エピローグ

 こうして関山による摩耶さん誘拐事件は、未遂という形で幕を下ろした。

 摩耶さんも多少手首足首にロープで縛られた痕が残ってしまっているが、概ね健康な状態といえよう。元々関山も、摩耶さんを性的に襲おうとしたのだ。本当に傷をつけるような真似はしなかったのだろう。

 唯一まあまあの重症を負った黒羽も、大事には至らなかった。腹部と顔面に打撃を食らったらしいが、骨折とかもなく簡単な応急処置で事なきを得そうだ。もちろんちゃんと病院には行ってもらいたいところであるが、本人はもうすっかり元気そうだ。摩耶さんと再会した時のハイテンションには、俺ですらついていけれなかった。

 そして問題の関山だが……事情はどうであれ、処刑されるのは避けられない。

 ヤツの詳しい事情までは知らないが、どちらにせよ印なしであることには変わりない。夢魔族の禁忌に触れるか、人間界で犯罪を重ねたのは明白。その有無を自白するまでもないのだ。

 ただヤツの最期に関しては、俺も含め誰も興味はない。あの後の処理を務めたアイネも、関山の身柄の引き渡しと簡単な事情聴取以外のことはしていない。あとは向こうに任せる、とのことだ。まあ俺も興味がないので、放置でいいだろう。何か問題があったら、またその時に考えよう。

 とにかく。あらゆる面倒事に関する後処理は、ほとんど完了していた。しかしまだ、解決しなければならない問題を、俺は抱えていた。


「……それじゃあ私は、本当にその……夢魔族っていう生き物なの?」

 場所は我が家のリビング。大きな問題を解決した後の空気とは思えない静けさの中、俺のベッドに腰かける摩耶さんは、しつこく確認するようにそう聞いてきた。しかし摩耶さんがその言葉を口にする権利は大いにある。

 今俺たちはひと段落ついたところで、摩耶さんがどういう存在であるのか、夢魔族とはどういう存在なのかを、一から簡潔に説明した。何はどうであれ、摩耶さんが今後サキュバスとして生きていくことは避けられない。誤った知識を植え付けないよう、俺が夢魔族について説明する必要があった。

「出生が謎に包まれているので確たる証拠はありませんが……夢魔族にしか使えない、特殊な力を感じ取れます。それは夢魔族にしか使えないので、必然的に摩耶さんは夢魔族であることは、間違いないでしょう」

「そう、なんだよね」

 飲み込むような肯定をする摩耶さん。そこに深い悲しみというものは、意外にもない。事前に関山の方から何か言われたので、驚く段階は過ぎているようだ。

「改めてそう言われると……実感が湧くようで、湧かないな。私がその……あのサキュバスだなんて……」

 サキュバス、というのがどういう存在が軽く認識しているようで、摩耶さんの頬が赤く染まる。可愛い。

「厳密には、ちょっと違うけどね」

 と、ふとしたタイミングで会話に割り込むのは、キッチン近くの机でお茶菓子を齧るアイネだ。既に関山の処理を終え、普段のクールかつマイペースな雰囲気に戻っている。

「純粋な夢魔族なら、我々の集落の存在を知らないはずがない。そういう観点からも貴方は、サキュバスはサキュバスでも、ハーフのサキュバスなのよ」

「えっと……それは遊馬君からも聞かされたけど……それは、何が違うのですか?」

 摩耶さんもアイネと会話するのが初めてなので、やや丁寧気味に接する。アイネの無意識的に発する唯我独尊的な雰囲気がそうさせているのかもしれない。ただその程度のことで、アイネが態度を改めることはない。

「アタシも詳しいわけじゃないけど、根本的には私たちと一緒なはずよ。ただ純度100%の夢魔族の血が流れていないから、一般的な夢魔族より劣る部分はあるかもね」

「劣って……しまうのですか?」

「えぇ。ただ劣るって言っても、それは夢魔族的な意味での話。人として普通に生活していく分には、あまり問題はないはずよ。アタシみたいに、男を喰って歩いているような子でもなさそうだし」

「そ、そんなことしません!」

 顔を真っ赤にしながら、摩耶さんは否定する。わかりきっている答えなのに、アイネの意地悪は本当に意地が悪い。

「まあでも、最低限三大魔法は使いこなせるようになった方がいいと思うわよ。少なくとも催眠魔法とかはね」

「え、でも……問題はないって……」

「あまり、ね。貴方がやけに男の視線を集めるのは、無意識に催眠魔法の象徴であるフェロモンを垂れ流しているからよ。それを制御すれば、多少なりとも注目を集めなくて済むわよ」

「そっか……なら覚えた方がいいのかな。でも使い方なんて……」

「それこそユーマに聞きなさいよ」

 流れ弾レベルのタイミングで、急に話題の中心に入る。何気なく二人の会話の様子を眺めていたから、ついびっくりしてしまった。

「ユーマははぐれインキュバス……一般的には劣等扱いされる夢魔族だけど、魔法に関しては誰も勝てないほどの実力者よ。アタシは人に教えるのとか向いてないし、そこまで暇じゃない。だからユーマに教えてもらいなさい」

「アイネ、お前……」

 と、声を漏らす俺であるが、その感情は感謝と呆れの混じったものであった。摩耶さんと積極的に関われる機会を与えてくれたことに対しする感謝と、ただ単純に面倒事を押し付けたことに対する呆れだ。まあ後半に関しては今に始まったことではないが。

 まあ、それはそれとして。

「えぇ、まあ……アイネの言う通り、俺でよろしければお教えしますよ。少なくとも、日常生活で全く困らない程度にはします」

「いいの? 遊馬君の負担になったりしない?」

「もちろん。俺の責務みたいなところもありますし……何より俺自身がしたいことですから。気にしないでください」

「そう……なら、お言葉に甘えようかな?」

 控えめながらも、俺に夢魔族としての全てを任せる摩耶さんの姿は、心にグッと来た。既に摩耶さんの正体にも気づいているにも関わらず、やはり摩耶さんにはそうさせてしまうくらいの素晴らしい魅力を煌めくように放っている。それは夢魔族であろうがなかろうが、関係のないことであった。

「いいわね……なんだか二人だけの共通点が出来ちゃって」

 と、二人だけの世界を作り出そうとしているところに、冷ややかな声が降り注ぐ。その声の正体は、我が家にいるもう一人の客人――黒羽だ。

 事情はどうであれ、黒羽も今回の事件に巻き込んでしまった。黒羽はこの中では唯一の純粋な人間だが、もはや隠し通すことは出来ない。今後のことも考えて、彼女にも俺たちの正体やら摩耶さんのことについて、包み隠さず説明した。

 そんな彼女はというと、摩耶さんがいるにも関わらず表情は明るいものではなかった。

「いっちゃん……」

 摩耶さん自身も、申し訳なさそうに黒羽の顔を見る。無理もない。自分のことを理解していなかったとはいえ、事実上身分を偽っていたのだ。その間に生まれる確執というのは、避けられるものではない。

「……幸田さんの言うことが本当なら、私はまーやのフェロモンに惑わされた。そういうことに、なるのよね?」

「そうだな。100%そうかと聞かれたら否定は出来ないが、全く影響していないわけじゃないな。その愛がより深いものにした手助けくらいにはなってるはずだ」

「そう……」

 ここも包み隠すことなく、俺は肯定した。実際のところ、どうなのかは俺もわからない。ただ異常なまでの摩耶さんへの惚れこみを考えると、そう思うしかなかったのだ。

 ただその事実を明るみにするだけで、この事態は解決したりしない。そう考えているのか、摩耶さんは恐る恐る黒羽へと話しかける。

「いっちゃん、あの、その……」

「勘違いしないでね、まーや」

 しかし黒羽は摩耶さんがしゃべるのを制す。もう口すら交わしたくない、そういう風にも見て取れる。

 ただ俺は一つ、勘違いしていた。黒羽の摩耶さんに対する愛情が、フェロモンどうこうで説明できるものではないということを。そう言わんばかりに、黒羽は摩耶さんに言葉を紡ぐ。その表情は恐ろしいものなんかじゃない、非常に優しい笑顔に満ちていたのだった。

「私がまーやと仲良くなったのは、フェロモンのせいなんかじゃない。まーやの人柄に惹かれて、この子と仲良くなりたいって思ったから、まーやと親友になったの……だからまーやが何者であろうと、私がまーやの親友であることには、変わらないから!」

「いっちゃん……‼」

 感激のあまり、摩耶さんは感極まり目に涙を溜める。そしてその感情を抑えきれず、勢いよく黒羽の身体に抱き着いた。

「これからも、ずっと親友だからね!」

「もちろんよ。ずっと親友だし、ゆくゆくは……ふふふっ」

 そんな素敵なことを口にする摩耶さんは、本当に輝いて見えた。黒羽も黒羽で母のような自愛の笑みを浮かべる……が、摩耶さんの見えないところでは、欲望に満ちた笑みを抑えられていなかった。やはり性根のところは治らないようだ。

 そしてその笑みは、チラリと俺の方を向いてきた。

「それに……これでまーやと夢宮がくっつく可能性は、ゼロになったことだし。私も安心できるわ」

「……どういうことだ?」

 はっきり言って、黒羽が何を言っているのかわからなかった。ただ完全に有頂天となっている黒羽は、その理由を離さずにはいられないようだ。

「だって聞くところによると……その夢魔族っていう生き物同士では、子どもを作っちゃいけないんでしょ? 禁忌の一つなんでしょ? なら二人がゴールインすることも、ないってことじゃない!」

 ものすごく嬉しそうだ。俺の前では決して見せることのない満面の笑みを、黒羽はこれ以上にないくらい見せびらかす。きっと彼女の頭の中では、麗しきお花畑が広がっているのだろう。そう思わずにはいられなかった。

「それこそ勘違いよ」

 だがそんな黒羽を、アイネが制す。まるでからかいのカモを見つけたかのように、愛らしくも憎たらしい笑みを浮かべていた。

「厳密に禁忌に該当されるのは、純粋な夢魔族同士の子作りよ。確かにユーマはれっきとした夢魔族だけど、マーヤは人としての血が混じったハーフサキュバス。ギリ合法ってところね」

「な、なんですって⁉」

 満面の笑みから一転、驚愕の表情に変わる黒羽。その変わり様は、失礼ながらもちょっと笑ってしまう。そんな俺の気配を察知したのか、黒羽は目くじらを尖らせながら俺を睨みつけた。

「くっ、なんてことなの……結局夢宮が今後の障害になるのは、変わらないってことじゃない!」

「いや、あの……」

「絶対負けないから……絶対、貴方には負けないから!」

 なんで二回言ったし、てかそれ口にして大丈夫なのか? 今は近くに摩耶さんもいる、というのに……あ。

「えっと……遊馬君」

「は、はい……!」

 摩耶さんに呼ばれ、俺は声が上ずりながら返事をする。どんな話をされるのか、予想するだけで心臓が破裂するかのように鼓動する。いや、誤魔化すのはよそう……会話の流れ的に、摩耶さんが話すことはわかりきっている。

「その、遊馬君は……私のこと、好き、なの?」

「え、えっと……はい」

 一瞬動揺が走る。だがそれに惑わされることも、ヘタレることもなく、俺はキチンと自分の気持ちを肯定し、摩耶さんに伝える。ほんの少しだけ心の準備が出来た、身体的な接触がないため過度な緊張もない、そういった要素がなかったから、というのもある。だが俺自身いつまでもヘタレて、立ち止まっているわけにもいかない。

「俺は昔、摩耶さんに助けられました。今とはその……変身魔法とかで姿が違うから、覚えていないかもですが」

「そ、そうなの……?」

「はい……その証拠が、あの傘とハンカチなのです」

「えっ、あっ……」

 玄関に置いてある家宝を指差すと、摩耶さんも思い出したかのような顔をする。思い出してくれたことには感謝だが、今はそこまで重要ではない。

「摩耶さんがいなければ、今頃こうして貴方の前に現れなかったでしょう。そのくらい追い詰められていた俺を、貴方は助けてくれた。その優しさに、俺は惚れたのです」

たったそれだけの、ちっぽけな理由。ラブコメのプロローグにしてはあまりにも陳腐なきっかけ。だがそれがあるからこそ、俺は今ここに立っている。それさえ伝わってくれれば、それでいい。

だが摩耶さんも、上手く状況を読み込めていない。言葉は理解できたがスッと受け入れられない、そんな様子だ。

「……ごめん、遊馬君。そのこと自体は覚えているけど、結局それだけなの。私は昔の遊馬君を、何も知らない……でも、今の遊馬君は知ってる」

 慈愛に満ちた摩耶さんの優しい笑みと声色。それに不安要素というものは、一切なかった。

「今の優しい遊馬君を、いざって時に頼りになる遊馬君を、私なんかのために身を張って助けてくれる遊馬君を、私は知っている。まだまだ知らないことは多いけど、これだけは知っている。それだけで、遊馬君がいい人だっていうことは、言われなくてもわかるよ」

「摩耶さん……」

 その言葉は、摩耶さんという女神のような存在からの福音は、俺を膝から崩れ落ちそうにさせるだけの破壊力を秘めている。胸の高鳴りはうるさいくらい響く渡り、手で押さえずにはいられなかった。

「もちろん、昔の遊馬君のことも知りたい。遊馬君のことなら、なんでも知りたい。無論、これからもことも、もっともっと知って、全てを理解した上で、君の好意に答えられるように頑張るよ」

「……はい、待っています。摩耶さんの答えが聞く、その時まで」

 その答えだけで俺は十分だった。にやける表情を抑えるのに必死になるくらいに。

結果的には先延ばしにされたのかもしれない。だがそれは、この距離感の関係をまだ楽しめる証拠だ。それも偽りの関係ではなく、お互いの正体を明かし完全に対等な立場に持っていってのことだ。だから俺は心の中に潜む、内なる炎を燃やす。今度こそは己の力だけで、摩耶さんを落としてみせると。

 完全なる摩耶さんとの二人だけの空間に、遠巻きに眺める黒羽は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。まあ黒羽からしたら、悔しいこの上ないだろう。それに対し偉そうな態度を取ることはないが、優越感に浸ってしまうのは許して欲しい。

「……あ、そういえば」

 と、そのタイミングで、アイネの気の抜けた声を聞こえる。俺たちの空気などお構いなしに、アイネは手荷物から見覚えのある袋を取り出し、摩耶さんに手渡した。

「マーヤ、これアンタのでしょ? 帰り道に落ちていたから回収しておいたけど」

「あ、ありがとう!」

 一旦摩耶さんが俺から視線を外し、アイネから荷物を受け取った。それは黒羽とのお出かけの際に雑貨屋で購入した袋なのを、俺はすぐ思い出した。わざわざ摩耶さんの荷物を探してくれるなんてアイネも何気に気遣いが出来る……というわけでもなく、ガチの偶然なのだろう。アイネがそのためだけに探しものをする姿が、ミリも想像できなかった。

「……あれ? でもこれが私のだって、よく知っていたね?」

「つけてたからよ。ユーマがマーヤに嫌われていないか、心配で心配でね」

「ちょっ……⁉」

 アイネのヤツ、尾行の件をそこまで簡単に……!

「まあでも、そのおかげでマーヤを助ける初動も早かったし、結果オーライってヤツよ」

「そ、そうなのかな……でも、結果そうだったし、そういうことに、しておこうかな?」

 しかしちゃんとフェローしてくれたのもあり、俺たちの行為に悪意を持たれることはなかった。ナイスフォローだぜ、アイネ。

「んで……中身知ってるからあれだけど、結局それ何なのよ? ユーマが死ぬほど心配していたのが、うざったくて……」

「おい」

 でもそれは恥ずかしいからやめてくれ。

「こ、これ? えっとね……」

「なに? 言いにくいの?」

 そしてアイネは無意識に威圧すな。奥で黒羽がすごい顔してるから。

「そういうわけじゃないけど……まあ、中身バレてるなら、いっか」

 と、摩耶さんの中で何かが割り切られた。渡られた袋の中から、購入したと思われるブツを取り出していた。それはアイネの聞き込み通り、エプロンだった。ただそのエプロンは濃い青色をベースとしており、飾り気のない無地なデザインのものだ。その辺りの摩耶さんの好みは把握していないが、女性向けではないのは確かだ。となるとやはり……

「……誰かへの、プレゼントですか」

「うん……というか、遊馬君へのプレゼントだけどね」

「……え?」

 思わず変な声が出てしまった。別に責められているわけでもないのに、つい思考が止まってしまう。それくらいの衝撃が、摩耶さんの言葉にはあった……その可能性を、俺が一ミリも考えていなかったからだ。

「……マジ、ですか?」

「うん。遊馬君、全然料理しないって話だったから、エプロンをあげれば少しは興味を持つかなって思ってさ」

「で、でもあの時、俺たちはその……」

 しどろもどろに俺は言葉を絞り出す。あの時の俺たちは我が家での一件があって、やや気まずい雰囲気が流れていた。だから自然と、俺へのプレゼントという可能性を排除していたのだ。だが現実は違った、もちろん嬉しい方向に。

「……私も遊馬君と話せなくて気まずかったんだよ。だからその、仲直りの意味も込めて……」

「そう、だったんですか……」

 摩耶さんと会話する俺の声が、だんだんと小さくなっていく。無論テンションが下がったからではない、感激のあまり涙が抑えきれないからだ。昂った感情は、そう簡単に落ち着くことはないだろう。

 そして心の底から安心した。あの一件があったにも関わらず、摩耶さんはそこまで重く見ていなかったのだ。それはつまり俺へ深い信頼を寄せている、という証拠ではなかろうか。少なくとも俺はそう思っている。

 それにあの時摩耶さんの様子が一時的におかしくなったのも、内に眠るサキュバスの血が暴走した結果であろう。めちゃくちゃ後付けではあるが、そうとしか考えられなかった……まあ今になってはどうでもいい、全て解決したのだから。

「……もらって、くれる?」

 そして不意に飛んでくる、おねだりのような摩耶さんの言葉。本人としては特に気にしていない、サキュバスの血が混じっている……そうわかっているのに、急激な心臓の高鳴りは抑えられなかった。もちろん答えは決まっている。

「はい、摩耶さんから頂くものでしたら、何でも嬉しいですよ」

「よかった~! あ、ならせっかくだし、一回つけてみる? 似合ってるかどうか、着てみないとわからないし……」

「えぇ、わかりました」

 断るわけもなく、俺は摩耶さんからプレゼントを受け取る。そのままエプロンを広げると、頑張って背中の紐を結んだ。ただ今までエプロンなどつけたことなかったから、背中で結ぶのに一苦労した。背中を振り向き結び目を確認しながら、不格好ながらもなんとか結ぶのに成功した。結べたことに一安心し、つい肩の荷が下りた。

「着れましたよ、摩耶さん。どうです……」

 似合っているかどうかの確認を取ろうと、俺は摩耶さんの方へ振り向いた……その時だった。


 チュッ――


 何か柔らかい感触が、俺の唇の端へと伝わってきた。今まで感じたことのない、しかしながら永遠と味わっていたい。そんな特大級の柔らかさ、そして温かさは、一瞬で俺の全身へと伝わっていった。

 最初、これが何なのか、全くわからなかった。しかし振り向いた先にいた、摩耶さんの存在で全てを悟った。何故か……摩耶さんの顔が目と鼻の先と呼べるくらいまで近づいていたからだ。

 その距離感、そして唇を伝う温かで柔らかな感触……さすがの俺も、経験皆無なインキュバスな俺でもわかる。これは――キスだ。

(あ、え、えっ……え、あぇ?)

 そう認識した瞬間、脳がバグった。状況はすぐに理解したはずなのに、その理解を1秒もなく捨て去った。そのくらいの衝撃を俺は味わった、雷直撃とかそんな比ではなかった。キスってなんだっけ、と現実逃避にすらなりそうだった。

 無論驚いたのは俺だけではない。キスなど朝飯前とか言ってしまいそうなアイネも、「ひゅ~」と言わんばかりに唇を尖らせる。感覚的には口笛を吹いているかのような、そんな感じだ。そして黒羽はこの世の終わりみたいな表情になり、俺に詰め寄る余裕すらなさそうだ。まあ理由は言わずもがなだ。

 1秒か10秒か、もはや時間の感覚すら失いつつある中、摩耶さんの唇が俺から離れる。キスの間、瞑っていた目が開かれ、その美しき瞳が俺という存在だけを捉える。もう今の俺に、それでドキドキする余裕はない。そのラインは、当の昔に超えてしまっていた。

「……えへへ。改めて、助けてくれたお礼、だよ!」

 そして繰り出される、満開の桜すら霞んでしまうくらいの、可憐な摩耶さんの笑顔。その破壊力はもはや説明不要であり、ふわふわな状態の俺へとこれでもかと突き刺さった。

「ぐふぅっ⁉」

 結果、その尊さに耐えきれず、気絶するかのようにぶっ倒れた。摩耶さんをヒーローの如く助けたことで、多少なりともヘタレが改善されたと思ったのだが……まだ不意打ちなどへの耐性はないに等しかった。

「ゆ、遊馬君⁉ 大丈夫⁉」

「おーい、だいじょうぶ~? ねぇ、どんな感触だった?」

「ま、まーやの唇を……く、くちびる、夢宮のくちびるそがなきゃ……」

 俺がぶっ倒れたことで、周りの女の子たちが各々の反応を見せる。心優しき摩耶さんはもちろん心配し、からかい好きなアイネは冗談交じりにそう質問をぶつけ、摩耶さんガチ勢の黒羽はもういろいろ怖い。ただそんな三者三様のわちゃわちゃとした反応が、今の俺には心地よかった。


 結局、俺のヘタレは、そう簡単には治らない。アイネの言う通り、不治の病なのかもしれない。でも摩耶さんがいれば、俺が惚れた女性がいつまでもそばにいてくれれば、いつか改善される。そう信じて、決して疑うことはない。

もちろん他力本願という結果では終わらせない。インキュバスでありながら、一人の人間の男として生きていきことを決めた俺は、一つ決めたことがある。それはこの俺の手で、摩耶さんを俺という男に惚れさせることだ。そこにインキュバスだったりサキュバスだったりなどは一切関係ない、一組の男女がぶつかり合って、互いを認め合う。それで得た愛情こそが、本当の恋愛なのだろう。

だから摩耶さんが俺に惚れるその瞬間まで、真っすぐに走り続ける。そう決めた。ただ今は、摩耶さんにキスされたこの瞬間だけは……そんな小難しいことなんて考えず、この幸せな感触を全身に刻みこもう。その余韻に浸りながら意識を失う俺、その脳裏にはたった一つの感情しか芽生えなかった。


 本当の本当に……俺は摩耶さんのことが好きである。たったそれだけの、簡素で奥の深い、愛の感情だけだった。

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経験できないインキュバスなので、真面目に恋愛しようと思います 牛風啓 @ushikaze_kei7

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