第3話
「俺のこと、お前の母さんからは何も聞いていないんだろう?」
どうせ、というニュアンスで彼が確認してくる。
僕は少し考えると、こくん、と再び肯定を示した。一度父とりやりとりをしていた母の言葉で、彼女に兄と弟がいるらしいと知った。そして考えないまま尋ねたら、
『クソたれの兄弟なんて、いないわよ』
と、強烈なお言葉を頂いてしまったのだ。
僕はあの日以来、母の過去や家族について詮索したことはない。でもそんなこと伝えられるはずもないよなと、僕はそう思って頷く返答に留めたのだ。
「――ヒトシゲ、だ。ナツミとは三つ違いの兄貴」
彼は名乗りながら、煙草を一つくわえて火を付けた。
返事がすぐに浮かばなかった僕は、ヒトシゲさんのその仕草に母を重ねた。唇の斜めに煙草をくわえ、不味いというような顰め面で紫煙をくゆらせる姿は、どこか似ている。
「はぁ。ヒトシゲさん、ですか」
僕がようやく口にしたら、彼が鷹揚に頷く。
「おっさんでも、伯父さんでも、構わんよ」
彼はそう言うと、無造作に僕の頭に大きな手を置いた。そして、そのまま下に押さえこまれるような力強さで、がさつにわしゃわしゃと髪の毛を乱された。
「いきなり、なんですか」
僕が戸惑い抗議する声は、虚しくも廊下に落ちるばかりだ。
不意に、僕の頭から重みが消える。僕が頭に手をやって身を起こすと、そこには、どこか寂しげな表情を顰め面に隠しつつ、苦笑いしている不器用な男の表情があった。
「ナツミに似てるなぁ。でも謙虚で礼儀正しいひ弱そうなとこは、全然似てない」
ヒトシゲさんは、続いて僕に何か言いかけた。
「ああ、でも、幼い時の――」
だが、ふっと彼は頭を振ると、煙草を口に当てて背を向けた。向こうから母のもう一人の兄弟、恐らくは弟の方が、正反対の性格を滲ませてそわそわと覗き込んでいた。
「ナツミに言っとけ。たまにはツジトさんの方からじゃなくて、自分からも連絡ぐらい寄こせってな」
煙草を持った手が、背中越しにひらひらと揺れた。僕は、父の名前が彼の口から出て、少し目を丸くした。ああ、だからあの日、母は兄弟がいると分かる言葉を父と交わしていたのかと察した。
押し掛け女房だった母。僕が知っている父の性格からすると、とくに迷惑をかけたのが母の兄弟であったのなら、あとで謝罪なりなんなりするだろうなぁと思われた。
頑固だったというから、もしかしたら一番に口論をして喧嘩姿勢で対立したのは、祖父と母の方であったのかもしれない。
そんなことを思っていると、他の喪服の方々の視線に晒されているのを気遣ったのか、セツさんに「さ、行きましょ」と促されて、僕は家を出た。
お爺さんの家の前には、先程乗ってきた車があった。運転席から息子さんの方が片手を上げて応えてきて、僕は車窓が全開にされている車の後部座席に乗り込んだ。
見届けたセツさんが、続いて運転席へと乗った。すると息子さんが、シートベルトをしめる彼女のかたわらから、僕を振り返ってこう言った。
「すまないね、アオイ君。自宅にね、これを取りに行っていたんだよ」
彼は、錆かかった長方形の缶ケースを僕に手渡してきた。それはアメリカ製の、大きさのお菓子缶だった。中身が詰まっているのか、ずっしりとした重量感がある。
「これは……?」
「君のお爺さんが、取っておいていた分のナツミちゃんの思い出の写真さ。十六歳で突然『結婚する!』て言って彼女が出ていったあと、余分に現像を頼まれたんだ。私は写真屋だからね」
彼は僕に、見事なウインクを一つして見せた。
唐突な用件で、僕はしばし呆けてしまった。やがて、ゆっくりとその重い菓子缶を見下ろした。
「……じゃあ、これ、全部母の写真が入っているんですね」
「ああ、そうだよ。十六歳までの思い出が、たくさん詰まってる」
そう言った彼が、用意が整ったセツさんの視線に気付くと、空気を明るく戻すようにわざとらしく大きな声を出す。
「さぁ! 那覇空港まで、ドライブと行こうじゃないか。途中、エンダーに寄ろうか。アオイ君は、食べたことがないだろう? エーアンド・ダブリュー、というハンバーガーだとかサンドだとかがドライブスルーで買えもするお店なんだけど。そこのポテトは大豆で出来ていて、とても美味いんだよ」
「オレンジジュースがとても美味しいの。私はルートビアが好きなんだけれど、若い子たちにはそれも人気なのよ」
セツさんが、家の中にずっと漂って引っ張り残っていた辛気臭い空気を、最後に吹き飛ばすみたいに笑顔でそう言った。
車が走り出すと、全開にされた車窓から、新鮮な空気が吹き込んで蒸し暑さも半減するように涼しくなった。
僕は、写真が収まった缶ケースを膝に乗せたまま、車窓からの景色を眺めた。色合いが落ち着いた青い空、まだ夏の残りが窺える濃い植物の緑。沖縄独特の甎屋根や、タンクを乗せた一軒家が、ぽつりぽつりと遠ざかって行く。
あまり信号もない一本道が、ぐねぐねとどこまでも続いていく。高台あたりまで進むと海が一望できて、窓から吹き込む風は、僕の髪や衣服をバタバタと打った。
「海の、匂いがする」
その強い風の中に紛らわせて、僕は思ってぽつりと口にした。
沖縄の美しい光景を眺めながら、僕は『砂漠の旅人』のことをぼんやりと考えた。きゅっと締めつけられていた胸は、どうしてか、もう、ほんのりと暖かくなっていて。
風を受けたまま、そっと目を閉じると海と緑の匂いがいっぱいした。
僕は明るい瞼の裏側に、あの油絵の乾燥した世界を浮かべた。
一人の男が、その砂漠の世界で旅をしている。たった一人、重い身体を引きずりながら、灼熱の砂道をひたすら歩き続けている。
そして、彼は、ふと立ち止まる。
眩むほどの青い空、見渡すほどどこまでも広い砂漠の大地――。
そこに自分がただ一人、立っていることをその男は思うのだろう。その絵は、見る者によっては、静止した風景のそのあとの想像や解釈も違うはずだ。
僕なら、と考えた。その絵の、続く先の物語があるとするのなら……僕ならきっと、彼は決して独りになり続けはしないのだろう、とも想像されるのだ。
あの砂漠の旅人の絵が、僕の中で止まっていた時間をカチリと進め始めた。
描かれていない途切れた先の風景で、彼はそこにもう一人の旅人がいることに気付く。そして足を踏み出したまま待っていると、その男はゆっくりとこちらへと歩いて来て告げる。
――やぁ、これはこれは。こんなところに先客がいたのですね。こんにちは。
――ああ、こんにちは。こんなところで人に会えるとは。あなたも、旅を?
――ええ、ずいぶん先まで行ってしまった人を訪ねに。
――そうですか。私も、ずいぶん先まで訪ねようと思っていたところです。
――なら、一緒に行きませんか?
――ああ、それはいいですねぇ。
……僕はそこで、ゆっくりと目を開いた。
眩しい世界が、色鮮やかに僕の視界いっぱいに広がった途端、鼻がつんとして胸の奥が熱くなった。彼は、誰かとの再会を思いながら絵を描いたのかもしれない。
その視線の先に、母を想像していたのではないか?
そう思ったら、目頭まで熱くなってきた。僕がこっそり目を擦ると、息子さんもセツさんも気付いたけれど、わざと気付かないふりでそっとしておいてくれた。
膝に抱えていた缶ケースが、日差しを受けてキラキラと反射していた。
砂漠の旅人 百門一新 @momokado
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