と呼んで近寄ったのが、ライトブラウンのセミロングヘアの少女……結奈。
この2人が、澪の学校での交遊関係の全て。修学旅行先の福岡で暴動に遭遇した時も、2人だけは澪の味方だった。
結奈が撃たれそうになり、澪は彼女を外した銃口が自分に向いた瞬間、引き金を引いた。……山梨にいた流雫が、一部始終通話してあたしを支えていたから、どうにかなった。澪は今でも、そう思っている。
その正義感故に、この刑事の娘は少し冷静さを欠いて暴走気味になる時も有る。しかし、何時だって自分より2人を大事にしたがる。だから2人も、澪を見捨てることは無かった。
3人は新学期に備えての買い出しと、秋葉原でロススタのグッズを見て回ると云う目的で集まった。池袋には駅ビルに大きな雑貨屋が有り、先ずはそこに向かうことにした。
高校生活最後の1年は、楽しいことを全て排除して、年明けの大学受験に備える。それは既にこの春休みから始まっていて、学校帰りに予備校に寄る同級生も少なくない。
しかし、進学校の東都学園高校に通うこの3人にとっては軽く無関係だった。特に澪と彩花は、予備校に通ったりしていないのに学年トップを競い合うほどだ。尤も、その秘訣を問われてもよく判らないが。
混み合う雑貨屋に1時間以上いて、会計を済ませた3人は、少し早めのランチを済ませるべくファストフード屋に入った。サンドイッチとジュースをトレイに載せ、端のテーブル席に陣取る。
他愛ない話で盛り上がる3人。結奈と彩花は恋人同士で、澪にとっては見ていて微笑ましい。その2人は、寧ろ流雫と澪のカップルに敵わないと思っている。互いに背中を預けていられるのは、理想的に思える。
流雫の話題にもなるが、澪は普段通りに返す。そこに僅かな違和感を抱いた2人は、しかし気にしないことにした。仲がよくても、何でも話せるとは云っても、やはり言いにくいことや言えないことは有る。
結奈や彩花には言えなかったのは、これ以上心配させることは避けたかったからだ。彼女たちには、無関係で安全地帯にいてほしかった。
その後は秋葉原へ行き、ロススタのグッズを見て回る。澪の最推しの美少女騎士をモチーフとした新作は来月の発売らしい。澪はそれに少し安堵した。今見ると、流雫を思い出すからだ。机の上に飾ってある分は流石に片付けてはいないが、極力見ないようにと気を付けていた。
結奈と彩花は、それぞれの最推しキャラの小さなフィギュアを手に入れて満足げだった。その箱をバックパックに詰め、最後に大型の書店に向かった。受験生になるため、一応問題集を買い集めることにした。
特に彩花は、大学受験で医大を狙う。3人で最も運動能力が低い彼女は、その分医療の知識を得たかった。そうすれば、何か有った時に誰かは救えると思っていた。そのハードルが低くないことは、彼女自身覚悟しているが、しかし叶えられると云う根拠無き自信が有った。
重くなったバックパックを背負った2人とは帰り道が別の澪は、秋葉原駅で別れるとトートボストンバッグを肩から提げて1人渋谷へ向かった。
2日連続で渋谷に降り立った少女は、すっかり覚えたルートでハチ公広場に出る。行き交う人混みに混ざりながら、慰霊碑の前に辿り着く。
「……美桜さん……」
澪は、自分と同じ読みの少女の名を呟く。
「……あたしは……これでよかったんですか……?」
そう問うても、答えなんて返ってこないことぐらい判りきっている。
……彼女の父にまつわる、あまりにも不都合な真実に、最愛の少年は苦しんでいる。そして、彼のためと言って少しだけ離れることを選ぼうとした。
「あたしは、流雫といっしょだよ」
シブヤソラの展望台で、流雫にそう誓った。それなのに。……愛してるからこその選択だと思った、しかし間違っていたのか……。
俯いて唇を噛む少女の耳に、
「澪」
と名を呼ぶ声が響く。沈みゆく意識を引き揚げられた澪は、大きく瞬きをしてその声の主に目を向ける。
「……詩応さん……!?」
「今日はもう終わって自由時間。だから、毎日アネキに手を合わせようと」
そう言って近寄った詩応は、沈んだ澪の表情に
「……流雫と何か有ったのか?」
と問うた。……鋭い。澪はそう思った。正しくは流雫に何か有った、だが。
しかし、彼女になら話せるかもしれない。澪は意を決して、軽く溜め息をついた。
「まさか……」
一通り話した澪への詩応の反応は、やはりそれだった。流雫が東京の恋人に送り付けた真実は、ショートヘアのボーイッシュな少女を混乱させるには十分なほどの威力を持っていた。
ハチ公広場の端のベンチに並んで座り、ホットココアの缶を手にした女子高生2人。美少女が並んでいるが、話している中身が中身だけに、ナンパしようにも近寄りがたい。
「……流雫には、あまりにも辛い事実が有って……。あたしには何もできない、だから少しだけ……距離を置こう……そう決めたんです。でも……それが正しいのか……」
とトーンダウンしたまま言った澪に、詩応は
「澪が思ってることが、そのまま答えだよ」
と答えた。それで悩んでいるのだが……そう思った澪の顔を見つめながら、ボーイッシュな少女は
「……好きなままでいるのなら、少しぐらい離れてみていいんじゃない?近過ぎるから見失ってたことだって、見えてくるかもよ?」
「……離れて辛いと思うのは、それだけ澪が流雫を愛してるってことだから。……見てて判る、どれだけ澪が流雫を、流雫が澪を大事にしたいのか」
と続けた。その言葉に、澪は頬をほのかに紅くした。
「……詩応さん……?」
「何時だって希望を見失わないし、背中を預けていられる。それって理想じゃない」
「希望……」
その言葉をトレースする澪。
……流雫は何時だって、光を見失わない。どんなに泣き叫んでも、何度でも立ち上がる。そして、微かな光さえも手繰り寄せる。
あのトリコロールを連想させるオッドアイには、きっと今も光が映っている。そう、雨上がりの夜空に初めて見つけた星の光のように。
流雫はあたしより弱く……そして遙かに強い。流雫に突き付けられた現実に混乱しているのは恐らく、最愛の少年ではなくあたしだった。
「……アタシは、アンタたちを応援するよ」
その言葉に、澪は俯き軽く頭を下げた。その様子に、少し低めの声で囁いた少女の
「……泣いてる?」
の言葉に
「……泣いて……いませんよ……?」
と返した澪の声は、震えていた。
朝から赤いフランス車に揺られ、宇奈月クラージュ家の3人はル・マン南部のコミューン、ユノディエールに辿り着いた。日本風に云えば、サルト県ル・マン市ユノディエール町か。
3ヶ月後の6月には、カラフルなレーシングカーが、封鎖された目の前の道路を夜通し走り回る。2週間近くに及ぶレースウィークは、その観戦客の予約で既に満室だと云う。
流雫は母の兄夫婦や10歳になる甥っ子とハグして、ペンションで2家族でランチをする。その後、特に外出する予定は無いが、そこでも流雫は2時間だけ赤いロードバイクを借りて、市街地を軽く走ることにした。
20分ほど走って中心部、レピュブリック広場に着いた流雫は、白いヘルメットを脱ぐと深呼吸した。母の兄夫婦や家族といるのも楽しいが、1人で見知らぬ、土地勘が無い土地に立つのも面白い。
後は自転車を押しながらゆっくり回ろう……と思った流雫のショルダーバッグから、スマートフォンの通知が鳴った。日本用のメッセンジャーアプリのそれではない。
「アルス……?」
と流雫は呟き、フロントポケットから端末を取り出した。
「無事か?」
その一言に、流雫は何が起きているのか察しが付いた。
「ル・マンにいるけど、レンヌで何が?」
と、IMEをフランス語に設定して打ち返す。
「太陽騎士団の教会が破壊された」
その一言に、流雫は目を見開き、唇を噛みながら通話ボタンを押した。文字だけじゃまどろっこしい。
「太陽騎士団のって……!」
通話時間のカウントアップが始まると同時に、そう言った流雫にアルスは
「……血の旅団の仕業だと思ってる」
と言った後で
「……くそ……」
と洩らした。
「……アルス」
そう名を呼んだ流雫に、
「何だ?」
とフランス人が問う。シルバーヘアの日本人は
「2人、無事?」
と問い返す。昨日、別れ際にアルスが
「彼女が待ってる」
と言ったのを覚えていた。
「ああ、アリシアも無事だ」
と答えたアルスに、流雫は
「それならよかった……」
と安堵の溜め息を混じらせて言った。経緯が経緯とは云え、知り合った彼自身もその恋人も無事……それが何よりも嬉しい。
自分が1年半前、東京の空港で突き落とされた絶望に、誰かが転落していくのは見ていられない。だからこそ、東京の姉の死を名古屋で知らされた詩応に、流雫は1人後ろめたさを感じていた。尤も、それが詩応の癪に障っていることは知らないが。
「……また連絡する」
と言ったアルスが通話を切ると、流雫はフランス語のニュースサイトを開く。
「レンヌで教会爆破」
と云う速報がトップを飾る。
……直接遭遇したワケではないが、最早宗教テロそのものにストーキングされているのか……と思う。そう思わないと、最早やっていられない。
「……血の旅団の仕業だと思ってる」
そう言ったアルスの表情は、想像に難くない。昨日の話を思い出す限り、彼も敬虔な信者だ。そして、血の旅団を誇りに思っている。
確かに、ノエル・ド・アンフェルを起こしたりと危険集団ではあったが、しかし彼が昨日言った通り、全員が悪人と云うワケでもない。寧ろ、元々善人だった人が、信仰の下の善行としてテロに及んだと云うのが正しかろう。
信じる者は救われる。逆に言えば、救われたければ信じるしかない。殺人や破壊が犯罪だとは頭では判っていても、理性は神への帰依、信仰の前では無力。だから宗教テロが絶えない。だからと、十把一絡げに宗教が悪いと云うワケではないのだが。
……気晴らしにアリスティッド・ブリアン広場やジャコバン広場を回った流雫は、大回りをして帰ることにした。24時間レースは公道区間も併用して行われるが、その順路を逆走する形だ。最短ルートの倍以上の距離が有るが、今の流雫にはこのルートはもってこいだった。
ペダルを漕ぎながら、昨日の話と先刻知った事件をリンクさせる流雫。
此処はフランスであって、旭鷲教会は存在しないハズだ。逆に言えば、日本では血の旅団が活動できないから旭鷲教会が存在している。
あくまで、日本で起きていることとフランスで起きていることは全くの別物。それは判っている。だが、旭鷲教会のルーツが血の旅団と云う事実も有る。
僕が日本を発つまで旭鷲教会と云う団体の名が報道に出たことは無い。しかし、その欅平千寿と云う人物は一連の事件がそれの仕業と云う事実に誰より戦慄し、怒りに満ちている……としても不思議ではない。そこに、血の旅団を紹介したことが、今の日本を秘密裏に震撼させている事の発端になっていることへの嘆きを滲ませつつ。
……美桜の父が悪いワケではない。そもそも美桜の死とは別物だから。
そう思いながら走っていると、ユノディエールに入った。ペンションが見えて、流雫がブレーキレバーを引くと同時に、スマートフォンが短く鳴った。
23時。明日は休みの父の晩酌にジンジャーエールで付き合う澪。点けていたテレビのトップニュースは、たった今入ってきたと云うフランスでの教会爆破事件だった。
画面に釘付けになる室堂家3人、その唯一の未成年はレンヌと云う地名に
「流雫……!?」
と反射した。一瞬で娘に顔を向ける両親の耳にも、アナウンサーの太陽騎士団と云うフレーズが入る。
「……ルナ!?無事なの!?」
と数秒の間に打った澪は、送信ボタンを押した。
……流雫のことだから、無事だと思っている。しかし、この目で無事だと判らなければ安心しない、できない。……距離を置くなんて、できっこない……。
「無事だよ」
そのメッセージが届いたのは2分後。澪は数分前に張り詰めた緊張感が一気に緩み、思わずソファにもたれ
「……生きてる……!」
と声に出した。両親も、それに反応して表情を緩ませる。
「今、母さんの実家にいる。ル・マンの街。いいとこだよ」
流雫はそのメッセージを風景の写真付で数枚飛ばした。その全部を保存した澪は
「次のデート、楽しい話題がいっぱいだね」
と送る。それだけで、その日は夜まで過ごせる。澪はそう思った。
……距離を置く、言葉にするのは簡単。だけどいざとなると、ものすごく難しいこと。詩応さんは、近いから見失うことだって有る、そう云うニュアンスのことを言っていた。
……見失っていたのは、流雫の真の強さだった。テロに屈しない強さじゃない、絶望に沈みながらも、希望の光を絶対に見失わない強さ。夕方前に再会した、詩応さんの言葉に助けられた。
……あたしは弱い。今度はそれに、沈みそうになる。
人は生きてる限り、迷うもの。……迷い、苦しみながら、少しずつ強く、優しくなっていく。もしそうだとするのなら、これもそのためのステップ……だと思うには残酷だと思った。
澪はコップに半分以上残ったジンジャーエールを一気に飲み干す。舌の上で弾ける炭酸の泡が、纏わり付く靄を掻き消すように思えた。
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