第36話

東先道諸国に1つの噂が広がり始めたのは、夏も終わりを迎える頃のこと。




「藻塩潟に行けば病気や怪我の治療をして貰えるらしい」




「新しい城柵が出来て、そこに行けば当座の生活に必要な物をくれる」




「城柵で柵戸きのへとして戸籍登録して貰えるらしい」




「反乱に加わっていても、改心して村に戻るか農事をすれば、許される」




 それは反乱に加わっている夷族のみならず、夷族に融和的な農民や職人、商人の間にも広まり、大農民や武民と言った夷族と敵対的な者達にも届く。




 それはやがて国衙に立て籠もる、硯石為高の耳にも届いた。












 東先道広浜国葭池郡とうせんどうひろはまこくよしいけぐん・国府真佐方こくふまさかた






 情勢は相も変わらず。




 今日もちらちらと森と焼けた畑の間を行き来する夷族に怯え、国司達は国衙の奥深くに隠れて活動を続けていた。


 国衙の建物は損傷が酷くなり、外郭も白壁の面影を既に無くしている。


 素人臭い戦支度もされているだけましで、最近は焼けた蔀戸や落ちた瓦も修復されること無くそのまま放置されていた。




 しかし、為高は国衙の中央にある官倉と私財倉庫だけは固く守らせ続けており、神殿や国衙院が焼けたまま再建すらされていない状態にも関わらず、倉庫群は完全に守られていたのだった。


 その焼け焦げた国衙院で、木の焦げた臭いに顔をしかめつつ行武あての書状のありかを確かめていた硯石為高。




 書状とは他でも無い、東先道5か国の国司達から集めた委任状と国政の引渡状だ。


 行武がこの真佐方に入らば、すぐにもこの地を脱出せんと準備を進めている最中に、為高は大熊手力彦おおくまたぢからひこからの報告を聞いた。




「夷族の叛徒共が、藻塩潟に続々と向かっておるようです。藻塩潟に征討軍が設けた城柵で戸籍が登録され、農地が給され、生活に対する無償援助が行われているようです」


「くっ、糞ジジイが!?噂は本当だったのか!」




 既に為高も行武が藻塩潟もしおがたに城柵を築いて夷族討伐に入ったことは掴んでいたし、その後最大勢力でもある軽部麻呂かるべまろを降したことを聞き、ほっと胸をなで下ろしていたのだ。


 しかし、未だ街道には夷族や山賊などがはびこっているため、国衙を出て京府へ向かうのは危険と判断し、行武の到着を待ち焦がれていたのである。




 このような中、夷族を討伐しに来たはずの行武が夷族を懐柔して回っているという話を聞いたのは、大農民の1人からの注進だった。


 曰く、夷族の叛徒に土地や戸籍、農具を宛がって藻塩潟の土地を開拓している。


 曰く、各地の叛徒に呼びかけ、恭順と物資の提供を同時進行で進めている。


 曰く、藻塩潟の城柵に楠翠国からの船舶を呼び寄せて物資の搬入や商売を始めている。


 曰く、無利子で種籾を始めとする種子を農民たちに貸し付けている。




 大農民や武民からすれば、行武の行っている行為は既得権益の侵害に当たる。




 反乱のせいで思うように街道が使えず、物資の売買や搬送に難渋している自分たちを余所に、行武は勝手に海路を開こうとしており、しかもそれを護衛して安全に運行できるだけの武力を持っている。


 征討軍という公的で正当性のある軍隊の他に、夷族の叛徒たちまで取り込んでしまえば、武民や大農民が売りにしてきた私兵集団による武力が通用しなくなる恐れがある。




 現に、行武のもとには軽部麻呂ら夷族の大集団が続々と服属している様子だ。




 治安が向上したことや行武が実施した税の低減策は顧みられず、東先道の武民や大農民たちはその権益が奪われてしまうと言うことだけに危機感を持ち始めたのだ。


 それには彼らが対して来た朝廷の人間、もっと言えば貴族達が、硯石為高に代表されるような強欲で傲慢な者ばかりであったことも影響している。


 つまり、税の軽減などと言う政策が実際に行われているとは信じていないのだ。


 現に硯石為高は、夷族の叛徒を押さえるために武民達を動員する際に税を軽くすることを約束したが、今やそれは完全に反故にされている。




 それに、他の分国と異なり、東先道は夷族の力が強く、また人口も多い。




 武民や大農民にまで成長出来たとは言え、起源は朝廷が植民した農民であり、その数は夷族より絶対的に少ないのである。


 故に、このままでは権益が奪われた上に夷族に追い出されてしまうと考えて、せめて自分達が今持っている権益だけでも守ろうと、悩んだ末に為高への注進に及んだのだ。


 おまけに広浜国だけで無く、東先道諸国に根を張る夷族のそれぞれの大首長達が、どうも行武に誼を通じている雰囲気がある。




 それが本当であれば、由々しき事態だ。




 夷族らの土地を侵奪し、人を小作人として酷使し、果ては財貨を奪って成り立っている武民や大農民。


 彼らの権益が大いに侵されてしまうばかりか、行武が整えつつある海路は、彼らの交易や納税代行で得ている利益をも奪ってしまうことになる。


 大農民の注進を聞いた為高は直ちに手力彦に調査を命じ、その結果がたった今もたらされたのである。


 報告の内容は正に聞いたとおりのもので、行武の行動は大農民や武民達に留まらず為高たちの権益を侵すものでもあった。




「しかし、まずいことになった。ジジイが叛徒を降したとすれば、わしらの所行があのジジイに知られてしまうおそれがある」


「……はい」




 夷族の叛徒共は行武に為高ら東先道の国司達の悪行一切を訴えるに違いないが、全てを権力を笠に着て押し通してきただけに、それを上回る権力を与えられている行武が正当な裁きを与えようと動き出せば、留めるのは難しい。


 巡察使程度ならば、基家の名をちらつかせた脅しと賄賂でどうにでもなった。


 だが、京府において数々の悪名や蔑視を受けていたにも関わらず清廉潔白さを謳われていた梓弓行武に、その手段は通用しない。


 むしろ罪状を一つ足されるのが関の山であろう。




 しかしながら、為高も今は動けない。


 行武の行動を掣肘しようにも、京府との連絡が遮断されている上に、自分より高位高官である征討軍少将を兼ねている巡察使の梓弓行武には逆らいようが無いのである。


 ましてや実力行使での排除など、兵力や武略からいっても不可能だ、敵わない。


 為高にとって、無利子での種子貸し付けや俘囚戸の削減に繋がる戸籍の新規創設、また関所での通行税徴収をできなくしてしまう航路の新規開発などは、決して受け入れられるものでは無い。


 それらの諸政策は民のためにはなっても為高のためにはならないからだ。


 高利での種子貸し付けや奴隷狩り、密貿易に臨時の段銭や通行税の徴収、利子を伴う納税代行などで得たその成果が、今現在厳しく守らせている官倉と私財倉庫の中にある。


 京府に持ち込んでも一財産になるであろう、麦、稗、粟などの穀物や採取した金銀、徴収した銭貨、そして綿や絹、木布など各種の織布、北の大地に住まう珍しい鳥獣の羽や毛皮、牙や肉、掘り出された宝玉や琥珀。




 今や東先道5か国の国司達が持ち寄った分もあり、ここ数年で大いに溜め込んだ苛税の成果が倉庫にそれこそ唸っているのである。


 これを諦めて、ここを去ることなど出来はしない。


 脱出はあくまでも財貨と共にでなければならないのだ。


 行武は、巡察使と征討軍として軍政を敷いて現地の管理や国司達を管理することも律令上可能であり、また罪状が明らかであれば国司を罷免することも出来る。




 今のところ正式な形で為高たち東先道の国司を訴追したり、罷免するような動きは行武に無いが、今後はどう転ぶか分からない。


 何より苛政の証拠が蔵に唸るほどあるのだ。


 それに対抗するべく、委任状や引き継ぎ状、更には弾劾状や上申書を次々に作成しているのだが、行武が真佐方の国衙こくがに入らなければそれを渡すことも出来ない。


 そしてそれが京府に届くことも無い以上、書状類が発効されることも無いのである。




「くそ!」


「現状では打つ手はございませぬ……」




 苛立って乱暴に文箱を閉じ、棚へと放り投げた為高に、在地官人の筆頭である大熊手力彦おおくまたぢからひこが恐る恐る進言する。


 一瞬、怒りにまかせて手力彦を打ち据えようかと思ったが、為高は辛うじて自制した。


 在地官人とて、全てが彼の家人では無い。


 大半は今ここに報告に来ている手力彦のように、この国が設置された昔より地方政務に関わってきた地元分国出身者である。


 加えて、私兵の中にも大農民や武民達の私兵や子弟を任期満了後、京府の下級官人として取り立てる約束で預かっている者もいる。


 余り無碍に扱っては京府との連絡を絶たれてしまうため、孤立無援である自分の為にはならない。


 辛うじてそう思い直し、為高は振り上げた手を下ろす。




「……恐れ入ります」


「何を恐れ入るというのだ!」




 為高の心の内を見透かしたように礼を述べる手力彦に、為高は怒鳴り声を上げた。


 しかしそれ以上のことはしないまま、苛々して周囲を歩き回る。




「何か良い手は無いものか……このままでは爺将軍に失政を理由に罷免されてしまう!」




 罷免されるだけならまだしも、相手は政敵とも言うべき行武。


 下手をすれば捕縛されて籠詰めにされ、京府へ罪人として送られるかも知れない。


 裁定の場では権力がものを言うため、為高が罪に問われることはほぼ無いだろうが、それでも大叔父の硯石基家の感情が悪くなることは避けられない。


 命は助かっても、貴族としての栄達はその時点で潰えることとなる。




「ジジイめ!忌々しいっ!」




 そうきつい口調でつぶやく為高に、手力彦は頭を下げてから口を開いた。




「恐れながら、申し上げます」


「何だ!?」


「……地方官人の内の何人かに夷族の格好をさせ、梓弓城柵に紛れ込ませた後、折を見て新しく開かれた航路にて国司様方の手紙を京府に届けましょう」


「……ほう?」




 その手力彦の提案に、それまで苛立っていた為高が興味を示した。


 陰湿な為高の性情にも合った、非常に嫌らしい手段の臭いをかぎ取ったのである。


 為高は陰謀に長けている訳では無いが、それを実行することをためらわない。


 相手を確実に陥れられるのであれば、手段を問わないのである。


 それ故に基家から重宝され、財貨を集める以外にもその成果があって、この地への赴任を命じられたという側面もある。




 内心はあまり謀略的な手段を用いたくなかった手力彦だったが、このまま膠着状態を続けていても埒があかない。


 加えて、京府に逃げるのであればさっさと逃げて行って貰いたいという気持ちもある。


 そうすれば、在地官人は行武の指揮下に入ることが出来るのだ。


 為高に対して不埒な気持ちを抱きながらも、手力彦は律儀に献策する。




「梓弓の少将様はどうやら夷族に対しては無防備なご様子。その隙を突き、征討軍の呼び寄せた船を使って、梓弓の少将様の所行と国司様方の窮状を京府の左大臣様に訴えては如何かと……」




 果たして手力彦の提案は、後ろ暗い手段であり、詐術と言って良い方法だった。


 それを聞いた為高は手を打って喜び、それまでの陰鬱な表情を改める。




「それは良い手だ……だが、それだけでは生ぬるい。もっと良い手がある」




 にたにたと陰惨な笑みを浮かべる為高に生理的な嫌悪感を覚えつつも、手力彦は我慢して問い掛ける。




「……どの様な手でございましょうか?」


「化けるというのであれば、官人か国兵の格好をさせた罪人を城柵へ送り込んで官倉や家々に火を放ち、夷族の女子供を犯して殺し、老人共を手酷く痛めつけてやれ」




 為高の発した言葉の内容を理解しきれずに固まる手力彦。


 しかし、次第にその意味するところを働き始めた頭が吸収すると、手力彦は絶句する。




「そ、それは……」


「くくくく、じじいめが大事な官倉を焼かれた上に、家々を焼かれた夷族の激高を押さえきれなければ破滅は間違い無いだろう。そこまで上手くいかずとも、ジジイの監督不行届が明らかになる。それを理由に罷免状や弾劾状を京府に送り付けてやろう」




 その言葉を聞いて顔を青くし、ガタガタ震える手力彦を見て為高はにやりと卑劣感たっぷりの笑みを浮かべて言葉を継いだ。




「牢には八威族はいぞくの乱暴者共や、京府やその近国で乱暴狼藉をして配流はいるになった輩やからがいただろう?あいつらに官服を宛がってやれ」


「は……はっ、はい……」




 慌てて頭を下げる手力彦の肩にぶつかりながら、高笑いを残して為高が去る。


 それを見送ることも出来ないまま手力彦はぶるぶると震え、その唇を噛み締めた。


 やがてぶつりと音をたてて唇が破れ、口角からつっと血が垂れ、落ちる。


 土と埃にまみれた木の床に赤色の点を作る血は、やがて別の場所にもこぼれ始める。


 震えるほどに力が込められた手力彦の左手の爪が、手の平を突き破ったのだ。




「……おのれ、硯石為高」




 暗いつぶやきを残し、手力彦は為高の後を追う。


 鬼畜の所行だが、国司の命令は絶対だ、従わない訳にはいかない。


 手力彦は唇を噛み締め、手を強く握りしめて血を垂らしながら牢へと向かうのだった。


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梓弓の老少将 あかつき @akiakatuki

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