第30話
脳を保全するいくつもの血管の中に、その枠組み以上の存在が暴れまわる。二日酔いの朝は、そんな途方もない頭痛が脳細胞を破壊して回っているようなものだ。しばしばと目を開いてからも、イコはしばらく天井を見上げていた。
「酒臭いのう」
と、スタークが窓を開けた。部屋に新たな風が吹き込むと、元々の室内を支配していた酒臭さが存在感を増し、イコの口からの呼気と鼻をループした。繰り返される不快感が、休日の喜びを汚し続ける。何故これほどのリスクを背負ってまで、酒は止められないのだろうか。意味のない自問自答によって、休日という限りある時間を、匠のカンナ掛けのように薄っぺらな削りカスに加工していった。
「酒に脳細胞を焼かれても、これほどの魔導を開発できるのだから、たばこや酒が人を殺すというのは、意味のない警告なのかもしれぬ。生き永らえた時間だけに人としての価値が見いだされるのならば、誰しもが王にさえなりえるであろう」
「…二日酔いの時に、あんま難しい話をするな。頭痛がダンスするだろ」
「ふむ、休日を摩耗させるには、二日酔いは見合わんだろう?吾輩が思うに、早々に頭痛とのダンスを止めて、魔導の開発でもするべきだと思うがな」
「俺だってそう思うが、金曜日ってやつは理性を崩壊させるんだよ、俺は悪くない」
スタークに急かされるまま、ようやくイコは重たい腰を上げた。フラフラと踊るように窓へ近づくと、そこから顔を出した。室内のアルコール臭から逃れ、新鮮な空気で肺を膨らませるためだ。匂いから逃れれば、頭痛が少しはマシになった気がして、休日に対する礼節が彼の頭に戻る。さて、何をするべきか、と考えるようになると、大いなる自由意思を排斥するために、我が家へ飛んでくるハトが見えた。
「あん?…伝書鳩…か?」
半歩窓から下がると、窓枠に一羽の鳩が留まった。職場ではないのだから、手紙や書類はポストに投函されるはず、なのに、ハトはつぶらな瞳でイコを見つめていた。今時珍しく伝書鳩を普段使いする人物に、イコは心当たりがあった。定期的に来る鳩を見ると、もうそんな時期かと頭をかきむしる。
「今日の予定ができたな」
手紙を開きながら、怠惰を叱る親のようにイコを急かしたスタークへ声をかける。一枚目に短文が添えられ、二枚目に魔導陣が描かれ、三枚目はエキスポの招待券だった。短文だけは、イコへ向けられたもので「わが師」へと書かれている。
「ほぅ、というと?」
「父さんに用ができた。妹弟子からおつかいを依頼された」
「イコ殿の父親…この前の化け物か!?」
「おいおい、仮にも居候の分際で、家主の親を化け物呼ばわりかよ」
「っと、悪気はなかったのだ。すまぬ」
スタークは、ぽよぽよと謝罪した。
「まぁ…」
――義理だけどな、と言葉を続けようとしてイコは口を閉ざした。もはやアデルは、イコにとって実の父親のようなものだ。あえて関係性を宣言することは、自ら遠くに突き放す行為に似通ってしまう気がした。それと同時に、自分を捨てた親を手繰り寄せているのかもしれず、血を求める人間としての本能に嫌気がさした。
「ついてくるか?」
「正直なところ少しだけ恐ろしいが、イコ殿ほどの人物の師ともなると、吾輩の触手がビンビンに反応しているぞ」
触手が反応するとは、スライムらしい例えだとイコは感心していた。しかし、スカル・スライムは、スライム科の中で触手のない無触手族に分類される。居候という身分とも相まって、皮肉的なダブルミーニングが成立していた。
「ならさっさと向かうとしよう。今日中に用事を終わらせるためにもな」
イコはいつもの服を手に取った。職場と何ら変わらない服装で外出しようとするイコを見たスタークは、魔導以外には無頓着な彼の本質に気づいた。一定の才能の所持者は、その一面以外の全てが無地のサイコロみたいなもので、彼の場合は魔導という文字が書かれた面がそれに該当している。イコという人間の無地の面に、これから先、何かが記入されることはあるのかと、スタークは大空に思いをはせた。
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