第49話 狭間
『さぁエメラルドの体勢に入ったぞ。ついにそのベールを脱ぐときが来たのか!』
エメラルドクラッシュ。
背後から相手の股に腕を通し、そのまま担ぎ上げ、いわゆるアルゼンチン・バックブリーカーの形で持ち上げる。そのまま腕の力で相手を回し、空中へ投げ捨てるのだ。
ダンのオリジナルフォールであり、ドワーフのパワーを活かした豪快な技である。他でもない小次郎がダンと共に考えた。
見た目のインパクトはもちろんだが、汎用性の高さも優れた点である。落ちてくる相手に対して、出来ることは沢山ある。
投げっ放しにしても良い。ドロップキックやナックルなど打撃を当てても良い。落ちてきた相手を掴んでもう一度投げても良い。一つの技から様々な展開へ持って行けるのだ。
情報だけは実況やマスコミに伝えていたが、未だに実戦で決ったことはない。これはブックに寄るものである。実戦で受けるのは自分が最初と決めていたからだ。
これだけの大技である。練習では何度か試したが、本番でどういう感じになるかわからなかった。
新しい技を生み出すのは簡単ではない。技の威力や危険性、観客への見え方など考慮すべき点が多々ある。試合で使えるかどうかは、実際に本番で受けてみないと判断できなかった。
この役目は他のレスラーには任せられない。もし不備があったら、改良する必要も出てくるのだから。
(さて、どうなるかな)
ゲドキングの肉体がゆっくりと回り始める。ドワーフの人並み外れたパワーと安定した重心がなせる技だ。まるでヘリコプターの羽になった気分になる。あるいは生きたまま洗濯機の中に入ると、こんな思いをするのだろうか。
「オイ! オイ! オイ!」
観客の声援に合わせ、回転が速くなっていく。視界が急速に狭まり、目に映る天井が遠く感じた。同じ回転系でも、ジャイアントスイングを食らったときとはまた違った感覚だ。下手なアトラクションよりスリル満載である。
(こいつは、す、こし、け、計算が狂ったか)
自分で考案した技だが想定を超えていた。
思っていた以上に回転が速く、身体が縛り付けられたように動かない。だというのに回転はますます激しくなっていく。
三半規管への負荷は判断力や瞬発力を狂わせる。落下の際に受身を取ることが難しくなるのだ。ここまでに浅くはないダメージを受けている。落ち方を間違えるとマズいことになる。
もう充分なくらい観客にはアピールできたはずだ。本来なら投げに入っても良いのだが、未だに回転は収まらない。
観客の声援に当てられ、テンションが上がっているか。はたまた試合の熱気に吞まれ、熱くなりすぎているのか。
どちらにせよ、これ以上は危険な領域に突入してしまう。
(や、やっぱ練習と試合じゃ、ち、ちがうな)
やはり何事も試して見るべきである。自分以外のレスラーじゃ、もっと酷いことになったかもしれない。ここまで使わせなくて本当によかった。
どれだけ練習しても改良点や不確定要素が次々と出てくるのだ。いくらブックで流れを決めても、予定調和だけでは終わらない。
だからこそプロレスは恐ろしい。
(他の奴に使わせるときは、もっと)
寒気が走り、全身に鳥肌が立つ。脳が信号を放ち、肉体が激しく叫んだ。多くを語らずとも、瞬間的に察知する。
レスラーの経験が、磨き抜かれた五感が、優れたプロレス脳がある答えを導き出す。
この事態を招いた要因はいくらでもある。
油断という一言で片付けるのは酷だろう。気の緩みだけで終わらせるには不十分だ。ダンというレスラーを舐めた訳じゃなく、できない相手と高をくくってもいない。
むしろ誰よりも彼を評価し、必死に受け止めようとした。この試合にも前向きに望み、血が滾るような高揚感に包まれていた。
実際にこれだけの試合が出来るのだ。観客の盛り上がる様が嬉しくてたまらなかった。熱に浮かされ、天まで昇れるような気がする。レスラーとして喜びの中にいた。
だからこそ小次郎の頭から抜け落ちた。
リングに上がる以上――決して忘れてはいけないことを。
競技は関係ない。プロかアマかも問いはしない。年齢や性別だって構わない。
それは誰にも訪れる。どれだけ確率が低く、可能性が小さくても起こるかもしれないこと。
何よりも平等で、誰もが必ず背負うもの。
いつもの彼なら有り得ない。忘れたのはこの刹那だけかも知れない。
だが決定的な瞬間とはそういうときに降りかかる。
悟ったときにはもう遅い。
自らの終わり。
己に『次』など訪れないことを。
意識したときには投げ飛ばされていた。肉体は天高く浮き上がり、竹とんぼみたいにどこまでも飛んでいく。
回転を続ける肉体は自由が効かず、視線は天井に固定されている。状況を把握できず、何メートル投げられたかわからなかった。
世界から静かに音が消えていく。天井が遠ざかり、白い光が二つの瞳を包む。
全ての色が溶けていった――。
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