第27話

「……はっ。やっぱりお前の言葉は耳障りだ」

 だがもちろんのこと、ヤツは共感しないどころか顔を歪ませていた。俺の思考が普通の夢魔族には受け入れられない境地であることが、如実に出ている証拠だ。

「もういい。どちらにせよ、俺とお前が分かり合うことなんて絶対にない。そしてこれ以上、互いに話すこともない……そうだろ?」

「あぁ、そうだな」

 珍しくヤツと意見が合う。だがそれは、話し合い終了を告げる合図でもあった。

「ならこっちも腹を決めたぞ……お前を潰す。インキュバスとして、人間として再起不能レベルに潰して、追い出して、摩耶との時間を楽しむ。これは、決定事項だ!」

 下卑た視線を摩耶さんに向け、その後の展開を妄想するかのようににやけるヤツの顔が非常にムカつく。だがそれを見たのは一瞬のこと、すぐに絶望感に溢れる摩耶さんの顔が視界に入った。

 一瞬のこととはいえ、摩耶さんにそのような顔をさせたのは、素直に罪悪感が湧く。だから俺は可及的速やかな事態の収拾に、全力を注ぐことにした。

「何が決定事項だ。そんなの認められるわけが……」

「いいや、もう一回言ってやる――これは、決定事項だ」

 そう関山が言葉にしたと同時に、ヤツは指を鳴らし、同時に目を赤く光らせる。その瞬間、倉庫内の扉という扉が開かれ、なだれ込むように多くの人がヤツの周りに集まった。

 まずヤツの周りを取り囲むのは、ヤツとは倍くらいの体格差のある屈強な男性たちだ。ばっちりスーツを着こなすその姿は、完全にボディガードにしか見えなかった。腕っぷしに自信があるのは言うまでもない。

 そしてヤツの前に群がり俺と立ち向かおうとしているのは、インキュバスの目からしても妖艶と言える人間の美少女たちだ。それもその全てにおいて裸に近い際どい恰好をしていた。おそらくヤツのセフレか何かだろう。摩耶さん一筋でなければ、理性とおさらばバイバイするのは簡単なことであった。

 ただボディガードの男たちも、セフレの女たちも、一つだけ共通点がある。それはもれなく全員、目の光を失っていることだ。そこに自我が宿っているとは思えず、操られているようにしか見えない。関山が催眠魔法で彼らの意識を乗っ取っている、そうとしか思えない。

(口だけのヤツじゃあ、なさそうだ)

 それを見た俺の素直な感想だった。パッと見ただけでも操っている人間の数は30を超える。それだけの人数を同時に操ることなど、相当催眠魔法に卓越していないと不可能だ。だから少なくとも関山は、最低限の力しか持ち合わせていない弱いインキュバスではなかった。

 特に催眠魔法にはよほどの自信があるのだろう。全員自我を失うほど操られ、訓練などはしていなくともサキュバスの血が混じっている摩耶さんを一時的にでも操れた。傲慢気味なヤツの自信は、決して見栄からできたものではなかった。

 それが如実に表れているのか、ヤツは不敵な笑みと共に俺を視界に捉える。

「特別に、お前の全てを無に帰すプランを教えてやろう」

 何やら訳の分からない言葉も吐くが、俺の反応など気にする様子もなく、意気揚々と説明していく。

「まずそこにいる俺のセフレたちに、お前を性的に襲わせる。抗う術もなく、お前は彼女たちに呑まれていくはずだ。それを見た摩耶はきっと、お前を幻滅するはずだ。それこそが、お前から希望の全てを奪う、さいっこうのプランなのさ!」

 そう言いながらヤツはチラッと摩耶さんの方を見る。そんな摩耶さんは非常に不安そうな表情で俺を見つめていた。これと言って大げさな反応はしなかったものの、ヤツの言っていることは間違っていなかった。

「仮にお前が何かの事故でセフレたちから抜け出せたとしても、俺のボディガードたちがお前をボコボコにする。インキュバスは基本非力だから純粋な殴り合いでは人間レベル……それはお前もわかっているはずだ」

 そうだ、ヤツの言っていることは割と正しい。人間界での生活が長い俺でも、身体能力的には並みの人間と変わらない。そんな俺があんな肉体戦闘専門のようなボディガードに勝てるはずがない。これは火を見るよりも明らかだ。

 なるほど、確かにヤツのプランは完璧だ。おそらく敵対勢力がここに来る状況すら想定していたのだろう。じゃなきゃこの準備の良さは説明できない。

 人として、インキュバスとして、誰の目から見ても絶体絶命。そんな状況に、俺は置かれた。

「じゃあな、失烙印の雑魚インキュバス……全てに裏切られながら、死にな」

 そう言いながら、ヤツは手を振るった。それを合図とし、目の前の美少女たちが俺の方へと歩みを進めた。ゾンビのようなゆっくりとした動きではあるが、逃げられない状況でもある俺はそれに立ち向かうしかない。身体に接触したら最後、抜けられない沼にハマってしまう。


 だがヤツは一つだけ、大きな勘違いをしている。それは真相を知っているのであれば、致命的な勘違いだ……一体いつから、「自分の方が遥かに強い」なんて幻想を、ヤツは抱いてしまったのだろうか?


「……あ?」

 それが起きたのは、関山がセフレたちを解き放ってすぐのことだった。俺を襲おうと歩みを進めていた彼女たちの足が、不意に止まった。一人の例外もなく全員、しかも同じタイミングでだ。それが異常事態であることは、言うまでもない。

「おい! 何やってるんだ! さっさとヤツを襲え!」

 これには関山も動揺し、彼女たちに檄を飛ばす。しかし彼女たちは一向に動こうとしない。思い通りにならない現状に、さすがの関山も焦りを覚え始めたことだろう。

「二つ、お前に教えてやるよ」

 だから俺は真実を教えてやるため、わざとらしく二本指を立てる。そしてその瞳は、鮮血のような真っ赤な色をしていた。

「確かに俺は人間らしく生きていくとは決めた。だがインキュバスとしての力を捨てたわけじゃない。俺がこの力に頼るときは……絶対に守らないといけない人を、絶対に守るときだけだ」

 そう、俺はあくまでも人間らしく生きたと決めただけで、インキュバスとしての人生を捨てたわけじゃない。インキュバスとしての力を抜きにしたら、俺は無力だ。だから本当に力が欲しい時には、俺は迷うことなく夢魔族としての力を使う。まさに今のようにだ。

「そして何より。『関山諒が夢宮遊馬よりも、インキュバスとして優れている』……そんな間違った常識を、一体どこで覚えたのかな?」

「な、なに……⁉ 戯言を吐くな! お前みたいな失烙印持ちが、俺より優秀なわけ……!」

 耐えがたい現実に直面し、関山は声を荒げる。ドンドン余裕がなくなっていくその様子は、見ていて久しぶりに心の底から滑稽に感じた。

「じゃあこの状況をどう説明する?」

「そ、それは……」

「言いにくいなら言ってやるよ……お前の催眠魔法を、別の催眠魔法で上書きしたんだよ。要は支配権を奪ってやったんだ」

「なっ……! バカな……は、そうか、アイネか! ヤツが近くにいるんだな! クソっ、だましやがって! アイツほどの有能なサキュバスなら……」

「ちなみにアイネはここにはいないし、絶対に来ない。例えアイネの目的が済んだとしても、俺の用事が済むまで手を出すなって言ってあるからな……いい加減現実を見ろ」

 唯一思いつく可能性すら潰し、関山の表情が固まった。だが追い打ちをかけるように、俺は説明を続けていく。

「俺はお前みたいな、根っからのインキュバスじゃないし、なることも出来ない。俺はインキュバスとしての志という意味で、才能がない……ただそれだけの話だ」

「じゃ、じゃあ……この状況は、お前が作ったというのか⁉」

「あぁ、そうだ。それ以外考えられないだろ?」

「それこそあり得ない! お前みたいな雑魚が……雑魚が……っ⁉」

 怒りと苛立ちが渦巻き、訳がわからなくなる関山。しかしふとしたタイミングで彼の動きが止まり、食い入るように俺を睨む。それは純粋な怒りからではなく、あり得ない現実に直面した影響のものであった。

「そ、そういえば聞いたことがある……かつて魔法力では歴代最強の名を我が物にした天才インキュバスがいたと……そしてソイツが失烙印を押され、はぐれに堕ちたと、そんな噂を聞いたこと……ま、まさか!」

「よく知ってるじゃないか……正解だよ」

 ヤツが全部説明してくれたおかげで、俺が説明する必要がなくなった。自然と勝気をにじませた笑みを浮かべてしまう。

俺はあくまでも、夢魔族として相応しい存在ではないからはぐれに堕ちただけだ。その実、純粋な夢魔族の魔法的な才能は、自称天才と呼んでも差し支えないものだ。その実力はアイネからもお墨付きで、相手にしたくないほど。

 だからこの状況は決して偶然などではない、必然だ。俺は最初からわかっていた。ヤツが俺の本当の実力を知っているとは頭になかった……俺のことを、最初から全力で潰しに来なかった、アイツ自身の失態だ。

 まあいい、答え合わせの時間は終わりだ。こんなヤツに時間をかけるほど、俺も暇じゃない。

「摩耶さん!」

「は、はい……!」

 俺は声を張り、ヤツの後方で縛られている摩耶さんに声をかける。俺たちのやり取りに圧倒していたようだが、声をかけられてすぐに我を取り戻していた。縛られているから肉体的にも精神的にも疲弊していると思っていたが、まだ大丈夫なようだ。

「少しの間だけ、目を瞑っていてくれませんか?」

「え……う、うん……」

 手短に用件を伝えると、摩耶さんは疑問に感じながらも言う通りにしてくれた。それだけで俺は非常に助かった……今から広がる光景は、摩耶さんにはあまりにも酷だからだ。

「ありがとうございます……秒で終わらせますから」

 軽くお礼を口にする俺は、すぐ摩耶さんから視線を切った。1秒でも早く、この状況を終わらせるために。そのためには現状の把握が必須だ。

(夢魔族は関山のクソ野郎だけ、セフレが17人、ボディガードが13人。今この場にいないのを含めたら20人ってところ。仮に逃したとしても、アイネがどうにかしてくれる……)

 目を光らせながら、俺は人数の把握に努める。正確な人数の把握には、そこまで苦労しない。俺ほどのインキュバスとなれば、催眠魔法の対象を検索することも出来る。夢魔族ですら感知できないほどの低濃度のフェロモンをまき散らすことで成せる業だ。

 ちなみに普通の夢魔族は、こんな技は使えない。ここまでの技術を尖らせる必要はないからだ。大事なのは相手を支配できるほどに、フェロモンの濃度を深めるだけ。こんな技巧派的なことが出来るヤツも、しようと考えるヤツもいない。

 だが俺には出来る……俺がインキュバスとして誇れるところがそれしかなかったからだ。

「関山」

「なんだ……⁉」

 確実に状況が逆転されたことで、関山も慌てようは笑えるレベルだ。ただ今の俺はそんなレベルでは満足しない……ヤツには、自分がしでかしたことに対する報いを受けなくてはならない。そのために……ヤツの逃げ道は塞がせてもらう。

「見せてやるよ……インキュバスとして、夢魔族としての――格の違いってヤツを」

 赤く光った俺の瞳が、より深い赤色へと変わる。その瞬間、倉庫中に張り巡らせていた低濃度のフェロモンが爆発する。もちろん物理的に爆発したわけではない、濃度を爆発させたのだ。それすなわち……ここにいる人間全てが、その濃度の濃さに充てられるということになる。

それがどういう意味を示しているのか……説明するまでもない。

「はぁっ……! あぁっ……!」

「あ、ん……あっ……!」

 気づけばそこは人という名の獣が群がる、生殖の場と化した。俺のフェロモンを吸い込んだヤツのセフレとボディガードたちは、一瞬にして理性を失った。そして視界に異性が写り込んだその瞬間、磁石のように吸い付き、迷うことなく性交が始まった。

 衣服を脱ぎ捨てるのは当たり前、耳を澄ませば聞こえるのは嬌声のみ、鼻をへし折りたくなるほど性の匂いが充満し、気が付けば辺りから肉がぶつかり合う音が響く。他人の致しているところなど見たくもないから目も瞑りたいが、さすがにそういうわけにはいかなかった。

「な、何が……何がどうなっているんだ……⁉」

 この事態に、関山は狼狽えていた。ヤツの目と頭では、ここまでの展開を読むことは出来なかっただろう。まあ仕方ないことだ、俺にしかできないし、今まで人前で披露したこともない。アイネに事前に伝えてあるが、アイツですらドン引きするくらいだ。ヤツ如きが予測出来るはずがない。

 そんな関山自身は、至って正常な状態だった。メンタル的にはかなり動揺しているようだが、理性を失うほどではない。ただ目の前の異常事態を眺めることしかできなかった。

 しかしただ驚くわけにもいかず、動揺する姿を押し隠した関山がキッと俺を睨む。

「お、お前……何をした⁉」

「別に、特別なことはしていない……ただ、フェロモンの効果範囲と濃度を調整しただけだ。俺の周囲のフェロモンだけを濃くして、お前のお気に入りたちを行動不能にした。な、何も難しくないだろ?」

「……」

 ケロッとそう言って見せる俺。ただ向こうはそう素直に受け入れられず、ただ茫然と俺の言葉に耳を通すだけだった。やはりそんなまどろっこしいフェロモンの使い方など、ヤツには思いつかなかったのだろう。

 まあそれも、ヤツにはどうでもいいことだろう。どうせ今後役立つことはないだろうし。何はともあれ、ヤツは八方塞がりだ。俺に攻め入る矛も、ヤツ自身を守る盾も、ないに等しかった。

「……随分とあっけないものだったな」

「ちっ! クソがぁ……⁉」

 あっという間に立場が逆転し、俺は素直な気持ちを関山にぶつける。しかしそれが見下したとでも思われたのか、関山は激しい憤りを覚えたようだ。かなりの窮地に立たされているにも関わらず、食い掛ってくる姿勢を崩すことはなかった。

 キッと俺のことを睨むと、鋭く赤い眼光を俺に浴びせてくる。これは比喩表現ではなく、今まさに起きていることだ。眼光の正体は催眠魔法の兆候……つまり俺が上書きした催眠を、ヤツは再び上書きしようとしているみたいだ。

「無駄だ」

 短く一蹴した俺は、ヤツと同じようにきつく睨み返す。目が赤く光り、催眠魔法をかけ直す。それだけでヤツの体内から放たれていたフェロモンを全て喰らいつくす。もはやヤツが催眠魔法を仕掛けたこと自体、まやかしのようだった。

 再び襲い掛かる、抗えない現実。さすがに堪えたのか、関山も苦い表情を浮かべる。だが俺は容赦しない、一切の余裕すら与えずに叩き込む。

「お前がどれほど催眠魔法に自信を持っているかは知らない。だがこれだけは覚えとけ……俺とお前とでは、天と地ほどの実力差があるってことをよ」

「くっ……!」

 決定的な一言を言い放つと、関山も言い返すことはなかった。さすがに言い返すだけの気力は残っていなかったみたいだ。

 だがなくなっていたのは、反論の意だけだ。死ぬほど悔しそうな表情をしたと思ったら、脱兎の如くスピードで逃げ出そうとする。印なしとしての生活が長かったからか、やたら逃走の判断が早かった気がする……まあ関係ないが。

「逃がすか」

「くぅっ……⁉」

 フェロモンの濃度を濃くして、関山の動きを封じる。ヤツの全身からは一秒でも早く逃げたい意志が伝わってくるが、足が重くて動かない。そんな感覚に襲われていることだろう……まさにそうしているのだから、当然だけど。

 例え何があろうと、俺が関山を逃がすことはない。これ以上の犠牲者を増やさないために、この俺の気を晴らすためにも。

 フェロモンで身体の支配だけをした俺は、ゆっくりと関山の身体をこちらに向かせる。そして歪む関山の顔の下、胸倉の辺りをグッと掴んだ。

「……お前は罪を犯し過ぎた」

 ゆっくりと息を吐くかのように、声を出す。それと同時に、俺は強く左の拳を握った。

「夢魔族の禁忌なり人間界の犯罪に触れたこと、印なしとなって逃走したこと、逃走先で好き勝手行動したこと、か弱い女の子を容赦なく痛みつけたこと……そして!」

 口調が早くなり、言葉にも感情が乗っていく。その終着点は、長い時間溜め込み過ぎた俺の、関山というクズインキュバスに対する怒りの爆発だ。

「摩耶さんをぞんざいに扱ったこと……! 死に絶えるその瞬間まで、償いやがれ!」

「がふっ……‼」

 滅多に発しない精一杯の叫びと共に、俺は失烙印の刻まれた左手で関山の顔面を振り抜いた。フェロモンで動くことすらできない関山は、もろに俺の殴打を顔面で受けることになる。殴る直前に催眠魔法を解いたのもあって、ヤツの身体は面白いほどに吹っ飛んでいった。もはや受け身を取る余裕すらもなかった。いくら非力な夢魔族とて、嫌いなヤツを吹っ飛ばすだけの力だけは備わっているのだ。

 そしてヤツが吹っ飛ばされた先には、ヤツが最も信頼していたと思われるボディガードたちがいた。そいつらは他の奴らとは違い、ずっと関山の後ろに控えていた。ただもちろんのこと、俺のフェロモンに耐えられるだけの強靭な精神力を持っていたわけではない。敢えて俺がそういう風に操っていただけだ。

「いてぇ……お、おいお前たち! 無事なら早くアイツをぶっ殺せ!」

 ボディガードの存在に気付いた関山も、すぐに罵声に近い指示を飛ばす。しかしあまりにも慌てているのもあり、ボディガードの状態にまで気が回らない。そしてそれが、ヤツが最後に発した元気な言葉であった。

 その先の光景は……正直俺も直視したくはなかった。

「お、おい、お前ら……何やって……⁉」

 反応のなさに焦りを感じる関山の反応も一瞬のことであった。まだ話している最中の関山に向かって、ボディガードたちは特攻した。まるで甘い餌を取り合うカブトムシのように、その間には一片の猶予もなかった。

 関山の周りに群がったボディガードたちは、引きちぎる勢いで自分たちと関山の服を破く。突然のことに狼狽する関山であったが、すぐに味方であったボディガードたちに手足を拘束される。そして関山の目の前に立つ一人のボディガードが、関山に突貫工事を仕掛ける……そびえ立つ剣を、下半身に宿しながら。

「や、止めろ! 来るな! 来る……⁉」

 やっと事態を飲み込んだ時にはもう遅い。激しい拒絶反応を見せる関山のことなど無視し、各々が自らの欲望のままに振舞っていった。そこから先は見るに堪えないものになるので、視線を切っていく。

 難しいことは何もしていない。ただ催眠魔法から発したフェロモンで、側近のボディガードたちの性欲を極限まで高めただけだ……それこそ同性だろうとお構いないくらいに。

 ヤツは言っていた。インキュバスは基本非力で、純粋な筋力は並みの人間レベルしかないと。つまりそれは、関山があの状況から抜け出せないのと同義だ。さぞ苦しいことだろう……女性の柔らかな肌しか知らなかったインキュバスが、男のごつごつとした身体に挟まれているのだから。それがどれほどの苦痛なのかはわからないし、考えたくもなかった。

 何はともあれ、俺にもう関山を気にする理由はなかった。俺の催眠は、そう簡単に解けることはない。全てが終わった時には、関山の自我は失われていることだろう。それ以上手を加える必要はなかったし、そんな時間は俺にもなかった。

 関山から視線を外した俺は、あるところへと向かう。ただ俺がこの状況で向かう場所など、一つしかなかった。

「お待たせしました、摩耶さん。やっと全て片付きました」

 やや離れたところで放置されていた摩耶さんに、俺は優しく声をかける。俺のささやかな忠告をキチンと守ってくれていたのか、摩耶さんは今もギュッと目を閉じていた。

「え、うん……もう、目を開けていいの?」

「あぁ……どうでしょうか? もう少し待った方がいいかもしれません」

 後ろを振り向き倉庫内をぐるりと見渡した俺は、苦笑いと共にはぐらかす回答をした。というのもそこに広がっていたのは、本能に抗えず性欲発散に全力を尽くす、人間たちの原始的な姿であった。インキュバスの感性からしたら日常的とも捉えられそうな光景であるが、人間としての生活が長い摩耶さんにはさぞ厳しいことだ。

「ちょっと聞こえてるかもですけど……あの光景を素直に見たいとは思えないですし」

「あぁ……うん、そうだね。ちょっと遠慮したい、かな……」

 どんな光景なのか頭で想像したのか、摩耶さんは頬を赤らめる。それだけでも可愛いというのに、無駄に縛られている状態なだけにどことなく背徳感を覚える。ただ状況が状況なだけあって、そのような不埒な思考をする自分を戒める。

「摩耶さん……帰りましょうか。貴方の帰りを、黒羽も待っていますよ」

「そうだね。いっちゃんにはいっぱい迷惑かけたし、いっぱい心配させたと思うから……いっぱい謝らないと」

 助かったことに対する安堵の笑みを浮かべつつも、申し訳なさそうな表情が消えることはない。摩耶さんが謝る必要はどこにもない、むしろ被害者だから心配されて当然である……そういう状況だというのにそういう思考に至ってしまうところが、摩耶さんの真似できないような優しさの象徴なのだろう。俺には真似できないし、そんな彼女だからこそ惹かれたとだと実感した。

 何はともあれ、もうここにいる理由もない。後のことはアイネに任せるとして、俺たちはここを後にしよう。そういうつもりでいたのだが、ここで摩耶さんがあることに気付く。

「あ、でも……私、縛られたまま……遊馬君、ハサミとか切るもの持ってる?」

「いや、持っていないですね。こういう状況を想定して、用意しておくべきでしたね」

 数時間前の用意の悪い自分に対し悔しがる。ただあの状況ではそこまで気が回ることはなかっただろう、仕方ないと言われればそうとしか言えなかった。

 とはいえ結構固めに縛られているのか、俺の力ではどうすることも出来ない。倉庫内の誰かなら刃物とか持っていそうではあるが、性交に夢中な人しかいないので近づきたくもない。買いに行く選択肢もあるが、この状況下で摩耶さんから目を離したくはなかった。

 あらゆる可能性を考えた俺は、結局最終手段に出ることにした。

「摩耶さん、少し失礼しますね」

「えっ……きゃっ⁉」

 摩耶さんの返事を待つことなく、俺は摩耶さんを抱きかかえた。手足が縛られているから、必然的に抱えるのは前の方。つまりはお姫様抱っこと呼ばれる持ち上げ方をしていた。両腕全体に摩耶さんの身体の柔らかさが伝わってくるから、つい緊張してしまう。ただ摩耶さんの身体が結構軽いものだから、何とか持ち上げることもできた。

 ただ何気に、ここまで摩耶さんと身体的に接触したのは初めてかもしれない。今までは壁ドンなり床に押し倒したりとかはしたが、実際に彼女に触れたことは一度もなかった。その昔、アイネに抱いてみろと言われて無理難題と思っていた時期はあったが、まさかこのような形で達成できるとは俺も思っていなかった。

 ただなんで今になって、摩耶さんに触れてもヘタレないのか。それがわからない。状況が状況だから、と言ってしまえばそれまでだが……まあ今考察すべき問題でもないか。

 一度思考を断ち切って、俺は腕の中にいる摩耶さんと向き合った。

「このまま我が家へと連れて行きます。家ならハサミも包丁もあるので、そのロープを切断できますよ」

「で、でもそれだと……目立っちゃわない?」

「大丈夫です。出来るだけ人気のない道を通りますし……変身魔法を使えば噂になることはありません」

 摩耶さんが懸念する問題は、俺にとっては問題ではない。迅速に回答し、摩耶さんの不安を取り除かせる。それに万が一の時は、俺がインキュバスとして躍起すればよい。摩耶さんのためなら、一瞬夢魔族になることくらい、どうってことはなかった。

 ただ夢魔族に関する単語が出た瞬間、摩耶さんの表情に影がかかった。

「……やっぱり遊馬君、人間じゃないんだね。そしてきっと、私も」

「……はい」

 誤魔化すことなく、俺は正直に答えた。関山にどれだけ事情を聞かされたのかまでは知らないが、今の一連の流れを見て過度に驚かないところを見ると、だいたいの事情は伝わっていると思われる。ならばもう彼女の前では俺の正体を偽らない、そういうことにしよう。

 しかし摩耶さんの内なる気持ちは別だ。事情はどうであれ、俺は摩耶さんを騙し続けてきたのだ。そこに対して憤りを覚えるのなら、何発か殴られる覚悟は出来ている。殴って摩耶さんの気が晴れるなら、俺は本望だ。

 ただ摩耶さん自身は、そこまで怒ってはいなさそうだ。どちらかといえば、自分の正体に困惑している気持ちの方が大きいのか。どちらにせよ、俺を叱責する余裕はないと見える。

「……あ、あのさ。遊馬君。あとでいいから……ちゃんと教えてね。遊馬君のこととか、私の正体とか、全部」

「えぇ、もちろんです」

 間を開けることなく、俺は応答する。聞かれるまでもなく、それは俺の義務だと思っている。例え摩耶さんに嫌われようとも、彼女はこれからもサキュバスとしての血を身体に流しながら生きていく。ならそのための知識の提供は、他でもない俺の役目であった。

 まあ、何はともあれ……それはもう少し先の話だ。後で腹を割って摩耶さんと話し合わなければならないだろう。だが今この瞬間だけは、摩耶さんを助けられたことに対して、大いに喜ぼうではないか。そのくらいなら、バチは当たらないだろう。

「では摩耶さん。今度こそ……帰りましょうか」

「――うん!」

 俺の腕の中で可憐に笑う摩耶さんの表情を、俺は一生忘れないだろう。

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