第35話
最終日、ラナとイコは、変わらず二人で視察を行っていた。ブースの入れ替えが行われて、初日とは違った表情を見せている。ある朝、思い立って観葉植物の向きを変えた時、葉の並び方により新たな表情を見せるのに似ていた。
「あれ?ラナさん、あそこ」
イコは、とあるブースを指さした。
「あん?…あぁ、なるほど。そう言えば、この前お世話になったな」
ラナは、イコの指先をてきとうに視線で追いかけて頷いた。イコが見つけたのは、ハムサン社のブースだった。そういえば、自己完結をしてしまって、ラナと夢の件に関して共有していなかった、とイコは後悔した。しかし、ラナの反応を見るに、彼女は何も覚えていないかのようだった。それでも、営業に来た企業ということもあり、挨拶をするためにラナはブースに寄った。入り口の側には、担当者が立っている。
「どうも、先日営業に来ていただいたマイクロスクロール社の者です」
「…上の者へ確認して参ります」
ラナの挨拶を聞くと、担当者は少し焦った様子で奥へ下がってしまった。もしかするとパスカードを見て、ネームバリューに驚いたのかもしれない、とイコは思った。ラナは、怪訝な顔でイコに視線をやると、イコも首を左右に振うことで答えた。そんなビビることないのに、という意図を交換している。担当者のフットワークは相当に軽いようで、下がってから数分で二人の下に戻ってきた。
「お待たせして申し訳ございません。確認致しましたが…他社とお間違いでは?」
「…そう…ですか?申し訳ありません、わざわざお時間を頂いてしまって」
「いえ、そこまでの手間は。勘違いは誰にだってありますから。よければ、我が社のブースを見ていって下さいね。今日は魔導の祭典ですから、難しい話はなしにしましょう」
「心良い方でよかったです。では、少しだけ拝見させて頂きます」
ラナとイコは、ブースに入り商品を視察した。四方四メートルしかないブース内には、「魔導正否判定魔導陣」はなかった。一押しの商品であれば、発売済みでもブースに並んでいることもあるだろうという推測は、現実の前に儚く散っていった。暫くブースを視察し、担当者と会話を続けたが、素晴らしい教育がなされた社員でしかなかった。とてもサキュバスを使って営業を勝ち取ろうとするような企業には見えない。営業に来た事実を認めてしまえば、マイクロスクロール社との確執が生まれてしまうのではないかと、誤魔化していた可能性もある。しかし、それを言及する場としては、エキスポは適切ではなく、イコたちは潔くブースを後にした。それでも懸念すべき違和感のようなものが、脳裏にこびりつている。この疑問をてきとうに拭ってしまえば、何か重大な事態を招くような気がしてしまい、イコはあの営業の日を念入りに思い返していた。隣を歩くバルは、そんな様子のイコを疑問気に見つめるだけだった。
「ねぇ、あんまり余計なことを考えていると、人にぶつかっちゃうわよ?さりげなく歩いてるどこかの代表取締役社長なんかにぶつかれば、笑えない事態を招きかねないわよ」
「………」
せっかくのラナの忠告を、イコは黙殺してしまった。チラリとスタークがラナを見るも無視は恒例行事であり、特に怒る様子もない。しかし、緊急事態を避けるために、歩行速度を自然に落としていた。そんなラナの優しさに気付かず、イコは依然曖昧な記憶を追いかけ続けていた。蓄積された記憶を一枚ずつ剥がしていく作業は、人に興味のないイコにとって、見知らぬ言語の辞書を追うのと似ていた。
「ラナさんは、ハムサン社が営業に来た日に何か夢を見ましたか?」
「急に話始めたと思ったら…何の話よ。そんな前の話は覚えてないわねぇ」
「とても重要なことです。何としても思い出してください」
ラナがイコを見ると、彼は普段よりも随分と真剣な表情をしており、魔導に関係する事柄以外でこんな表情をするのは、とても珍しいことだった。イコの感じる危機感の欠片がラナにも芽生え、ようやく記憶を辿り始める。
「あぁッ…そういえば、確かに夢を見た気もする。随分と曖昧だけど、まぁ夢だから当然のことよねぇ…良い夢だったとは思う」
何故かニンマリといやらしい笑みを浮かべて、ラナはうっとりと話していた。彼女の表情を見るに、その良い夢を掘り下げるのは得策ではない気もしたが、違和感を取り除くことを優先すべきと、イコは更に会話を深めることにした。
「その夢って?内容まで思い出せそうですか?」
「…美男子が来たのよ。それも絶世の美男子。それなりに広い世界を渡り歩いた私の人生においても、拮抗する者すらいない程に美しい顔立ちだったわねぇ」
欲求不満だっただけか、と会話を終わらせることはせずに、イコは続きを待った。
「お互いに自己紹介もせずに、私が手招きをすると、彼はこっちに歩いてきたの。そっと顎を撫でてあげると、あの子は…うっとりとしたのよ。上品なペルシャ猫みたいな子で…とにかく私は夢中になったわ。あの子じゃなかったら、この夢も忘れてたかもしれない。ちょっと私よりも背が低いくらいで、膝に座らせてあげると、いい香りがしたのよねぇ」
夢ということもあり、責めることは出来ないが、赤裸々に語られるラナの性癖は、どことなくイコには受け入れがたいものだった。ラナは、所謂ショタコンという性的志向に魅入られているのかもしれなかった。
「それから、あの子は話を聞きたがった」
「…話を?何を聞かれたんですか?」
「えっとぉ~確か新計画に関する話だったかな。まさしく今日発表のやつよ。随分と話のわかる子で、愚痴を聞いてもらえたの。こういう仕事だから…ストレスもあるし」
ラナは、額を指でこねくり回しながら話していた。どうにも、思い出すのにも苦労するような状態らしい。ラナに夢を見せたのは、おそらくはインキュバスだろう、とイコは考えていた。彼女に夢を見せてから、それに関する記憶を曖昧にした。どちらの淫魔も、夢を媒介に人間の脳に干渉することが可能で、逆にここまでラナの記憶が残っていたのは、ある種のメッセージである可能性もあるのかもしれなかった。不意に、ようやくイコの記憶にも取っ掛かりできた。そういえば、印象に残ったのは、夢の中での出来事ではなく、営業に来たハムサン社の女性社員の胸元だったのだと辿り着いた。
「ラナさん、ユメリルさんの胸元を見ましたか?」
「…変態!今後はしっかりと仕事に集中できるように教育してあげるわ」
軽蔑した!とラナの表情に書いてある。
「…いや、そういうことではなくて」
イコが弁明しようとしたタイミングで、ラナはマイクロスクロールを見た。
「おっと、もう時間よ…ってあら、凄いわねぇ~」
ラナの視線の先には、激流のように流れてくる人ごみがあった。時計を見ると、もうすぐマイクロスクロール社の新事業発表会がステージブースで始まる時間だった。彼らは、前席を確保しようとする観覧者たちなのだろう。自社の影響力に、イコは素直に驚愕していた。大量の人ごみは、抵抗する気力を奪い、二人を分断させて遠くに流した。どちらにせよ、目的地は同じなので、二人は川の流れには逆らわなかった。この状況ならば、どれほど人に肩をぶつけようとも、言い訳が立つはずだと、またイコは思考の海に沈んだ。ポヨポヨと揺れるスタークは、イコの頭上で器用にバランスを保っている。
…もし本当に営業なんてなくて、ユメリルさんがハムサン社員じゃなかったとしたら、彼女たちの狙いは何だったのだろうか。新事業を狙う、どこかの産業スパイか?いや、あの胸元の羽、あれは…あれが鷲の羽だったとしたら?
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