第35話

開墾は順調に進み、荒い耕作のみではあったが、撒かれた蕎麦の種は確実に藻塩潟の地に根付いた。


 梓弓城柵の蕎麦はその後も順調に育ち、今はつぼみを付け始めている。


 花が咲き、結実するのも間もなくだ。


 畑に出て害虫である夜盗虫の駆除を行っている夷族の女子供に、見張り台の上の国兵の姿も以前と同じ。




 黒い縞模様の蜜蜂たちが、ほころび始めた蕎麦の花の蜜を求めて羽音も高く飛び交う中、安心しきった夷族の女や子供たちが小石を拾い、害虫をつまみ上げ、そしてその実生の成り具合を確かめる。


 別の場所では行武の連れてきた馬や牛の世話が行われ、その近くで牛糞や馬糞を発酵させた堆肥を作っている。


 農場に出ている者達の顔には笑顔が戻り、定住出来たことによって体力を回復させた老人や子供、そして女性たちが元気に働いている。




 しかし畑からは夷族の男の姿が消えていた。




 彼らが行武を信用し、女子供の農作業中、国兵だけに見張りをさせる事に同意したからである。


 そして消えた彼らの一部は山野や海で漁をしているのは勿論だが、戦士達は梓弓城柵の中で、行武の厳しい指導を受けている。










「ほれ、そこじゃ」


「おわっ?」




 行武は両手で持つ長い棒の上下をくるりと綺麗な弧を描いて入れ替え、相対していた夷族の戦士の足下を軽くすくい上げた。


 初撃である上からの打ち込みに対処しようとしていた夷族の戦士は、注意していなかった足下を払われたことで大きく片足を上げて仰向けに倒れる。


 夷族の戦士の手を離れた木刀が踏み固められた兵営の地面に落ちて乾いた音を立てた。




「うぐっ……ま、参った」


「はっはっはっは!まだまだじゃのう!」




 油断無く棒の先を倒れた戦士の首元へ突きつけた行武は、降参の言葉を聞いて朗らかに笑うと左手持ちにした棒を身体の左横に立てる。


 こんと軽い音が立ち、それが訓練終了の合図。




「解散じゃ!」




 その音と行武の言葉で、夷族の戦士達は一斉の黙礼を行武におくると、三々五々に兵営から散っていく。


 そんな彼らが身に付けているのは、以前のようなぼろぼろの獣衣では無く、朝廷風に誂えられた服と深靴。


 そしてその上から夷族の戦士達が身に付ける、防護長衣を身に付けている。


 服や深靴は行武が官品から支給し、防護長衣は夷族の子女がそれまでの獣衣や革、壊れた短甲の金属片を使って誂えた逸品だ。


 それまでの夷族が使用していた木材繊維から編出した物より重いが、防御力は格段に上がっている。


 本番の戦になれば、これに毛皮を縫い付けた兜を被ることになっていた。




「少将様、ありがとうございました」


「何の、筋は良い。精進を怠らぬようにな」




 行武に倒された若い戦士がはにかみながら言うと、行武は笑顔で応じる。


 訓練後の余興として、希望する夷族の戦士1人に行武が直接稽古を付けることになっているのだ。


 こうして行武は夷族の戦士達を軽部麻呂を通じて配下に組み込み、今や2000近い兵を率いることになっている。


 もちろん、米や麦、布で給与を支払っているので、夷族の戦士達も家族を養う術を得られる。


 しかもかつてこの地を制した行武直々に武術の手解きが受けられるとあって、征討軍の国兵は今や人気の職業となっていた。


 戦士であり、今や国兵でもある夷族の若者達を見送り、とんとんと軽く肩を長棒で叩いていると、軽部麻呂がのっそりと近付いてきて声を掛けた。




「相変わらず凄まじい技だな、老少将よ」


「おう、軽部麻呂殿か。お主も一手やるかの?」


「冗談を……初回だけで十分だ」




 行武が首だけを振り返らせて言うと、軽部麻呂はその厳つい髭面をしかめて断った。


 何を隠そう、一番最初の訓練で行武に挑んだのはこの軽部麻呂なのである。


 そして、こてんぱんにのされた。


 その時のことを思い出したのか、軽部麻呂は顰め面のまま左肩をさする。




「あっはっはっは、それは残念!まあ、お主の膂力は凄まじきものじゃ。無駄遣いせぬようにすれば、かなう者はおらぬじゃろう」


「確かに老少将には手も無く捻られたが……無駄遣いか、ふむ」


「そのとおり、あっても無駄に使っては意味が無い」


「老少将の憎まれ口ほどじゃないと思うが?」


「それこそ、それが無くなればわしの存在価値が半減じゃ」


「……半減するのか?」


「あっはっはっはっは!」




 軽口を叩き合った後一頻り笑うと、行武は軽部麻呂に笑みを止めて問う。




「それで、首長殿の用件は何じゃ?」




 それを見た軽部麻呂も非難を含んだ笑みを消し、真剣な表情で応じる。




「おう、老少将の言うとおりに使者を出したあちこちの夷族からの返事が来た。老少将になら各地の夷族の首長は従う、そういうことだそうだ。梓弓の若中将の盛名は未だ健在だ」


「その渾名は聞きとうないが、まずは朗報じゃな。骨折り痛み入るわい」


「はっ、よく言う。俺の名も織り込み済みだろう」




 軽部麻呂の言うとおり、広浜夷族の大長である軽部麻呂が認めた本物の梓弓ということも、彼らにはとても重要な要素となっている。


 反乱の先鞭を付け、そして長きにわたって抵抗を続けていた軽部麻呂が朝廷の征討軍に降った、という情報は驚きとともに広まった。


 苦しみながらも一致団結して反乱を続けていた夷族達は朝廷の虚報ではないかと疑ったが、同時に不信感も生まれたのである。




 しかしながら、その疑心も軽部麻呂からの使者で一掃された。




「まあそう言うな、この地の平和と平穏の為じゃ」




 口角を歪めて言う軽部麻呂に行武がなだめるように言うと、軽部麻呂は頷きながら顔を真剣なものへと戻して言葉を継いだ。




「分かっている……ただ、条件がある」


「国司共の件じゃな?」




 行武の言葉に黙って頷く軽部麻呂。


 各地の夷族の首長たちは、事の元凶となった国司達の処罰を望んでいる。


 それは厳しく苛烈な感情だ。


 苛税を強いられた挙げ句に家々を焼かれ、田や畑は荒らされた。


 抵抗すれば見せしめに殺され、そして家族を掠われた挙げ句に異国へと売られたのである。




「死んだ奴らや売られた奴らが戻ってくる訳じゃないことは理解している。しかし、国司らをこのままのうのうと生かしておくという選択肢はない……落とし前は付けて貰う」


「ふむ、その件に関してはわしに任せよ。決して悪いようにはせぬ」




 行武がしっかりと頷いて言うと、軽部麻呂は少しためらってから言葉を発した。




「いくら老少将といえども生ぬるい仕置きであれば、許されない。俺達は再び乱を起こす」




 低い鬱々とした軽部麻呂の声色に、行武は力強く頷く。




「分かっておるわい。故に真佐方の包囲は緩めるでないぞ」


「それは大丈夫だ、各地の首領から戦士を都合して貰ってしっかり包囲している」




 戸惑いながらも行武の言葉に頷いて答える軽部麻呂。


 行武が降伏させた軽部麻呂に真っ先に命じたのが、真佐方の包囲の継続だった。


 今は藻塩潟と行き来して密かに戦士達が交代するなどして、包囲は前より厳重になっている。


 軽部麻呂としては危険な上に効果の無い真佐方の包囲はすぐに解きたかったが、行武が継続を強く依頼したので、やむなく包囲を続けているのだ。


 以前より包囲の輪を狭めて圧迫を加える一方、決して国衙には近付かぬようにし、矢の応酬も止めさせているので、犠牲は無くなってはいる。




「ならば良し。国司共に情報を与えぬ事が此度の策の肝心じゃからの」




 その肩を抱くようにして行武は軽部麻呂に応じ、軽部麻呂はそれに力強く応じ返すのだった。












 梓弓城柵に設けられた建物の端では、畦造少彦あぜつくりのすくなひこによって戸籍登録所が設けられていた。


 訓練や農作業の合間を縫って、少彦による夷族達の戸籍登録が行われていく。


 最近は軽部麻呂の率いていた広浜夷族の者達だけで無く、各地から集まってきた夷族や反乱に巻き込まれてしまった農民たちも援助を求めて梓弓城柵へとやって来るようになり、少彦は戸籍作成に忙殺されていた。




 最初は夷族の肩を持つような政策については逐一煩く掣肘を加えてきた玄墨久秀も最近は大人しく、むしろたまに気が向いた時は戸籍登録を手伝ったりもしている。


 余りの変わりように、それまでの態度や言動を知る者達からは気味悪がられているが、行武との遣り取りからその出自を含めたおおよその成り行きを知った者達は、久秀に親しく接することこそ無いが、同情的には接している。




「はい、次の方」


「北峯国沢山郡きたみねこくさわやまぐんの織祖羽おりそぱと申します。家族が7人……」


「戸籍は以前お持ちでしたか?」


「はい、俘囚戸ふしゅうことしてですが……」




 それを聞いた少彦は思案顔となる。


 俘囚戸とは降伏した夷族に与えられた戸籍のことだが、かつては租税免除や租税物に狩猟採取物を宛てて良いなどの特例措置があった。


 しかし今は通常の租税に加えて狩猟採取物も納めさせるという、二重課税の温床となっている戸籍だ。


 夷族を苦しめている元凶とも言えるだろう。


 少彦は、不安そうな顔をしている織祖羽に笑顔を向けると言った。




「では、ここで柵戸きのへとして登録し直します」


「あ、ありがとうございますっ」




 家族共々喜ぶ織祖羽の目の前で、少彦が戸籍台帳に戸主や家族の名前、誕生年月日や出生地を記載していく。


 既に城柵の人口は、既に戸籍上において万を超えるまでになっている。


 藻塩潟の土地は地味豊かで開墾の余地はまだまだあるし、狩猟や漁労に従事する者達もいるので、それこそ10万の人間が集まっても食べていけるだろう。


 少彦の隣では、財部是安たからべのこれやすが新たに戸籍を得た人々の職業を斡旋している。


 大半は農民希望者なので開拓農地の指定を行い、漁労や狩猟に従事する者には鑑札を与えている。




「祖は生産物の2割、その他に雑役を課しますが、こちらは農閑期のみとなるでしょう」


「えっ?2割で良いのですかっ?」


「……もちろんでございます。朝廷の規定で祖は2割。その他の庸や調は開拓初期においては免除となります」




 夷族の農民が上げた驚きの大声にも動じること無く、是安は淡々と説明を続ける。




「種籾たねもみや種蕎麦たねそばを始めとして各種種子は貸し出しますが、利息は取りません。収穫時に同量を官倉かんそうに返還して下さい」


「り、利子が無いのですかっ?」




 種籾を貸し付けてその利子を取るのは極々普通に行われていることであり、しかもそれは武民や大農民の行う投資であり、殖財行動だ。


 国司の中には勝手に官倉を開いてこれを行い、利殖している者もいるほどで、酷い者になれば勝手に貸し付けたことにして家に種籾を置いてゆき利子を取り立てる、などと言う強請ゆすり紛いの手法までまかり通っている。




 庶民は官吏の強要に逆らえず、支払う他無い。


 信じ難いことではあるが、貴族達からすればこれはごくごく一般的な蓄財や利殖行動であるのだ。


 しかし、行武は是安に命じて開拓地に入る農民たちから利子を取ることを禁じた。


 漁労や狩猟に従事する者達に対しても同様で、猟具や漁具を購入したり製造したりするのに必要な銭貨は貸し付けるが、利子無しの返済をさせている。




 そしてそれは梓弓城柵に留まらず、周辺地域にも拡大して行っており、そのお陰で反乱が収まった地域は急速に復興の道を歩み始めていた。


 既に今年は蕎麦が栽培できるぎりぎりの季節だが、来年になれば無利子で種子が貸し出されることが分かっているのだ。


 農民たちは荒れた農地を改めて耕して肥料を施し、整理し直して来年に備える。


 加えて、行武の縁故国である楠翠国なんすいこくの船商人や輸送船が梓弓城柵の船着き場に入り始めていた。




 行武の求めに応じて、楠翠国の商人や船荷受けたちがはるばる船を廻してきたのである。


 もちろん、彼らとてただで船を廻す訳では無い。


 夷族が狩り、また収蔵していた毛皮や獣肉、海獣や野獣の骨や牙と言った珍しい産物。


 それに加えて、檜や杉などの木材や銅材、鉄材なども朝廷の支配領域より豊富に産出する東先道。


 叛徒であった夷族の征討軍参加により各地の砂鉄や砂金が集められ、銅鉱山や鉄鉱山が行武が呼び寄せた揺曳衆の協力で開発され始めると、それらの産物も梓弓城柵に集まるようになってきた。




 これらの産物を京府に運び、売りさばくことが出来れば大きな利益が見込める。


 おまけに集めた税を輸送船で京府へ輸送することとし、納税人足制度を廃することを布告した行武。


 隣接する諸国にもこれを広め、ゆくゆくは東先道や東間道の各国から長年庶民を苦しめ続けてきた納税人足制度を消滅させることを目指している。




 広浜国の南部は、行武の実施した諸政策のお陰で落ち着きを取り戻し、繁栄の兆しを見せ始めていた。

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