第2話
仏頂面に眉間の皺。それがお爺さんの特徴だったようだ。しかし、寡黙であったかと思うとそうでもなく、調子に乗るとひどく饒舌に物を語る人だったという。
頑固だが、我が強いというより、どちらかといえば正直な人。ストレートな話し振りに機嫌を損ねる人も一部いたが、ずっと続いている訪問者の数が彼の人柄を語ってもいた。それは新旧共に付き合いを続けている者が大半だった。
お爺さんは、骨董品、絵画、写真、風景観賞も好きな人だったようだ。奥にある部屋には、彼が趣味で集めた芸術品や、写真、自作の油絵なども収められていた。
その埃臭い倉庫部屋は、先に掃除がされて片付けられてもいた。紙や布で包まれた物が多く置かれていたが、油絵は数枚くらいしかない。
「老後の、ただの趣味の一環で始めたものだからと、あの人は描いた絵を、知人や友人に送るという楽しみも持っていたのよ」
部屋に辿り着くまでの間も、セツさんはずっと喋り続けていた。そこでようやく足を止めて、布が被せられている数枚の油絵を指で差してそう教えてきた時、僕は尋ねた。
「どうして、僕に色々と話すんですか」
「知って欲しいからよ。ほんの、少しでもいいの」
そう答えてきた彼女の物悲しげな表情に、僕は頷くことしか出来なかった。語らない母の代わりに、彼女が少しでも語り手になろうとしてくれているのだろう。
「見せたい絵があるの。こっちへいらっしゃい」
セツさんは、そう切り出すと再び動き出した。油絵のうちの一つへと向かう。
「若い子って、謎とかそういったもの、すごく好きだと思うのよ」
「はぁ。謎、ですか。また唐突ですね」
「描いた人が亡くなって、答えてくれる人がいなくなってしまったから」
セツさんの話によると、お爺さんはたった一つ、描き上げたてしばらくしたあと、あまり人に見せず隠していた絵があるのだという。
題名は、『砂漠の旅人』。
油絵を習っていた場所で描いたものだった。一緒に教室に通い始めた数人の知人が、傑作だと大絶賛した。絵の先生も「是非、コンテストに応募してみましょう」と言ったが、その途端お爺さんは「おおっぴらに見せたい絵ではないのです」と慌てて断ったそうだ。
それ以降、ずっとしまわれた。
セツさんは、特別な思いがあって大事にしている感じでもあったのだと言った。お酒を飲んだ際に、たまに気心知れた人に、チラリと見せてくれていたのだとか。
「普段が頑固で元気な人だったから、どんなことを思いながら、あの静けさが漂う素敵な絵を描いたのかしらって思って尋ねても、最期まで教えてくれなかったわ」
セツさんはそう言うと、布が被せられた一枚の絵の前で足を止める。
「なんだかね、少し恥ずかしがっている感じもあったの。彼にしては珍しいことよ」
「それが、『謎』なんですか?」
僕が尋ねると、彼女がちょっと笑った。
「ふふっ、そうなのよ。私や、彼を知る人達の、ちょっとした『謎』。見たどの人も、なんだかとても忘れられない絵だと言っていたわねぇ」
この室内の物を一旦確認して大まかに整理した際に、例の油絵の埃よけの布も新しいものに取りかえられたらしい。
セツさんが、そっと慎重に包みを外しにかかる。僕は部屋の風の出入りが悪くて、少し蒸し暑さで浮かんだ額の汗を拭った。木材に染みついた埃の匂い、線香の香が身体に絡みついてくるかのようだった。
「ナツミちゃんは、年を取ったお父さんのことを知らないと思うのよ。だから、代わりにといってはなんだけど、お爺さんが遺していったものを見てあげて欲しいの」
ああ、それで僕に、と僕は思いながら絵へと目を向けた。
布が外されたそこには、お爺さんの傑作という『砂漠の旅人』の絵があった。誰が描いた、ということを考えるまでもなく、人の目を引きつけるようないい作品と思えた。
濃い色使いではないけれど、またそこが絵の世界感を語っていた。ぼんやりとした空には所々に薄い雲、そのどこまでも広い砂漠の丘を一人の男が登っている。
中央寄りに描かれた男は、風景に対してひどく小さい。
彼は色褪せた古い服をまとっていて、頭には擦り切れたターバンを巻き、着重ねたぶかぶかの衣装を風に揺らしていた。背中に背負った荷物のベルトを両手で握りしめ、右足で砂を踏みしめた姿が描写されている。
描かれた男は、その場から、ふとどこかへ目を向けているような構図でもあった。まるで途切れた絵の先に、何かを見ているかのようだ。
そこには、砂漠の大地と空ばかりしかない。干からびた世界は果てしなく、そのたった一人の男以外に生命を感じなかった。
絵は、一つの物語を語るのだと誰かが言っていたのを思い出した。
この油絵は、まさにそうなのだろうと僕は思った。砂漠の男は、重い荷物を背負って旅をしている。もうずっと長いこと、たった一人で、砂の大地しかない場所を歩き続けているのだろう。
「素晴らしい絵よねぇ」
セツさんに話しかけられるまで、僕は時を忘れてしまっていた。
我に返った僕は、自分の胸がきゅっと締めつけられているのに気付いた。
「よくは分からないのだけれど、少し、寂しさを覚えてしまうわ」
「そう、ですね」
望郷か、見もしなくなった誰かか。たった一人、男が何を思ってどこを見ているのか、僕もとても気になった。
たった一人の旅人は、影を落としたままの横顔を僕に見せつけるかのようだった。
その時、家の外側で遠慮がちにクラクションが鳴らされるのが聞こえた。
どうやら、セツさんの息子さんが戻ってきたらしい。僕へのお迎えだ。先程沖縄入りしたものの、僕はようやく取れた次の飛行機の便に間に合わせて、空港へ行かなければならない。
「迎えが来たわ、行きましょう」
絵を丁寧に包み直したセツさんに促されて、僕は「はい」と頷いて答えた。けれど頭の中には『砂漠の旅人』がずっと鮮明に焼き付いて離れなかった。
廊下を戻るように歩いていると、不意に他人行儀に声を掛けられた。
「帰るのかい」
玄関に向かっていたセツさんが振り返り、僕も喪服の男が立つ畳間の入口に顔を向けた。
母の兄弟だ。しかし、それが長男なのか次男なのかは、分からなかった。ぼんやりと彼を見つめ返した僕は、ややあってから肯定するように会釈だけを返した。
その男性は、僅かに目尻の皺を寄せた。彫りの深い鋭い目が、疲労なのか父と死別した想いなのかを漂わせて細められる。
「もう、帰るのか?」
男がもう一度、今度はゆっくり聞き取りやすい口調で言ってきた。薄い唇の笑みは、無理に笑おうとしているのか、皮肉気に微笑んでいるのか判断がつきかねた。
畳の部屋から、喪服の大人達がこちらをチラチラと見ながら、僕の分からない言葉を喋っている。
どうやら、声での返事を求められているらしい。話すのも嫌なのだろうかと推測していた僕は、こくんと頷いてからこう答えた。
「日帰りなんです。飛行機の予約が早いもので。それでも構わんから行ってこいと、母が」
今の時期、まだ沖縄行きの便はかなり込んでもいる。
行きと帰りで五万。結構な金額だったのを僕は思い返す。すると彼が、そっと目をそらし、ちょっと苦笑交じりに笑った。
「アイツらしいな」
彼が独り言のようにそう呟いた。アイツ、と唇からこぼれ落ちた言葉は、とても親しみが込められて愛情深いように僕は感じた。
ああ、やはり、彼らは母のことは一つも嫌ったり怒ったりしていないのだ。
僕はそう思った。今でも、僕の父のことを怒っていたりするのかなと考えていると、男が腕を組んで、再びちらりと僕のことを見てきた。
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