第12話 清代の演劇学校「科班」についての話

 今回は、創作論とは関係ない京劇関係の備忘録です。清代の演劇学校「科班」について纏めます。


 京劇の発生当初、および京劇の前身となる各種地方演劇において、芸の伝承は主に師匠から弟子、あるいは父から子へと一子相伝的に伝えられてきました。が、清朝宮廷での京劇の流行およびそれに伴う需要の拡大に応えて、体系的かつ効率的に役者を養成するために設立されたのが「科班」です。需要に応えて、というからにはもちろん多くの役者を輩出しなければならないということですが、それに加えて体系的に、とはどういうことかといいますと、従来の徒弟制だと師や親の芸は本人の死に伴って失われる危険が大いにあったからです。


 たびたび京劇と歌舞伎を対比するのですが、芸の伝承においても両者には大きな相違があります。歌舞伎でよく言う〇代目〇〇は、京劇においてはありません。名優の子が役者を志すことはもちろんあるのですが、名優の芸は本人限りのものであって、実子であっても独自の芸を築かねばならない、一人一派が京劇の思想だそうです。唱法などを指して〇〇派と呼ぶことはあるようですが、ある家の「色」やそれに伴う「名」を継承していくということはないそうです。「科班」成立の背景も、恐らくはここに求められるように思います。最終的な芸風の確立は本人次第、となれば名優の芸のすべてが伝えられる訳ではなく、弟子の人数も限られるし「授業」の内容も系統だったものではない(書物や文字にも残り辛い)──となれば伝統芸能の継承という観点では不安があるだろう、と推測できます。「科班」の成立はこの辺りの不安を補うためでもあったのではないでしょうか。


 「科班」の授業内容を見ると、拙作「花旦綺羅演戯」の作中でも描写した毯子功ダンツーゴンなどの基本功や実演に加えて、生徒の精神面の修養も重視されたそうです。拙作中で、とあるキャラに「芸の高きは徳の高きに如かず」と言わせたのですが、これは、まさに代表的な「科班」である富連成社でモットーとして掲げられたことです。(つまりは、当時は徳に欠ける役者もしばしばいたということのようですが、まあうん)より質の高い演技のための人間的な素養から叩き込む、ということなのでしょう。

 また、これも拙作に引用しましたが、「千練チエンリエン不如ブールー一串イーチュアン──千回の鍛錬も一度の実演には及ばない」も富連成社の教えです。精神的、肉体的、そして実践的な教育が施されていたことが窺えるのではないでしょうか。

 複数の教師が複数の生徒を見る、という環境は、資質の見極めや個性の伸ばしやすさという点でも明らかにメリットがあるだろうと思います。「科班」の存在は、京劇が中国を代表する伝統芸能の位置を占めるのに大きな役割を果たしたのかもしれません。


 ただ、「科班」が徒弟制時代からの悪習と完全に自由であったかというとそうでもなく、喜燕が味わった「不打ブーダー不成材ブーチョンツァイ──叩かなければものにならない」の思想のもとに、重い体罰が行われた面もあったようです。


 ちなみに、拙作の作中世界の状況としては、市井の役者は徒弟制を維持しつつ、後宮や権門の内部では演劇学校のようなシステムが出来上がっているようです。(まあぶっちゃけ宝塚音楽学校を想定しての描写も結構あるのですが)授業内容の充実度や悪習部分についても、新旧の良いところと悪いところが混在している、過渡期的な感じかもしれません。ヒロインの存在が、市井と宮廷の教育環境の距離を縮めたり、洗練させたりする要因になれるかもしれない──という感じで、史実を良い感じに摘まみながら創造しております。


今回の参考文献はこちらです。

「中国伝統演劇教育における科班の成立とその展開」 有澤 晶子 アジア・アフリカ文化研究所研究年報 36 76-87 2001

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