第36話
イコが沈んでいる間に、人ごみは流れを止めていた。顔を上げると、ステージが目に入る。そこでは、マイクロスクロール社が発表の準備を進めていた。…そういえば、今日は首都直下魔素脈化計画のテストがあるんだったか。
「…そうか、テロリストは…今日この日の為に」
小さく呟くと、イコはラナの姿を探した。一刻を争う事態であるというのに、辺りは人海と化し、動くことすら困難な状況である。このままテストを行えば、テロリストたちの狙い通りになってしまう。どうするべきかと周囲を見渡すも、既に事態は進行し過ぎてしまっている。間に合わない、そんな思いから生まれる焦燥だけが、この場で自由だった。
「やぁ。そろそろマイクロスクロール社の発表が始まるね」
「…と、父さん?」
虫が這いずるような感覚が、背筋を駆け上った。いつの間にか、隣にアデルが立っている。この人ごみの中を、どうやって移動してきたのだろうか。それとも、イコが思考に気を取られていただけで、ステージ前に流れ着いた時点で、アデルは側にいたのだろうか。ただでさえ緊急事態が起ころうとしているなか、たった一つのカオスが、イコを新たな思考回路へと誘導しつつあった。
「君のいる企業だからこそ、素晴らしい発表を期待してしまうよ」
「…今日は、どうしてここに?」
頭上では、スタークがブルブルと震えていた。イコには感じることの出来ない冷たい魔素が、彼から溢れ出しているようだった。周囲を観察すれば、イコは震えているのがスタークだけではないことに気付いた。
「どうしてって、招待状を届けてくれたのはイコじゃないか」
「でも、現代魔導には興味がなかっただろ」
「そうかい?今回の首都直下魔素脈化計画は実に面白いと思うよ」
スゥッと、イコはアデルを見た。
「…何故、これから発表される計画を知っているんだ?」
アデルもまた、イコに視線を合わせた。彼は無表情だった。
「…今日は質問ばかりだね。イコの届けてくれた手紙に書いてあったんだ」
「バルからの手紙は、先に俺が読んだ。内容も知ってる」
「…ふぅ、そうか。それにしても、どうしてイコはここにいるんだ…本は?」
イコから顔を逸らして、アデルはステージに視線を戻した。
「あの本なら読んだ。何の変哲もない一冊の凡庸な本だった」
「そうか。表紙をめくらなかったのか。きっとイコは、納得してくれないと思って、せめて目を逸らしてくれればと思っていたのに。どうやら、君が私の対抗馬になるようだ」
横から覗くアデルの瞳には、なんの光も感情も、ましてや野望など宿っていなかった。これから起こることの全ては、何年も前に手帳に書かれた予定の一つでしかない。当然のように全ては実行され、こなすだけの予定しか待ち構えていない。無感情なアデルの表情には、イコとは異なり、何の焦燥もなかった。淡々と、全てを終わらせようとしているかのような、無音の中にある恐怖のようなものが、イコの周囲を支配し始めている。それは盛大な発表を待ち構える、観客たちと同じ感情の動きだった。
「さぁ、ショウが始まるよ」
「道は他にもあるはずだ」
「それは違う。今から道を創造するんだ」
「御来場の皆様、これよりマイクロスクロール社より発表を始めさせて頂きます。本日はステージまでお集まり頂き、誠にありがとうございます。さて、百聞は一見にしかず、まずは私共が開発致しました画期的な新機構を、ご覧ください!首都直下魔素脈化システム名付けて「ツリー・ルート」…起動!!!」
ステージに上がったのは、どこで雇ったのかもわからない営業に長けたグラビアアイドルだった。彼女は軽快に司会を務め、開始早々本命を起動してしまった。イコが何か言うよりも早く、事態は動き続けている。大雨の激流に人が逆らえぬように、アデルと出会ってから今日までの日々がイコの脳内に流れて、勢いに逆らえないことを悟った。
「あれっ!?」
壇上では、金属製のパネルに何も起きず、従業員が集まって騒ぎ始めている。もう何もかも間に合わぬことを悟ったイコは、静かに隣を見た。
「魔素は、金属板に送られるはずでは?」
「既知を探るべきではない。時間の無駄だよ」
瞬間、壊れた蛇口から水が溢れるように、アデルの全身から魔素の奔流が天へと立ち上った。あるいは、噴火を間近で見ることが出来たなら、同様の感覚を覚えるのかもしれなかった。間近で振るわれる自然の猛威を前に、何も出来ぬ人類の虚弱さを学ぶのだ。
「さぁ、世界を変えよう」
淡々と会話を続ける二人の周囲からは、いつの間にか人海は蒸発していた。人類史上稀にみる緊急事態を、本能により察知したようだった。大手企業が参加するエキスポ会場において、警備員のみならず、腕前に自信のある魔導士が何人もいるはずだというのに、いかにアデルの放つ魔素量が尋常ではないのか、蒸発した人海が物語っていた。しかし、警備員だけは蒸発せず、アデルに立ち向かう為に十人ほどが集まってきた。
「動くなッ!」
同じ服装をした、男7女3の小隊が駆けつけた。魔導社会に置いて、力量の差は性別に起因せず、魔素量で決まることがほとんどだ。しかし、警備会社は女性人気がない。
「二人とも手を挙げて、魔導記憶機構の装備を解除するんだ!」
部隊長と思われる女性が、とても厳しく甲高い声で二人をまくし立てた。…俺もか、とイコは直ぐに離れなかったことを後悔していた。
「イコがマイクロスクロールを外してくれれば、この後がずっと楽になるんだが」
「なら、外さない」
「はぁ…君は本当に頑固だ」
「三秒以内に装備を解除しなければ、反撃の意志ありとする。3・2――…」
カウントが進むも、二人に動く様子はない。地面に固定された石像のようだった。
「――…1、攻撃準備開始…拘束魔導を起動!」
各国のVIPとも言える企業のTOPが集まる祭典では、容赦なく危険因子は淘汰される。交渉など一切なく、十人が一斉に拘束魔導を起動した。警備員たちの起動した魔導陣から、一斉にイコらへと黒い鎖が向かっていく。起動に十人を必要とする複合魔導「悔恨の黒い楔(ファントム・チェイン)」が起動、危険性を理解して咄嗟に離れるイコとは違い、アデルはその場に立ち尽くしたままだった。標的は不動のアデルに定まり、彼の四肢に鎖が巻き付いた。鎖には両手両足を左右へと展開するように力が込められている。しかし、未だにアデルは不動の石像のままで、十人がかりの魔導にも関わらず、体を動かされることはなかった。そして、ゆっくりと口角を持ち上げると口を開いた。
「…で?」
たった一文字、呼気と共に溢れた魔素が、警備員たちを戦慄させる。アデルは、まるで何もないように警備員たちへ歩を進めた。すると拘束魔導は、砂糖菓子のように砕け散り消え去った。風に巻き上げられた砂漠の砂のような魔素が、サッと地面に散っていく。
「隊長!攻撃魔導の起動許可を!」
焦燥に満ち溢れた震え声が、全力の抵抗を隊長に催促していた。よほど複合魔導に自信があったのか、隊長と呼ばれる女性は、戦慄から復帰できていない。そんな彼女の状況を悟り、隊員の一人が指示を待たずに攻撃魔導を起動した。
「断ち切れッ!「剣の摩天楼(ギガンテス・ブレイド)」」
エキスポ会場を任されるだけあり、警備員の手から莫大な魔素による特級魔導が起動された。十メートルほどの光の剣が、アデルへと振り下ろされる。魔導を起動する様子のないアデルを見た警備員は、勝利を確信したのか笑みを零した。そんな彼の安堵は、ゆっくりと振り上げられたアデルの人差し指により崩れ去る。莫大な魔素による光の剣は、アデルの人差し指に接触すると、おもちゃの木剣のようにへし折れてしまった。
「邪魔だよ」
少し前を歩く人が落とし物をした時のように、アデルはスッと右手を警備員に向けた。男は瞬間的に車に衝突されたかのように、後方へと吹き飛んでいった。薄い仕切りにより設けられたブースをいくつも破壊しながら進み、分厚い競技場の壁にぶつかることでようやく停止した。彼の周りには、濡れたティッシュを壁に叩きつけた時のように、血しぶきが飛散している。遠巻きでわかるほどに、完全に警備員は絶命していた。この惨状を招くまでに、アデルは魔導を一度も起動していない。仲間の死や、超常たる驚異の出現による恐怖や、この空間を包み込むほどの魔素に覆われて、警備員たちは完全に思考停止していた。蒼然たる恐怖を目の当たりにした時、人は蛇に睨まれたカエルをなぞった。
「スターク、このままじゃ部が悪い。少し頼みたいことがあるんだが――…」
「…わかった。必ず成し遂げて見せよう」
イコの頭上からポヨリと降りると、スタークは見た目通りの鈍重な速度で、ゆっくりと移動を開始した。魔素を探知することにより、アデルにもスタークが見えているはずだというのに、彼がスタークを止めることはなかった。今更事態を止めることは、困難だと考えているのかもしれない。その間にもアデルは、警備員たちに手を向けて、何かをしようとしていた。彼らは恐怖のせいで、逃げることすら出来ないようだった。そうして、イコはアデルの前に立ちふさがった。
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