砂漠の旅人
百門一新
第1話
一人砂漠をいくその旅人は、何を思っていたのだろう。
どこかにあるというオアシスか。カラカラに乾いた喉を潤す水か。それとも、孤独な世界にたった一人の人間を――?
あるいは、その孤独を潤す、名も分からぬ一輪の花か。
帰りの飛行機の中、僕は一度見たその『砂漠の旅人』のことを、またしても思い返していた。
◆
丘が連なる風景。その端においやられるような農村に、お爺さんの家はあった。
とくに自分の出身について語らないでいた母が、十六歳の時に飛び出した故郷は、なぜか妙に懐かしい空気感を漂わせて僕を迎えた。
この日、一家の代表という名目で、僕は大学を休んで小さな旅行鞄を抱え、沖縄へと一人やって来た。
到着したのは、午後の四時。東京はシャツの襟を合わせなければ肌寒たったのだが、沖縄は時間から切り取られたかのように、傾き始めた日差しは初夏みたいな柔らかさ、そして清々しい青空の光景が広がっていた。
東京を出た時は、寒々とした曇天に覆われていた。それなのに那覇空港に降り立つと、蒸し暑さとカラッとした青い空が広がっていて、ぽかんと口を開けてしまった。薄い長袖ジャケットをはおっていた僕は、馬鹿らしくなって余分な荷物としてそれを鞄に引っかけたのだ。
「遠いところ、よく来たねぇ」
数年前に他界しているお婆さんの、妹さんという狩俣(かりまた)セツさんが、息子の運転する車で僕を出迎えてくれた。その際に彼女は、後部座席に僕が座ると、今一度じっくりと助手席から見つめて、
「ナツミちゃんの面影があるねぇ」
と、僕越しに母を思い出すように、しっとりと濡れた目で僕を見つめ、泣きそうな顔に微笑みを浮かべてそう言った。
母はとても気の強い人だったから、僕の抑揚もよく分からぬ表情と、とくに目元は彼女を東京に連れていった父にそっくりだとすぐに気付いたはずだ。
でもセツさんは「母の面影がある」という感想をすると、雰囲気や目の方には触れずに話題を変えていった。
沖縄本島の、南部にある南城市に亡くなったお爺さんの家はあった。
風化が窺える色褪せたコンクリート塀。所々欠けたそこには、シダ植物がぎっちりと絡みついていた。
その内側には広い敷地があって、中に一軒家がポツンと建っていた。玄関まで続く道には砂利と刈られた雑草の跡。硝子戸は曇り、下部分は少し割れてしまっていた。
――そして、葬式の飾り付けがされてある。
火葬も終わって、今は初七日待ちであった。彼の親戚が多く出入りし、彼のたくさんの知り合いが、訃報を知って遠方から訪ねて線香をあげに来てもいるところだった。
「沖縄は初めてですか?」
音の鳴る開閉の悪い玄関の引き戸を、運転手を努めてくれた息子さんが、ぐいぐいと開けるそばからセツさんが僕に訊いた。
「はい。この二十年、来たことはないです」
「ナツミちゃんが、ここで育ったということは?」
「初耳でした。長崎育ち、としか聞いていませんでしたから」
他にも、群馬、埼玉、愛知県出身、などと適当な回答を聞いてきたことに関しては、僕は黙っていた。
自分のことを答えなければならなくなった時、母は不機嫌そうに唇を尖らせて県名だけをあげた。訊き返せない雰囲気であったし、それが適当な単語を返しているのだとは子供の僕にも察せた。
彼女の父親で、ここの家主である僕のお爺さんは、身体が少し悪かったそうだ。
母に似て、彼はとても頑固な人であったらしい。お婆さんが亡くなったあとも、頑として一人ここで暮らすことをやめなかったのだとか。
二人いる息子夫婦が世話を焼いたというが、手間がかかるような人ではなかったという。元々家事全般に長けていて、相変わらず庭での野菜作りに励んでいた。ある日、息子達に「そろそろ逝くかもしれん」と告げた後日、病院に緊急搬送されてぽっくり亡くなったのだとか。
「元気な人だったからね。本当に、あっさりいなくなってしまった感じがしたわ」
お爺さんの奥さんだった人の妹、セツさんは寂しそうに言葉をもらした。頑固ではあったけれど、人が良くて愛されていたようだ。
彼女の息子さんが声をかけて、僕は一旦、セツさんと二人で家に上がった。
まず向かったのは、線香があげられている広い畳間の部屋だった。そこにはお爺さんの息子夫婦も喪服姿でいたが、遠巻きに僕を見るだけでじっとしていた。
もしかしたら僕越しに、姉を連れ去っていった男を重ねているのかもしれない。
母より十二歳年上の父は、母の家族に門前払いをくらった日から、一度たりともここへは来ていないらしいし。
駆け落ち同然で出ていくことを決行したのは、母の方だった。だが直前まで口論をしていたとはいえ、それは彼女を思ってのもので、兄や弟としてはポッと現われた男に駆け落ちされたと思っているのだろうか。
彼らの彫りの深い目鼻立ちと、冗談の通じそうにもない厳しい印象のある目元も、どこか母を思わせた。母さんが男だったらこうだったのかもしれない、と、妙な想像を僕の中に浮かばせた。
訪問者が線香を上げるよう整えられた畳の部屋には、御遺骨と遺影があった。
「さ、どうぞ、線香を上げていってください。お孫さんが来てくれて、彼も、きっと嬉しいでしょうから」
息子夫婦のそばから、セツさんと準備してくれた知らないおばさんが、そう言って僕に、母の分と含めて二本の線香を渡してくれた。
孫、と言われて言葉の返しに困る。
僕は、手渡されるまま線香を受け取ると、教わるまま線香を立てて正面で正座をし、手を合わせた。
独特の匂いを漂わせて立ち昇る線香。手を合わせながら、僕は写真越しに初めて見るお爺さんの顔をぼんやりと見つめ、不謹慎にも母の面影を探していた。彼女が育ったこの家に、僕の背中をじっと見ている彼女の兄と弟に、僕の知らない母の過去を感じ取ろうとした。
「アオイ君、こっちにいらっしゃい」
空気が張り詰めるような居心地の悪さに、セツさんは眉根を寄せていた。申し訳なさそうに肩を縮めてそう言うと、さっと僕の手を取って廊下へと連れ出す。
途端に、僕のいなくなった畳の部屋から、ひそひそとした囁きが始まった。けれど沖縄の方言は、僕には全く分からない。
「なんて言っているんですか?」
「平気な顔をして尋ねられてもねぇ……」
「ああ、すみません」
他人事で謝った僕を、セツさんが大きな目を丸くして見た。
「あなた、不思議な子ねぇ。ヤマトの人って、みんなそうなの?」
もっとキビキビとしている印象でもあるのか。僕はここへくるまで少しだけ調べた沖縄の、のんびりとした気質を思い返しながら、ぼんやりと首を横に振った。
「違うと思います。どちらかというと、僕はおおよその感心事が薄いんです」
セツさんは、「そう」と困った様子で相槌を打った。彼女の息子さんは、一旦別件でここを離れてしまっている。その迎えがくるまで、まだ時間があった。
「こっちへいらっしゃい」
遠慮勝ちに声を掛けると、彼女は当初の予定通り「少しでも祖父を知っていって」と言って、僕を家の奥へと案内した。
お爺さんは趣味で、十年ほど前から油絵をやっていたという。
――そこで僕は、彼が遺した『砂漠の旅人』と出会った。
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