第48話 赤い闇の中で


 ひたすらに拳を振るう。

 熱を持った肉体を動かし続ける。落ちていく汗の音が静かに響いた。

 朽ち果てた炭鉱には己以外に誰も存在しない。太陽の光が閉ざされ、風すらも届かない深い場所。あれだけ馴染めないと思った穴蔵に帰ってきた。


「赤だけがそこにある」


 色など途切れた黒い世界。だというのに目を閉じれば、世界が真っ赤に染まる。頭の中まで焼き付いている。

 必死に振り払おうと拳を打ち出し、足を蹴り抜く。赤を消し去るために岩壁を叩き続ける。声などとっくに枯れ果て、滴る汗は血を含んでいる。削れているのは己の肉体かもしれない。

 それでも止まることはない。この赤を消さなければ、どうにかなってしまいそうだからだ。


 頭では理解できる。意味も狙いも理解できる。

 彼にとって極めて当然の行為だ。彼はどこまでも純粋に目的のために動いている。どれだけ嫌われ、罵られようとも徹底的にやる。人間性など平気で捨て去れるのだ。

 これまで何十年も生きてきたが、あそこまでブレない存在は種族を問わず見たことがない。ある種の美しさすら感じるほどだ。

 何が彼を突き動かすのか。どうしてあそこまでできるのか。流石にそれはわからない。

 だが現実として、彼はああいうものになったのだ。それを頭に入れて、受け入れなければいけない。

 こんなこと誰に言われずとも理解していたはずだ。


(・・・・・・わかっている。わかってはいるんだ)

 だというのに何かが湧き上がってくる。

 怒りが、恨みが、憎しみが心の底から燃え上がり、己を突き動かす。これほどの激情があったと言う事実に、自分自身が驚いている。


 殴りたい。蹴りたい。投げたい。締めたい。極めたい。

 壊してやりたい。潰してやりたい。倒してやりたい、沈めてやりたい。踏みにじりたい。


 あの光景を思い出す度に目の前が赤く染まる。思考が支配されていく。

 だから必死に身体を動かし、赤を振り払う。


「本物は確かに無事だった」

「生徒たちも怪我していない」

 実際の被害はなくてよかった、では済まされないのだ。

 どんな事情や理由があれ、自分は大切なものを守れなかった。見世物にすぎなくても、ああいう行為を許してしまった事実に変わりはない。

 もし彼が自分と同じ立場ならば、徹底してやるだろう。

 用意できるだけの人材を用い、集められるだけの金を注ぎ込み、己の破滅を天秤に乗せてでも作品を守りきる。力がなければ罪を犯してでもそれを手に入れる。

嫌われ、憎まれ、恨まれようが屁とも思わない。大切なもののためなら悪魔を騙し、天使すら蹴落す。

 あんなことなど起きはしないという確信。起こさせないだけの準備を整える。あらゆる不確定要素を踏み潰す。

 だからすぐに偽物だと見抜くだろう。事が起きても迷いはしないはずだ。

 何があっても守ろうとする絶対の意志。言葉だけではない。本物の覚悟がそこにある。

 翻って自分はどうだったか。

 守ると誓いながらも、彼のような気持ちが、ほんの一欠片でも持てていただろうか。


「ぐぁああああああぁぁぁぁぁ!」

 頭を岩に叩きつける。己の不甲斐なさに我慢が出来ない。こんな自分が許せなかった。


 あの見世物は試合を盛り上げるために行われた。最初から仕組んでいたのか。それとも途中で思いついたのかはわからないが、いつもなら行われる事前の相談や脚本はなかった。それをやったら台無しになると判断されたのだ。

 だがこれが他のレスラーならどうだったか。


『ダンでは観客を喜ばせられるかわからない』

『メインを張るには不安だ』


 小次郎の中にそういう懸念があったからこそ、ああいう行動を取らせてしまったのではないか。充分な実力があれば、こんな事など思いつかなかったのではないか。

 つまり『信用』されてなかったのだ。

 自らの力不足がこの事態を招いたのである。

 こんなにも自分に腹が立つのは初めてだ。情けなくて涙が出てくる。悔しさのあまり噛みしめた歯を砕いてしまいそうだ。


 自責の念と他者への憤り。何度も繰り返している内にどうにかなってしまいそうだった。全てが本当の想いだからこそ、どちらを優先するべきかわからない。こんなにも感情を揺さぶられるのは初めてのことだ。今まで築いてきた自分が足下から崩れていく感覚がする。

 自分のこんな姿を見せたくなかった。どんな顔をしているかもわからない。


「だからこの穴蔵にいればいい」

 ここにいれば誰にも干渉されることはない。

 どれだけ激しい嵐もいつかは過ぎ去る。静かに引き籠もっていれば全ては終わるのだ。逃避と言われても構わない。わざわざ辛い現実と向き合う必要などないのだ。

実に平和的な解決である。自分は元のままでいられるのだ。


(何もかも気のせいなんだ。こんな僕なんてなかったんだ)

 それでいいはずなのに。

 どうして――どうして肉体は動いているのか。

 身体が、筋肉が、己を構成する全てが叫んでいる。

 何かに抗うように、何かを否定するように。


(僕は違うモノになるのか?)

 今までどれだけ意識してもできなかったこと。探し続けた答えがそこにある。

ここを出れば、どんな自分になってしまうのか。

 理性が残っているのかわからない。制御など効かないかもしれない。どれだけ恐ろしい事でも平然と出来てしまえる。今までの自分からじゃ想像できないものに変化するかもしれない。


 でも、そうしなければ彼に辿り着けないというならば。彼とぶつかり合うためには、あの場所へ行かなければいけないのならば。

 どこまでも暗い世界。目の前に広がる赤を振り払えば、眩い白に照らされた舞台が待っている。


 憎悪。憤怒。怨恨。親愛。

 陰と陽。正と負。

 あらゆる感情が混じり合い、いくつもの想いが溶けていく。

 そうして最後に残されるもの。彼に抱いた強い想い。彼なら大丈夫だと思える。


 それはきっと――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る