ペレ(82)死去
武藤勇城
↓本編はこちらです↓
ペレ(82)死去
サッカーをやっている人/やっていた人なら、いや、サッカーを知らない人でも、この名前だけは知っている、という人は多いのではないでしょうか。
『ペレ』
サッカーの王様と呼ばれた、サッカー界におけるレジェンド中のレジェンドです。そのペレが2022年12月29日、他界しました。
まずは事実確認を含めて、ニュース記事を幾つか、一部引用しておきます。
(ここから)
・“サッカーの王様”ペレ氏が死去 3度のW杯優勝など数多くの伝説を残す (サッカーキング)
www.soccer-king.jp/news/world/southamerica/20221230/1724450.html
>かつてブラジル代表を3度のFIFAワールドカップ制覇に導いた“ペレ”ことエドソン・アランテス・ド・ナシメント氏が、多臓器不全で29日に亡くなった。82歳だった。
>ペレ氏はがんの進行や腎臓と心臓の問題で11月末からサンパウロの病院に入院し、闘病生活を送っていたが、21日には容態が悪化していることが病院から公表されていた。
・ペレさん死去 W杯に交代枠設けられたきっかけ 66年大会負傷退場、ブラジル10人で戦い敗退 (日刊スポーツ)2022年12月30日7時9分
www.nikkansports.com/soccer/world/news/202212300000048.html
>母国をFIFAワールドカップ(W杯)で3度の優勝に導いた功績や、生涯通算1281得点とされるゴール数など、偉業は多々あるが、サッカー界に“残した”大きなものとしては「交代枠」がある
>ペレさんが出た4度のW杯のうち、唯一優勝を逃した大会。これが国際サッカー連盟を動かし、ルールが変わったとされている。4年後のメキシコ大会でW杯としては「交代枠」が初採用。この大会でペレさんは、今も世界で1人しかいない個人3度目のW杯制覇を成し遂げた。
・本田圭佑「王様」ペレさんはW杯優勝を目指すきっかけ「永遠に私のアイドルです」追悼 (日刊スポーツ)2022年12月30日15時15分
www.nikkansports.com/soccer/world/news/202212300000595.html
>ツイッターでは日本語で「ペレ。本当に本当にありがとうございました」。インスタグラムでは「あなたは、私が小さなころ、夢を与えてくれました。その夢を、あなたは3度も現実のものとした。あなたは、永遠に私のアイドルです。安らかに」と英語で書いた。
>ともに、3つのW杯を抱くペレさんの写真をつけた。本田がW杯優勝を目指すようになったのは、幼少期の1つの出来事がきっかけ。父が与えてくれた1本のビデオテープが運命を決めた。
・ペレ氏死去で世界中のサッカー選手が追悼 メッシ、ネイマール…思い出の写真とともに偉業伝える (オリコンニュース) 2022-12-30 07:01
www.oricon.co.jp/news/2262723/full/
>サッカー元ブラジル代表で「サッカーの王様」と称されるペレ氏が亡くなった。82歳。ブラジルのメディアなどが報じた。これを受け、世界中のサッカー選手&関係者が思い出の写真とともに追悼した。
>「The king of football has left us but his legacy will never be forgotten. RIP KING」
※エムバペ
>(ペレが登場する前の10番はただの数字だった。 このフレーズをどこかで読んだことがある。フットボールはただのスポーツだったと思うが、ペレがすべてを変えた。 彼はサッカーを芸術に変え、エンターテイメントに変えた。貧しい人、黒人に声をあげ、サッカーとブラジルは王様のおかげで地位を上げた! 彼はいないが、魔法は残っている。 ペレは永遠だ!!)
※ネイマール
・自身の引退試合でペレ氏と競演、釜本邦茂さん「肩車してくれた…あのシーン今も鮮明に」 (読売)2022/12/30 11:18
www.yomiuri.co.jp/sports/soccer/20221230-OYT1T50083/
>釜本さんは日本リーグで活躍し、1968年メキシコ五輪で日本の銅メダル獲得に貢献した。84年8月に国立競技場で行われた自身の引退試合で、ペレと競演。「招待の案内を出したら『行くよ』と連絡をくれた。あの世界的なスターがアジアの一選手のために来てくれて、すごく感激した。試合後には肩車をしてくれてね。あのシーンは今も鮮明に覚えている」と懐かしんだ。
>釜本さんは現役時代、海外の名選手のプレー映像を繰り返し見て、動きを研究した。ただ、ペレ氏については「ボールの蹴り方、受け方、ポジショニングを何度も見たけど、まねをしようとは思わなかった。彼はうますぎて、すごすぎて、『ペレにはなれない』と思ったから。(ペレ氏は)4歳上で年齢が近く、憧れだった」と話す。
・写真で振り返る「サッカーの王様」ペレさん (産経)2022/12/30 12:51
www.sankei.com/article/20221230-3MJYHMM4SROEPOVR4SIITKI4HM/
(ここまで)
ペレがプロ入りしたのは14歳の時でした。まだ体が完成していなかったペレは、サブチームでトレーニングを重ね、1956年15歳でプロデビュー。翌57年、17歳になる年にはリーグ得点王を獲得。更に58年、プロ3年目の18歳でリーグ戦38試合58得点 (年間66得点) という、とんでもない得点力を発揮し、2年連続で得点王に輝きました。
同58年に行われたワールドカップスウェーデン大会に、ブラジル代表として17歳で出場。準決勝のフランス戦でハットトリック、決勝のスウェーデン戦で2得点を決めるなど、計4試合6得点を挙げ、ブラジルの優勝の原動力になりました。
当時のサッカーは、今のようなビジネスカラーは薄く、選手があまり保護されていませんでした。給料も安く、後ろからのタックル、足を高く上げてのタックルなどもファウルになりません。そんな中で体が出来上がっていなかったペレも厳しいマークに遭います。1962年ワールドカップチリ大会。21歳で出場したペレは、グループリーグの試合で負傷離脱してしまいます。ブラジルは連覇を果たしましたが、ペレ自身は期待された結果を残せませんでした。
国内リーグでもケガとの戦いが続きました。1966年イングランド大会でも、ペレ率いるブラジルはグループリーグで敗退してしまいました。そんな中、1969年11月19日のリーグ戦で、プロ入り後通算1000ゴール目を決めました。時に29歳でした。
そして迎えた1970年ワールドカップメキシコ大会。史上最強との呼び声もあるブラジル代表を率い、決勝のイタリア戦での得点を含む、6試合4得点を挙げ、ブラジルを3度目の優勝へと導きました。この大会ではブラジルはグループリーグから6連勝での、完全優勝を成し遂げたのです。
こうしてペレは、サッカー史上唯一人の、ワールドカップで3度優勝を成し遂げた「サッカーの王様」、伝説の選手になりました。
現役引退後は、世界のサッカー発展と普及のため、粉骨砕身しました。FIFA会長になったり、選手のためのルール作りにも一役買いました。サッカービジネスとしてのスポンサー集めなども積極的に取り組みました。因みにペレが現役時代に着けていた背番号「10」は、その後エースナンバーとして認識されるようになり、サッカー少年が憧れる番号になりました。
近年のサッカー選手の、たくさんあるテクニックは、元はペレが使っていたものが数多くあります。プレー面でも、環境面でも、ペレの残した遺産は大きいものがあります。
一昨年、同じくサッカー界のレジェンドと呼ばれた、双璧とも呼ぶべきディエゴ・マラドーナがこの世を去りました。そして今年、もう一人の偉大なレジェンドも。サッカー史における、一つの時代の終焉です。ちなみにマラドーナもペレの背番号「10」を受け継いだ選手の一人です。アルゼンチンは背番号を、ポジションに関係なくアルファベット順で並べていましたが、マラドーナだけは例外で常に「10番」を背負いました。マラドーナ引退後には「10番」を欠番にしていましたが、90年代後半から2000年代以降に固定番号制になり、FIFAワールドカップでも23人の登録選手が「1から23までを着用する」と定められたため、欠番に出来なくなったという経緯もあります。
これからのサッカー界を担う若い選手、エムバペやハーランドの登場もあります。これまでのサッカー界をリードしたクリスティアーノ・ロナウドやメッシの引退も近いと噂されています。サッカー界の大きな歴史の転換点を迎えたのかなと、そんな印象を抱く、大きな事件でした。
最後に、ペレに関する「海外の反応」をまとめたサイトを二つと、その中からいくつかのコメントを抜粋して紹介します。それと、末尾にはペレのプレー動画などを3つほど貼っておきますので、実際にペレのプレーを見たことがない、という人は是非、この機にご覧になってみて下さい。動画は、これ以外にもユーチューブなどにたくさん転がっていますので、興味があれば検索して下さい。
マラドーナが転生して活躍する小説「僕のサッカー日誌」に続き、ペレが生まれ変わって活躍する物語も・・・うん、書かなくていいかな・・・。
(海外の反応)
・外国人「悲しい」サッカーの王様ペレ氏が死去...海外のファンから追悼の声!
nofootynolife.blog.fc2.com/blog-entry-6597.html
「絶対的なレジェンドであり、永遠のアイコンだ。新たなペレはもう二度と現れない」
「ザガロは選手として2回、監督として1回、アシスタントコーチとして1回W杯を優勝してる。ザガロが絶対的なレジェンドであることは間違いないが、選手として3回優勝したのは1人だけだ」
「現代のサッカー選手が行う全ての技を発明した。彼はこのスポーツに革命を起こした」
「ペレの時代は全てひどいスパイクと超重いボールでやってたからな」
「そしてピッチは地雷原のようだ」
「マラドーナと一緒に天国で永遠にヘディングを続けてほしいね」
※動画 → dubz.co/v/f2pr6a
・追悼ペレ…1958年W杯の伝説のゴールを振り返る「今とは別のスポーツだな」
mania-of-football.com/1958-fifa-wc-final-sweden-1-3-brazil-pele-55/
「当時の選手生命を絶つようなタックルの多さは馬鹿げている!まるで別のスポーツのようだ!」
「そのためにペレはプレー中にダメージを蓄積し、腎臓の摘出手術を受けなければならなくなった」
「現代の試合に比べてボールがかなり重いように見えるが、いつからボールは軽くなったんだ?」
「70年のメキシコ大会から それ以前のボールは異なる皮の材質で、現代の水準からすると粗雑に縫い合わされていたんだ」
「17歳の時でさえ、彼はピッチ上の他の誰よりもはるかに速かった」
「過去のハイライト動画を見ていると、スピードや技術、試合の様相がいかに違っていたかがよくわかって面白い そしてペレがこうしたスキルを繰り出していたのを見ると、64年経った今でも、それがとてつもないプレーであったことに気づく 彼が神のように崇拝されるのも無理はない」
(動画)
・【サッカー氷河期】1984 釜本引退試合のニュース【ペレ&オベラート】38年前の今日
www.youtube.com/watch?v=P9teCXTuOxo
(ユーチューブ 約2分30秒)
・ペレより上手い奴はいない!そう断言できる動画!60年前と思えないスーパープレイ&ゴール,ドリブル ブラジル代表 ワールドカップ【海外サッカー】
www.youtube.com/watch?v=3CpnunGaUXg
(ユーチューブ 8分)
・マラドーナもロナウドもロナウジーニョもジーコもジダンもメッシもネイマールもクリスティアーノ・ロナウドも、スーパースターが魅せるスーパープレイの全てはサッカーの王様ペレが全部やってた件
twitter.com/Satosanako/status/1605174263908294657
(ツイッター 2分ちょっと)
ペレ(82)死去 武藤勇城 @k-d-k-w-yoro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます