第34話
青月15日、梓弓城柵周辺
軽部麻呂と行武の会談によって、叛徒であった夷族達は許され、梓弓城柵あずさゆみじょうさくの柵内さくうちにおいて柵戸きのへとして新たに戸籍を与えられることになった。
戦士の内でも狩猟や漁労が得意な者達は、当座の食料を得るために山へ分け入って毒矢で鹿や猪を狩り、また海岸で漁を行う。
老人や女子供達、そして残った夷族の男達は、国兵や納税人足達と一緒に梓弓城柵の周辺の開墾を始めた。
行武が持ち込ませた鍬や鋤、斧やノコギリがここで大いに役立つ。
「いいかあ!間もなく海側に倒すぞお!」
斧を持った夷族の男の掛け声で、馬を操る国兵が大きく手を振った。
その合図と共に、最後の一撃を太い檜の根元に打込む夷族の男。
ずがんと大きな音が打込み部分から発せられ、次いで木が裂けるメリメリという音が静かにそして次第に大きくなり始める。
「それ引けエエっ!」
あらかじめ掛けてあった縄を周囲で固唾を呑んで見守っていた夷族や国兵達が引くと、樹齢100年を超えると思われる檜はゆっくりと海岸側へと倒れていった。
しばらくして地響きと振動が伝わり、木が反動で小さく跳ねつつも倒れきる。
「よおし、引け引け!」
馬を操る国兵の掛け声で馬が前進し、切り倒したばかりの檜を引きずり出した。
まっすぐに伸びた大檜は十分乾燥させた後に梓弓城柵内で製材され、心材や辺材は家屋の柱や板として、樹皮は屋根材として使用されるのだ。
大鋸に槍鉋や手斧ちょうななどの製材道具は行武が用意させており、実際この梓弓城柵を作る際にも使用された物である。
「グズグズするな!切り株を起こしちまうぜ!」
最後に斧を打込んだ夷族の男の言葉で、周辺にいた者達が動き出す。
その手には鍬や斧、鋤があり、全員が手慣れた様子で切り株を掘り起こしに掛かった。
そうして周辺の針葉樹を切り倒し、荷馬で切り株を掘り起こす夷族の民や国兵達の姿が、梓弓城柵の周辺のあちこちにある。
女子供や老人達は、より城柵に近い場所で小石や小枝を拾い集めていた。
笊や籠に一杯になったら、小石は城柵の門の前に置かれた桶の中に入れられ、小枝は薪として使用出来るように天日に干す。
そうして邪魔な物が取り除かれた土地は、最後に力のある若い女や男達によって耕されていくのだ。
加えて作業している場所の周辺には簡単な見張り台が設けられ、完全武装の国兵達が交代で周辺の警戒を行っている。
害獣である大熊や狼、猪などを警戒しているのである。
やがて目標とする範囲の伐採と開墾が終わると、夷族達は蕎麦を播種し始める。
既に稲を作付けるには時期が遅すぎる上に、水田を今から用意することは不可能だ。
やせた冷涼な土地でも育ち、簡単な開墾だけでも十分収穫の見込める蕎麦を栽培する以外に冬の食料を得る方法がないのである。
蕎麦はやせた土地でも育ち、また収穫までの時間が他の作物に比べて短く、正に今の夷族の状況にはうってつけの作物だが、その分収量は少ない。
行武は3000名の国兵が1年食べるのに十分な糧食を確保している。
しかしながらそれも順次運ばれてくる物であるので、差し当たっては5000人近い夷族が冬を越せるほどの糧食の持ち合わせが無いのが現状だ。
幸いにも夷族達の中に蕎麦の種子を大切に保管している者がいたことと、行武が確保させてあった糧食の中にも蕎麦の実があったので、それを今回栽培用に供出したのである。
森の奥を見張っていた国兵の1人、入野彦いりのひこはぼんやりと種まきに精を出す夷族の男や女、老人や子供を眺めていた。
幸いにして未だ日没には時間があり、伐採や木材の搬入を含めた農作業は明るい内に終わりそうだ。
本当に警戒すべきなのは、夜間。
日が落ち、人が寝静まった頃を狙って野獣たちはやって来る。
夷族達が森の中で疲弊していたのは、彼らも夜の野獣を警戒していたからだ。
特に身体能力の劣る女子供や老人は、熊や狼に狙われやすい。
戦士達で交代しながら夜間の見張りをしていたのだろうが、気の休まる時が無かったに違いない。
「……まあ、城柵に入っちまえばそうそう獣共も来られないよなあ」
「油断大敵じゃぞ」
そうつぶやいてあくびをしようとした入野彦の背後から、突如声が掛かる。
肝を潰し、大わらわで振り返った入野彦の目の前には、茶目っ気のある笑みを浮かべた行武がいた。
「しょ、少将様っ?」
「うむ、見張り任務ご苦労じゃの、まあまあ励んでおるようで何よりじゃ」
「お、驚かさないで下さいっ」
鷹揚に頷きながら見張り台の梯子を登って来る行武に、安堵のため息と共に入野彦が抗議するが、次には恥ずかしさを感じてうつむいてしまった。
「ううう、すみません」
「はっはっは、正に油断大敵じゃなあ」
恥じ入る入野彦の肩を叩き、行武は優しく言葉を継いだ。
「まあ昼間じゃから油断したい気持ちも分かるが、しっかりと見張ってくれい。今の敵は野の獣共もそうじゃが、他で反乱を起こしておる者達の接近も見逃してはならん。次回からはしっかりやるのじゃぞ」
「は、はいっ!」
行武から諭され、また激励されて入野彦は頭を下げた。
しかし、うんうんと頷いているだけで行武は見張り台から去ろうとしない。
その行動を訝った入野彦が、下げていた頭を傾け、ちらりと行武の様子を窺う。
すると、行武はまるで何事も無かったかのように見張り台の縁に左手を掛け、額に右手をかざして周囲の見張りを行っていた。
「少将様!?」
「おう?何をしているのじゃ入野彦、わしが交代に来たのじゃから、早く戻って休んでくるが良い」
驚く入野彦に対して、逆に行武がそう言う。
「そ、そんな訳には参りませんっ」
慌ててそう言い返す入野彦は、見張り台の手すりにしがみついた。
曲がりなりにも高位貴族、しかも征討軍の総帥たる少将に、まさか見張り役を代わって貰うことなど出来ようはずも無い。
しかし行武は頓着した様子もなく言葉を継ぐ。
「まあそう堅いことを言うな、持ち場を離れる訳では無く、わしが一時だけ代わるだけなのじゃから問題はあるまい?」
「そういうことではありません!」
休憩はとても魅力的だが、まさか少将を働かせてたかだか一国兵の自分が楽をする訳にも行かず、入野彦はそう断った。
首を左右に振って必死に断ろうとする意思を態度で示す入野彦を余所に、行武は眼下の農場で夷族と一緒に石拾いをしている浮塵子の子供達に手を振る。
それを目敏く見つけたスジクロが嬉しそうに手を振り返し、スジクロの仕草に気付いて見上げたツマグロが行武の姿を見つけて呆れる。
2人とも夷族の子供と同じような大きな籠をたすき掛けにした縄で背負い、着物の裾と袖を細紐で結わえ上げている。
既に手足は黒土で汚れてまっ黒で、その籠の中には三分の一程小石が詰まっている。
そしてすぐに周囲の子供達に急かされて、2人は小石拾いの作業に戻った。
その様子を目を細めて口を笑みの形に作りながら、行武が言葉を継ぐ。
「まあまあ、固いことは言いっこなしじゃ」
「か、固いとか柔らかいとか、そんなことではありませんよ少将様……」
入野彦が困り果てたその時、突如開墾中の農場の片隅、森との境目で叫び声が上がった。
「何事じゃ?」
行武が訝って叫び声がした方を見れば、蜘蛛の子を散らすかのように夷族の女子供が城柵目掛けて逃げ散っており、周囲に居た戦士や若い男達が慌てて傍らに置いてあった槍や鉾、それに手にしていた鍬や鋤などの農具を構えている。
その視線は一様に恐怖に染まり、一点を見つめていた。
やがて低い咆哮が地鳴りのように森の中から響き渡る。
「お、大熊っ?」
入野彦が震えつつも言葉を発したとおり、真っ黒で巨大な熊がのそりのそりと四つ足で森から這い出して来たのが視界に入る。
夷族の女子供が腰を抜かして悲鳴を上げ、男達が青くなった。
それは見たことも無いほどの巨大な大熊であったからだ。
普通の大きさの大熊でも、容易に屈強な夷族の集落を全滅させ得る、強力な野獣だ。
夷族達はこの難敵を毒矢や毒槍で仕留めるのだが、農作業中にその様な備えがあるはずも無く、逃げる意外に無い。
しかし、誰もが突然の大熊、しかも凶悪なまでに巨大な1頭の出現に色を失い、その場にへたり込む始末だ。
「何と、これまた巨大な大熊じゃのう」
「しょ、少将様、悠長に見物している場合ではございません!さあ、早く城柵へお戻り下さいっ!」
のんびりした声を発して手をかざし、大熊がゆっくりと農場内に侵入して歩く様子を見ていた行武に、入野彦は金切り声でそう言う。
しかし行武はのんびりした様子もそのままに言葉を返す。
「それ、銅鐸を鳴らさぬか。皆に危険を知らせねばならぬ。お主の役目ぞ」
そう言われ、入野彦は慌てて見張り台にあった銅鐸を思い切り打ち鳴らした。
がらんがらんと大きな音が響き、やがてその音と大熊の出現に気付いた城柵が慌ただしく動き出すのが分かる。
それに加え、大熊がその音の出所に気付いて振り返った。
「ひいっ、こっち来るっ!?」
「そりゃあのう、これだけ大きな音を立てれば、大熊の注意も引くじゃろう」
震えて思わず打棒うちぼうを取り落とした入野彦に行武が呆れて言うと、目を見開いた入野彦が目を見開いてばっと行武を振り返る。
そこには涼しい顔の行武がいた。
「ま、ま、まさか……少将様あっ!?」
その言葉と態度に度肝を抜かれる入野彦。
行武は城柵に危急を知らせて救援を求めるのではなく、この見張り台に大熊を引き寄せるため、自分に銅鐸を鳴らさせたのだと今更気付いたのだ。
大熊は今や完全に行武らを標的に捉えたようで、周囲で震えて動かないままでいる夷族の女子供には見向きもしない。
「あわわわわっ……ど、どうすればっ!?」
慌てふためく入野彦を尻目に、行武は大熊を観察した。
爛々とした眼は凶悪な食欲に染まっており、生半なことでは引き返さないだろう。
そして、その急所と思しき場所を冷静に見定める。
「こりゃ……ちっとばかし厄介じゃな」
小さくつぶやいた行武は、持っていた先祖伝来の梓あずさで出来た大弓に矢を番つがえるべく、背負った箙えびらから、返しの無い貫徹矢ぬきとおしやを引き抜いた。
それを見た入野彦が剣を抜き、絶望的な表情で言う。
「少将様……誠に無礼ではございますが、如何に少将様が弓の名手であったとしても、その様な普通の弓矢が大熊に通用するとは思えませぬっ……わ、私が大熊を出来る限り引きつけます故、すぐに城柵へお逃げ下さいっ!」
入野彦も夷族を祖父母に持つ者で、大熊の恐ろしさは聞かされている。
強力な筋肉と分厚い脂肪、そして厚い上に弾性に富む毛皮で覆われた大熊に、打撃や弓矢はほぼ効かない。
唯一人間が大熊に手向かい出来るのは、芯鉄を入れた狩猟用の重い槍や毒を使った武器を手にした時だけなのだ。
「何の、心配は要らぬわい……それに大熊ごときに恐れをなして配下の者を見捨てたとあっては末代までの恥よ」
しかし、行武は決然と大弓に貫通力に優れた貫徹矢を番える。
「まあ、梓弓家の末代はわしかも知れぬがのう……」
つぶやきながら狙いを定めるべく弓をゆっくりと移動させる行武。
しばらくして、軽部麻呂を先頭に広浜夷族の戦士達が城柵を飛び出して来た。
しかしながらその距離は遠く、とても間に合いそうに無い。
その時、大熊が歩いた近くにいた夷族の女子供が、その恐怖に耐えかねて鋭い悲鳴を上げてしまった。
再び大熊の注意が行武から周囲の夷族の女や子供へと移る。
「……ぬう、もう少し近寄らせたかったのじゃが、致し方なし」
「少将様!?」
そう言うとぐいっと勢い良く弓を引き絞った行武に、入野彦が驚いて声を掛ける。
もう少し近寄らせたいと行武は言ったが、それでも今の時点で100間けん(約180メートル)は切らない距離だ。
通常、弓が有効となる間合いは、30間から50間程度までである。
いくら見張り台から撃ち下ろす形になるとは言え、狙いを定めて射る距離では無い。
ましてや近くには夷族の女子供達が取り残されているのだ。
しかし行武は驚く入野彦に頓着せず、大弓を限界まで引き絞ると静かに狙いを定めた。
小さく揺れる鏃の先を、大熊に合わせる行武。
そして、その狙いが思い通りの場所へ定まった瞬間、行武は番えた貫徹矢を放った。
弓弦の弾ける音が鋭く響き渡る。
行武が大弓を手首で外回しに返して軌道を修正すると、貫徹矢はまっすぐに見張り台から大熊の右目に向かって飛んだ。
次の瞬間、夷族の母子に向かっていた大熊の顔が仰け反る。
凄まじい咆哮を発して大熊が立ち上がるのを、母子は生きた心地もせずに震えて見つめている。
しかし、大熊は少しするとぶるぶると震え、悲しげな咆哮を短く切れ切れに残し、仰向けにゆっくりと倒れ始めた。
大熊が地に倒れて地響きと土埃がたち、周囲の夷族達が慌てて母子の元へと駆け寄る。
「ふう、年は取りたくないものじゃ。若い頃ならば遠矢でも何とかなったんじゃがな」
「と、遠矢ですか?」
ため息と共に大弓を下ろした行武の言葉に、入野彦が腰を抜かさんばかりにして驚く。
遠矢というのは、文字通り弓なりの矢を射込む方法である。
普通ならば敵に矢衾やぶすまを作り、連続して矢を射る場合の射法だ。
狙いを付けることなど出来ようはずも無いのだが、行武の口ぶりではそれが実現可能な風だ。
やがて、軽部麻呂が夷族の戦士達を引き連れて大熊の元へとやって来た。
そして、その場に事切れて仰向けに倒れている大熊の右目に、白い矢羽根の際まで埋まっている1本の矢を見つけてどよめく。
「ふうむ……老少将の仕業か、とんでもない腕前だな」
軽部麻呂は呆れと驚きの入り交じった台詞を吐き、弓を持ったのと反対の手を上げて笑みを浮かべている見張り台の上の行武を見上げ、呆れたように手を上げて応じる。
夷族の戦士達も、毒も使わず矢の一撃だけで大熊を仕留めてのけた行武の武技に、今更ながら畏敬の念を抱いた。
夷族の狩人や戦士達でも集団で、しかも様々な策を用い、毒を使って倒すのがやっとの大熊を、行武はたった1本の矢で仕留めたのだ。
微動だにしない大熊を見て驚いている軽部麻呂や戦士達を見下ろし、悪戯っぽい笑みを浮かべた行武は、大弓を背負ってから言う。
「さて、大熊の検分でも致すかの……矢も回収せねばな、貫徹矢は貴重品なんじゃ」
行武は腰を抜かさんばかりにしている入野彦の肩を、ぽんぽんと軽く叩いてから身軽に見張り台を下り、手を上げて言葉を継ぐ。
「入野彦よ、悪いが、引き続き見張りを頼む。色々手配りせねばならぬ事が出来たようじゃ、悪いが交代はまた次回」
「は、はい、それはもう、いつでも構いませぬ」
コクコクと頷きながらそう言う他ない入野彦だった。
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